第19話 四十二歳の女医は、俺に愛想笑いをしなかった
七月第三週の金曜日。
大野健太は、父親の正一と一緒に病院を訪れていた。
梅雨明けは、まだ先らしい。
朝から空は重たく、病院の駐車場に降り立った瞬間、湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。
「親父、今日は何を聞くんやった?」
「薬を飲んだあと、少しふらつくことがあるんや。先生に相談しようと思ってな」
「それ、早く言うてくれたらよかったのに」
「大げさにするほどのことでもないと思ってたんや」
「そういうのが一番あかんねん。気になることは、ちゃんと言わな」
正一は、息子の顔を見た。
「お前、最近、偉そうになったな」
「いや、普通のこと言うてるだけやろ!」
「昔は、お前のほうが何でも黙って我慢してたやないか」
健太は返事に困った。
確かに、以前の自分なら、父親の言葉をそのまま受け入れていたかもしれない。
最近は、分からないことを確認する大切さを、少しずつ意識するようになっていた。
野球でも、仕事でも、人間関係でも。
自分の判断だけで進めるのではなく、必要なことを相手に尋ねる。
その当たり前のことが、案外難しい。
「ほな、受付してくるわ」
健太は診察券を持って、受付へ向かった。
*
受付を済ませて待合室に戻ると、正一が椅子に座っていた。
「今日は、どの先生なん?」
「井川先生や」
「井川先生?」
「前にも診てもろた先生や。女の先生やけど、結構はっきり言う人やで」
「へえ」
健太は、特に気に留めなかった。
病院にはさまざまな医師がいる。
優しく説明する人もいれば、必要なことを端的に伝える人もいる。
患者にとって大切なのは、愛想のよさだけではなく、症状や治療についてきちんと説明してもらえることだろう。
やがて、看護師が二人の名前を呼んだ。
「大野正一さん。診察室へどうぞ」
健太は父親と一緒に診察室へ入った。
そこにいたのは、白衣を着た女性だった。
年齢は四十代前半くらいだろうか。
髪はきちんとまとめられ、机の上にはカルテと書類が整然と並んでいる。
彼女はパソコンの画面を確認してから、正一に目を向けた。
「大野さん、こんにちは。今日は、薬を飲んだあとにふらつくことがあると伺っています」
「はい。少し、そういうことがありまして」
「いつ頃からですか?」
「一週間ほど前からです」
「毎回ですか。それとも、特定の時間帯ですか?」
医師は、落ち着いた口調で質問を続けた。
正一が答える。
健太は隣で、話を聞いていた。
医師は途中で何度か質問を挟み、症状の出方や生活習慣について確認した。
その様子には、余計な世間話がほとんどなかった。
必要なことを聞き、必要なことを説明する。
健太が想像していた医師の診察そのものだった。
「分かりました。薬の影響も含めて確認しましょう。自己判断で服用を中止せず、症状が出たときの時間や状況を記録してください」
「はい」
「強いふらつきが出た場合や、意識を失う、胸の痛み、息苦しさなどがある場合は、すぐに医療機関へ相談してください」
医師は、注意事項を説明した。
そのあと、正一の生活について確認し、今後の方針を話した。
健太は、必要なことをメモしておこうと思い、スマートフォンを取り出した。
すると、医師がこちらを見た。
「ご家族の方ですか?」
「あ、はい。息子です」
「付き添い、ありがとうございます。お父さまの症状について、何か気づいたことはありますか?」
健太は少し驚いた。
自分にも質問されたからだ。
「そうですね……。本人は、あんまり大したことないって言うてますけど、前より立ち上がるときに慎重になった気がします」
「なるほど。ご本人が気づいていない変化をご家族が把握していることもありますから、そうした情報は助かります」
医師は、健太の話を聞いてカルテに記録した。
そして、短くうなずいた。
「ありがとうございます」
健太は、少しうれしくなった。
自分の話を聞いてもらえた。
役に立てた。
その感覚が、胸の奥に広がった。
しかし、次の瞬間、医師は視線をカルテに戻した。
「では、次回まで記録をお願いします。何か変化があれば、予定日を待たずに相談してください」
診察は、それで終わった。
医師は最後まで落ち着いた口調だった。
愛想笑いを浮かべることも、必要以上に親しげに話しかけることもなかった。
健太は、診察室を出る直前に、彼女の名札を見た。
井川さちこ。
それが、彼女の名前だった。
*
診察室を出たあと、正一は会計に向かった。
健太は廊下を歩きながら、さきほどの診察を思い返していた。
「親父、先生、結構はっきり言う人やな」
「そうやろ」
「でも、説明は分かりやすかったわ」
「余計なことを言わんからな。必要なことはちゃんと言うてくれる」
正一は、満足そうにうなずいた。
「先生も忙しいんや。こっちも聞きたいことを整理して行かなあかん」
「確かに」
健太は、少し考えた。
井川さちこは、患者に対して必要なことを伝えていた。
こちらの話も聞いてくれた。
しかし、それ以上のことはしなかった。
自分に愛想よくする必要がないからだろう。
それは当然のことだ。
なのに、健太は心のどこかで、もう少し親しみやすい態度を期待していたことに気づいた。
相手が優しくしてくれたらうれしい。
笑顔を向けてくれたら安心する。
自分に興味を持ってくれたら、もっと話したいと思う。
そうした感情は自然なものだ。
だが、相手が自分の期待どおりの態度を取らなかったからといって、相手が冷たい人間だと決めつけるのは違う。
健太は、心の中で自分に言い聞かせた。
愛想笑いをしなかったからといって、嫌われているわけではない。
そもそも、好かれるか嫌われるかを考えるような関係ですらないのだ。
「何を考えとるんや?」
正一に尋ねられ、健太は顔を上げた。
「いや、何でもない」
「また女性のことか?」
「違うわ!」
「声が大きいぞ」
「親父!」
正一は笑いながら、会計窓口へ向かった。
健太は、その後ろを歩いた。
*
帰宅後。
健太は、今日の診察について母親に説明した。
「薬を飲んだあと、ふらつくことがあるみたいや。次までに、いつ症状が出たか記録しておくんやって」
「そうなの。お父さん、ちゃんと記録できるかしら」
「俺も確認するわ」
美代子は、ほっとしたように息をついた。
「ありがとうね。健太が一緒に行ってくれると助かるわ」
「別に、それくらいええよ」
健太は答えた。
母親から感謝されると、やはりうれしい。
自分が家族の役に立っていると感じられるからだ。
だが、以前よりも少しだけ、自分の気持ちを冷静に見られるようになっていた。
感謝されたい気持ちはある。
しかし、感謝されるために手伝っているわけではない。
少なくとも、そうありたいと思っていた。
夕食後、健太は自室でノートを開いた。
今日の出来事を振り返る。
井川さちこ。
四十二歳くらいの女性医師。
落ち着いた話し方で、必要なことをはっきり伝える。
患者の家族の話にも耳を傾ける。
ただし、必要以上に親しく接するわけではない。
健太は、そんな印象を書き留めた。
そのあと、少し考えてから、もう一行付け加えた。
『相手が自分の期待どおりに振る舞わなくても、それだけで相手を判断しない』
書き終えたとき、スマートフォンが震えた。
藤井から個別メッセージが届いていた。
『最近どうや? 恋愛強化計画、進んでるか?』
健太は返信を打った。
『進んでるんかどうか分からん。今日、父親の病院に行ってきた』
『お、例の看護師さんに会えたんか?』
『会ったけど、今日は別の先生やった』
『ほう』
『四十二歳くらいの女医さんでな。結構、はっきりものを言う人やった』
藤井から、すぐに返信が来た。
『それで?』
『それでって何やねん』
『お前のことやから、何か考えたんやろ』
健太は苦笑した。
確かに、考えた。
自分に優しくしてくれる女性を求めているのか。
それとも、自分の期待を満たしてくれる女性を求めているのか。
その違いを、最近は意識するようになっていた。
『必要なことをちゃんと説明してくれる先生やった。愛想笑いとかはせえへんけど、こっちの話も聞いてくれた』
『ええ先生やん』
『そう思う』
『で、恋愛対象として気になったんか?』
健太は、しばらく画面を見つめた。
正直に言えば、少し気になった。
年上の女性。
自分の考えをはっきり持っている人。
こちらに媚びることなく、必要なことを伝える人。
そういう女性に対して、これまでとは違う興味が湧いたのは確かだった。
しかし、それが恋愛感情なのかと聞かれると、分からない。
ただ、印象に残った。
それだけだ。
『まだ分からん。今日、一回会っただけやしな』
健太が返すと、藤井から短い返信が来た。
『その答えでええと思うで』
健太は、その言葉を読んで、少し笑った。
分からないことを、無理に答えにしない。
それが、最近の自分の課題だった。
*
数日後。
健太は、工場での休憩時間に、同僚の木村亮と話していた。
「そういや、お前、最近ちょっと変わったな」
木村が言った。
「何が?」
「前より、人の話を聞くようになった気がする」
「そうか?」
「前は、誰かが話してる途中で、自分の話を始めることが多かったやろ」
「……そんなことあったか?」
「あるある。俺が子どもの話してるのに、途中からお前の高校野球の話になったりな」
「それは……悪かった」
健太は素直に謝った。
木村は、少し驚いた顔をした。
「お、おう。いや、別に責めてるわけちゃうで」
「いや、実際そうやったなら、気をつけなあかんと思って」
木村は、しばらく健太を見ていた。
「何かあったんか?」
「別に。ちょっと、自分のことを考えてるだけや」
「ええことやと思うで。俺も、人の話を最後まで聞けてるかって言われたら、自信ないしな」
木村は、缶コーヒーを飲んだ。
「結婚してても、相手のことが全部分かるわけちゃうからな。うちの嫁とも、いまだに意見が合わんことあるし」
「そうなんか」
「当たり前やろ。別々の人間なんやから」
木村は笑った。
「ただ、意見が合わんときに、相手が間違ってるって決めつけるんやなくて、何でそう考えるんか聞くようにはしてる。毎回できるわけちゃうけどな」
健太は、うなずいた。
恋愛経験があるかどうか。
結婚しているかどうか。
それだけで、人間関係の正解が分かるわけではない。
誰だって、失敗しながら覚えていくのだろう。
「俺も、そういうふうになりたいわ」
「ほな、まずは俺の話を最後まで聞いてくれ」
「今、聞いてるやろ!」
「いや、さっきからお前、時計ばっかり見てるやん」
健太は、慌てて腕時計から目を離した。
「……すまん」
「ほらな」
木村は笑った。
健太も笑った。
まだまだ、練習が必要だった。
*
その夜。
健太は、布団に入ってから、ふと考えた。
自分は、優しい女性が好きなのだろうか。
それとも、自分に優しくしてくれる女性が好きなのだろうか。
似ているようで、違う。
優しい女性というのは、他人への接し方や、物事の考え方を含めた、その人自身の特徴だ。
一方、自分に優しくしてくれる女性というのは、自分が受け取る態度を基準にしている。
自分に親切にしてくれるから好きになる。
自分を褒めてくれるから好きになる。
自分の話を聞いてくれるから好きになる。
もちろん、そうしたことが好意につながるのは自然だ。
しかし、それだけでは相手のことを知ったことにはならない。
相手がどんな価値観を持っているのか。
何を大切にしているのか。
何が苦手で、何を嫌だと思うのか。
自分と意見が違ったとき、どう考える人なのか。
そうしたことを知らないまま、自分にとって都合のいい部分だけを見ていたら、相手を好きになっているつもりで、実際には自分の理想を好きになっているだけなのかもしれない。
健太は、枕元のスマートフォンを手に取った。
ノートに書いた言葉を、もう一度読み返す。
『相手が自分の期待どおりに振る舞わなくても、それだけで相手を判断しない』
その言葉を見つめていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
自分は、まだ誰かを深く知ったことがない。
誰かと長い時間を過ごし、意見が食い違い、互いの欠点を知り、それでも一緒にいたいと思った経験がない。
だからこそ、これから人と関わる中で、少しずつ学んでいくしかないのだろう。
健太はスマートフォンを置いた。
恋愛の試合は、まだ始まっていない。
けれど、自分がどんな相手を求めているのか。
自分が相手に何を期待しているのか。
それを考えることも、試合に向けた準備の一つなのかもしれなかった。
そして、七月の終わり。
健太は再び父親の診察に付き添うことになる。
そこで井川さちこと、もう一度顔を合わせる。
ただし、次に彼女が健太に向ける言葉は、彼が期待するような優しいものではなかった。
そして健太は、相手を尊重することと、相手に気に入られることの違いを、もう一度考えさせられることになる。




