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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第20話 女医の忠告と、俺が守りたかったプライド

 七月の終わり。


 大阪の空は、ようやく梅雨明けを感じさせる青さを取り戻していた。


 大野健太は、父親の正一を乗せた車を運転し、病院へ向かっていた。


 助手席の正一は、膝の上に診察券と薬の説明書を置いている。


「親父、ふらつきはどうなん?」


「前よりはましやな。たまに、立ち上がったときに少し気になるくらいや」


「記録は?」


「ほら、ここに書いとる」


 正一は、小さなメモ帳を見せた。


 日付と時間、症状が出たときの状況が、几帳面とは言えない字で記されている。


「おお、ちゃんと書いてるやん」


「誰かさんに、ちゃんと記録せえって言われたからな」


「誰かさんって俺かいな」


「ほかに誰がおるんや」


 二人は笑った。


 健太は、少しうれしかった。


 父親の健康について、自分ができることは多くない。


 それでも、病院に付き添い、話を聞き、必要なことを一緒に確認する。


 それくらいならできる。


 以前の健太は、親の言うことを聞いているだけで、自分から何かをしようとはあまり考えなかった。


 最近は、少しずつ変わってきた気がする。


 もっとも、それで立派な人間になったわけではない。


 恋愛経験はゼロ。


 女性と二人で食事に行ったこともない。


 好きな女性ができても、どう話しかければいいのか分からない。


 それでも、何もせずに悩んでいた頃よりは、ほんの少し前に進んでいる。


「何をにやにやしとるんや」


「別に、にやにやしてへんわ!」


「前の車、見とけよ」


「分かってる!」


 健太は慌てて前を向いた。


 父親の言うとおりだった。


 考え事をするのはいいが、運転中に気を取られてはいけない。


 まずは目の前のことをきちんとやる。


 それもまた、最近の彼が覚えようとしていることだった。


     *


 病院に到着すると、二人は受付を済ませて待合室で順番を待った。


 健太はスマートフォンを取り出し、野球チームのグループチャットを開いた。


 田村からメッセージが届いていた。


『今週末、久しぶりに集まらへんか? 野球はまだ様子見やけど、飯くらい行こうや』


 中村がすぐに反応する。


『飯なら行く。練習は暑いから嫌や』


 石田も続いた。


『飯だけでもええけど、食べ放題にしてくれ』


 藤井が返す。


『お前ら、恋愛強化計画はどうなってんねん』


『食欲も立派な欲望や』


 石田の返答に、健太は思わず吹き出した。


 隣に座っていた正一が、ちらりと見てくる。


「何がおもろいんや」


「いや、友達がしょうもないこと言うててな」


「お前の友達は、昔からしょうもないことばっかり言うとるな」


「親父、それは否定できへん」


 健太は笑いながら返信した。


『今、親父の病院や。終わったら返事する』


 そのとき、診察室の前から看護師が顔を出した。


「大野正一さん、どうぞ」


 健太はスマートフォンをしまい、父親と一緒に立ち上がった。


     *


 診察室には、井川さちこがいた。


 前回と同じように、机の上にはカルテと書類が並んでいる。


 さちこは二人が入ってくると、正一に向かって言った。


「大野さん、こんにちは。その後、ふらつきはどうですか?」


「前よりはましです。記録も持ってきました」


「ありがとうございます。見せてください」


 正一がメモ帳を差し出す。


 さちこは一つずつ目を通し、症状が出た時間や状況を確認した。


「なるほど。立ち上がったときに出ることが多いんですね」


「そうです」


「では、立ち上がるときは急がず、いったん座った状態からゆっくり動くようにしてください。薬については、今日の状態を確認したうえで判断します」


「分かりました」


 診察は、順調に進んでいた。


 健太は横で話を聞きながら、必要なことをメモしていた。


 ところが、さちこが次の質問をしたとき、正一は少し考え込んだ。


「最近、食事の量や水分を取る量に変化はありますか?」


「いやあ……。どうやったかな」


「親父、朝は前より食べる量が減ってるやろ。昼も、暑いからってお茶ばっかり飲んでるときあるやん」


 健太は、思い出したことをそのまま口にした。


「それと、夜もたまに食欲がないって言うてます」


 さちこは、健太の話を聞いたあと、正一に目を向けた。


「大野さん、ご自身ではどう感じていますか?」


「そうですね……。食べる量は、少し減ったかもしれません」


「水分は、どれくらい取っていますか?」


 正一は、自分の言葉で説明し始めた。


 さちこは、それを聞いてから、健太に向き直った。


「息子さん、少しよろしいですか」


「はい?」


「お父さまのことをよく見ていらっしゃるのは分かります。ただ、まずはご本人に質問して、ご本人の答えを聞きたいんです」


 健太は、言葉を失った。


「……え?」


「ご家族が気づいた変化は大切な情報です。でも、ご本人がどう感じているかも同じように大切です。先回りして答えてしまうと、ご本人が話す機会を失ってしまいますから」


 さちこの声は、怒っているようには聞こえなかった。


 しかし、言葉にははっきりとした線引きがあった。


「もちろん、答えにくそうなときや、忘れていることがあるときは、補足していただいて構いません。まずは少し、待ってあげてください」


 健太は、何も言えなかった。


 自分は、父親の役に立とうと思っていた。


 父親が困らないように、代わりに説明した。


 質問にすぐ答えられないなら、自分が補えばいい。


 それが親切だと思っていた。


 けれど、さちこから見れば、違う部分もあったのだろう。


 父親が自分の言葉で話す前に、自分が答えてしまった。


 父親のことを考えていたつもりで、父親が話す時間を奪っていたのかもしれない。


「……すみません」


 健太は、頭を下げた。


「いえ。責めているわけではありません。ご家族が支えてくださるのは、とても大切なことですから」


 さちこは、カルテに視線を戻した。


「ただ、支えることと、代わりに決めることは違います。その点だけ、覚えておいてください」


 健太は、うなずくしかなかった。


     *


 診察が終わり、二人は廊下に出た。


 健太は、父親の顔を見た。


「……親父、すまんな」


「何がや?」


「さっき、俺が勝手に答えてもうたやろ」


 正一は、少し考えてから言った。


「まあ、助かった部分もあるで。食欲のことなんか、俺もちゃんと説明できてへんかったしな」


「でも、先生に言われたやん。俺が先に答えすぎやって」


「そうやな」


 正一は、廊下の先を見ながら続けた。


「お前は昔から、何かあるとすぐに答えを出そうとするところがあるな」


「そうか?」


「そうや。人が困ってたら助けようとする。それは悪いことやない。でも、助けることに夢中になって、相手が何をしたいのかを聞くのを忘れることがある」


 健太は黙った。


 父親の言葉が、胸に引っかかった。


「……俺、そんなつもりはなかったんやけどな」


「そんなつもりがないことくらい、分かっとる」


 正一は、穏やかな声で言った。


「悪気がないことと、相手にとって都合がええことは、別やからな」


 健太は、顔を上げた。


 その言葉は、思っていた以上に重かった。


 悪気はなかった。


 父親のためを思っていた。


 それでも、相手が望んでいることと、自分がよかれと思ってすることが違う場合はある。


 恋愛でも、同じなのだろうか。


 女性が親切にしてくれたら、もっと話したいと思う。


 笑顔を向けてくれたら、好かれているのではないかと期待する。


 自分の気持ちを伝えたいと思ったら、相手も聞いてくれるはずだと考える。


 だが、相手には相手の都合がある。


 自分が話したいからといって、相手が話を聞きたいとは限らない。


 自分が親しくなりたいからといって、相手も同じ距離まで近づきたいとは限らない。


 それを理解することは、思っていたよりも難しかった。


「親父」


「何や?」


「俺、もうちょっと、人の話をちゃんと聞けるようにならなあかんな」


「そう思うんやったら、やってみたらええ」


 正一は、そこで話を終えた。


 説教を続けるつもりはないらしい。


 健太は、そのことにも少し救われた。


     *


 会計を済ませ、薬の受け取りについて確認したあと、二人は病院の玄関へ向かった。


 その途中、健太は廊下の向こうに、さちこの姿を見つけた。


 彼女は看護師と話しながら、別の患者のカルテを確認していた。


 看護師は、井川真由美という名札をつけていた。


「先生、次の患者さん、検査結果がそろいました」


「分かりました。確認してから呼びます」


 さちこは、手元の書類に目を通している。


 真由美が何かを尋ねると、さちこは短く答えた。


 二人のやり取りには、仕事上の信頼が感じられた。


 健太は、思わず足を止めた。


 さちこは、患者に対しても、同僚に対しても、必要なことをはっきり伝えている。


 誰にでも同じように愛想よく振る舞うわけではない。


 それでも、相手の話を聞いていないわけではなかった。


 むしろ、話を聞いたうえで、自分の判断を伝えているように見えた。


 そのとき、さちこが顔を上げた。


 健太と目が合う。


 彼女は、軽く会釈した。


 健太も会釈を返した。


 それだけだった。


 さちこはすぐに仕事へ戻った。


 健太は、少しだけ拍子抜けした。


 だが、すぐに自分を戒めた。


 挨拶をしたからといって、何か特別な意味があるわけではない。


 相手は仕事中だ。


 自分に気を遣って、話しかける必要もない。


 それなのに、心のどこかでは、もう少し何かを期待していた。


 その事実が、少し恥ずかしかった。


     *


 帰りの車内。


 正一は、助手席で窓の外を眺めていた。


「さっきの先生、厳しい人やったな」


 健太が言うと、正一は笑った。


「そうか? 普通のことを言うてくれただけやろ」


「まあ、そうやけど」


「お前、怒られたと思ったんか?」


「怒られたとまでは思ってへんけど……」


 健太は、言葉を探した。


「自分では、親父のためにやってるつもりやったからな」


「それは分かっとる」


「でも、相手がどうしたいかを聞く前に、俺が動いてしまうことがあるんやなって」


 正一は、少しだけ息子のほうを向いた。


「気づけたんなら、ええんちゃうか」


「そんな簡単なもんかな」


「簡単やったら、誰も苦労せえへんわ」


 正一は笑った。


「人間、自分が正しいと思ってるときほど、相手の話を聞かんようになることがあるからな」


 健太は、ハンドルを握りながらうなずいた。


 自分は、正しいと思っていた。


 父親のために動くこと。


 女性に親切にすること。


 相手を喜ばせようとすること。


 それらは、決して悪いことではない。


 けれど、善意であっても、相手の気持ちを確認しなければ、独りよがりになることがある。


 健太は、そのことを忘れないようにしようと思った。


     *


 その夜。


 健太は、久しぶりにドリーム・エース・ナインのメンバーと電話で話した。


 田村、藤井、中村、石田が参加している。


「で、健太。病院はどうやったんや?」


 田村が尋ねた。


「親父の薬のことは、ちゃんと相談できたで。ただ、俺が先生に注意された」


「何したんや、お前」


 中村が笑う。


「別に悪いことしたわけちゃうねん。親父が質問に答えようとしてる途中で、俺が先に答えてもうてな」


「お前、また先走ったんか」


 藤井が言った。


「またって何やねん」


「いや、野球でもそうやろ。ボールが来る前に、もう投げる先を決めてる」


「……それは、そうかもしれん」


 健太は反論できなかった。


 石田が、少し真面目な声で言った。


「でも、俺も似たようなことあるで。相手が何か言う前に、こうしたら喜ぶやろって勝手に考えて、余計なことしてまう」


「お前の場合、食べ物を差し入れたら喜ぶと思って、毎回弁当を二個買うんやろ」


 田村が突っ込む。


「それは、俺が食いたいだけや!」


 全員が笑った。


 健太も笑った。


 しかし、笑いが落ち着いたあと、藤井が言った。


「健太。相手のために何かしたいと思うこと自体は、ええことやと思うで。でも、何をしてほしいかは、相手にしか分からんこともあるやろ」


「うん」


「だから、聞くんや。勝手に決めずにな」


 健太は、静かにうなずいた。


「……そうやな」


 田村が話を引き継いだ。


「恋愛も野球も、相手がおるんやからな。自分一人で完結するもんちゃう」


「田村、お前、たまにはええこと言うな」


 中村が言った。


「たまには、は余計や!」


 再び笑いが起こった。


 電話を切ったあと、健太はノートを開いた。


 そして、今日の出来事を振り返りながら、三つの言葉を書いた。


『助けたいと思ったら、まず相手の話を聞く』


『相手のためにすることと、自分が正しいと思うことは、必ずしも同じではない』


『善意を理由に、相手の意思を飛び越えない』


 書き終えた健太は、ペンを置いた。


 自分が変わったと胸を張れるほど、何かができたわけではない。


 女性と親しくなったわけでもない。


 恋人ができたわけでもない。


 相変わらず、恋愛経験はゼロのままだ。


 それでも、自分の行動を振り返ることはできるようになってきた。


 失敗したとき、相手のせいにする前に、自分に何ができたのかを考える。


 それだけでも、以前とは違う。


 健太は、ノートを閉じた。


     *


 七月最後の日曜日。


 健太は、久しぶりに実家の近所を散歩していた。


 新型コロナウイルスの影響は、まだ生活のあちこちに残っていた。


 人が集まる機会は減り、地域の行事も以前のようには開催されない。


 野球チームの活動も、思うように進まなかった。


 そんな中で、健太は自分にできることを探していた。


 特別なことをする必要はない。


 誰かを助けたからといって、すぐに感謝される必要もない。


 誰かと話したからといって、仲良くならなければいけないわけでもない。


 目の前にいる人を、目の前にいる一人の人間として見る。


 それが、今の自分にできる最初の一歩なのだろう。


 商店街の角を曲がったところで、健太は見覚えのある女性を見つけた。


 佐藤真紀だった。


 彼女は、買い物袋を片手に持ち、店先で店員と話していた。


 健太は、声をかけようとして足を止めた。


 今なら、自然に挨拶できるかもしれない。


 以前なら、彼女に話しかけることばかり考えていた。


 何を言えば好印象なのか。


 どうすれば自分を覚えてもらえるのか。


 連絡先を交換できないか。


 そんなことばかり考えていた。


 しかし、今は少し違う。


 彼女には彼女の時間がある。


 話しかけること自体は悪くない。


 ただし、相手の様子を見て、話せる状況かどうかを考える必要がある。


 真紀は店員との話を終え、買い物袋を持ち直した。


 健太は、ゆっくり近づいた。


「あ、佐藤さん。こんにちは」


 真紀が振り返った。


「あ、大野さん。こんにちは」


 彼女は、いつものように自然な笑顔を見せた。


「今日は買い物ですか?」


「はい。ちょっと日用品を買いに。大野さんも?」


「俺は散歩です。家におると、どうしても運動不足になるんで」


「そうですよね。暑いから、気をつけないと」


「ほんまですね」


 二人は、少しだけ笑った。


 会話は、それだけだった。


 真紀は帰る方向を確認し、健太に会釈した。


「では、また」


「はい。また」


 彼女は歩いていった。


 健太は、その背中を見送った。


 もっと話したいと思った。


 もう少し一緒に歩けたら。


 何か共通の話題を見つけられたら。


 そんな気持ちは、確かにあった。


 しかし、彼女が立ち去ったあと、健太は無理に追いかけなかった。


 話が終わったのなら、それでいい。


 次に会ったとき、また挨拶すればいい。


 それだけのことだった。


 健太は、歩き出した。


 まだ、恋愛の試合でヒットを打ったわけではない。


 だが、相手が打席に立っていることを忘れずに、勝手に走り出さない。


 そんな野球の基本を、彼はようやく人間関係にも当てはめようとしていた。


 その日の夜、健太のスマートフォンに田村からメッセージが届いた。


『次の日曜、まる福に集合。今度こそ、恋愛強化計画の具体策を決めるぞ』


 続けて、藤井からもメッセージが届く。


『健太、今回は自分の目標だけじゃなく、相手の気持ちも考えた作戦にしような』


 健太は、短く返信した。


『分かった。俺も、ちゃんと考えてみる』


 画面を閉じ、窓の外を見る。


 夏の夜は、まだ蒸し暑かった。


 恋愛経験ゼロの三十五歳。


 その現実は、何も変わっていない。


 しかし、変わり始めたものが一つだけあった。


 それは、女性にどう思われるかばかり考えていた健太が、少しずつ、女性がどんな人なのかを考えようとし始めたことだった。


 そして次の日曜日。


 大阪の小さな食堂「まる福」で、ドリーム・エース・ナインの男たちは、それぞれの恋愛観と向き合うことになる。


 そこで健太は、誰よりも自信満々だった男が、恋愛においては誰よりも臆病だったという事実を知ることになるのだった。

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