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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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18/71

第18話 親切な女性と、俺の下心

 七月第二週の土曜日。


 午前八時四十分。


 大野健太は、地域の買い物支援活動が行われる集会所に到着した。


 空は薄曇りだった。


 梅雨はまだ明けていない。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、歩いてきただけで背中に汗がにじんでいた。


「おはようございます」


 集会所の入り口で、健太は頭を下げた。


「あら、大野さん。おはようございます」


 受付にいた女性が笑顔で応じた。


 健太は、以前ここで一緒に活動した佐藤真紀が来ているか、さりげなく周囲を見回した。


 いない。


 まだ到着していないだけかもしれない。


 そう思った瞬間、自分が何を考えているのかに気づいた。


 真紀に会いたい。


 できれば、少し話したい。


 そして、あわよくば、自分に好印象を持ってほしい。


 そんな気持ちが、心のどこかにある。


「……あかんな」


 健太は小さくつぶやいた。


 誰かに会いたいと思うことは、悪いことではない。


 しかし、活動に参加する目的が、いつの間にか真紀に会うことだけになってしまったら、本末転倒だ。


 健太は気持ちを切り替え、受付で名簿に名前を書いた。


「今日は何人くらい参加されますか?」


「十人くらいですね。高齢の方から買い物の依頼も届いているので、何組かに分かれて回っていただく予定です」


「分かりました。できることがあれば、何でも言ってください」


 口にしてから、健太は少しだけ考えた。


 何でも。


 便利な言葉だ。


 しかし、本当に何でもできるわけではない。


 できないことまで引き受けてしまえば、結局、誰かに迷惑をかけることになる。


「……できる範囲で、手伝います」


 健太は言い直した。


 受付の女性は、穏やかにうなずいた。


「ありがとうございます。無理のない範囲でお願いしますね」


 その言葉を聞いて、健太は少し安心した。


 誰かの役に立つことと、無理をしてまで自分をよく見せることは違う。


 今日の活動では、そのことを忘れないようにしようと思った。


     *


 九時を過ぎると、参加者が集まり始めた。


 健太は、数人の男性と組んで、近所の高齢者宅へ食料品を届けることになった。


 依頼の内容は、牛乳、卵、野菜、食パンなど、日常的な買い物だった。


「大野さん、こちらのリストをお願いします」


 担当者から渡された紙を受け取り、健太は内容を確認した。


「牛乳二本、卵一パック、食パン一袋……」


 仕事で数量を確認することには慣れている。


 健太は品物を一つずつ確かめ、袋に詰めていった。


「大野さん、仕事でもこういう確認をされてるんですか?」


 一緒に活動する男性が尋ねた。


「そうですね。工場で働いてるんで、数量や品質の確認は大事なんです」


「なるほど。頼りになりますね」


「いや、そんな大したことないですよ」


 健太は照れ笑いを浮かべた。


 褒められると、うれしい。


 自分が役に立っていると思えると、安心する。


 以前なら、その気持ちを満たすために、必要以上に仕事を引き受けていたかもしれない。


 しかし、今日は違った。


 自分にできることを、確実にやる。


 それでいいのだ。


 買い物を終えた一行は、住宅街を歩き始めた。


 最初の届け先は、七十代の女性が一人で暮らす家だった。


「こんにちは。地域の買い物支援です」


 玄関先で声をかけると、女性がゆっくりと扉を開けた。


「あら、いつもありがとうね」


「いえいえ。こちら、ご依頼の品物です」


 健太は袋を渡した。


 女性は中身を確認し、何度も頭を下げた。


「助かるわ。最近は、暑いし、買い物に行くのも大変でね」


「そうですよね。無理せんといてくださいね」


「ありがとう。あなたも、体に気をつけて」


 それだけのやり取りだった。


 けれど、女性が安心したように笑う姿を見て、健太は素直にうれしくなった。


 誰かに感謝されたい。


 そういう気持ちが、自分の中にあることは否定できない。


 だが、感謝されたからといって、必ず何かを返してもらえるわけではない。


 それでも、目の前の人が少しでも助かったのなら、それでいい。


 健太は次の届け先へ向かった。


     *


 午前十一時過ぎ。


 最後の配達を終えて集会所へ戻ると、入り口の前に見覚えのある女性が立っていた。


 佐藤真紀だった。


「あ、大野さん」


 真紀が気づいて、軽く手を振った。


「こんにちは」


「こんにちは。今日は来られてたんですね」


「はい。ちょっと遅れてしまって。もう配達は終わりました?」


「ええ、今、戻ってきたところです」


「お疲れさまでした」


 真紀は、健太の手元にある空の買い物袋を見た。


「結構、回られたんですか?」


「そうですね。何軒か回りました。暑かったですけど、皆さん喜んでくれました」


「それはよかったですね」


 真紀は笑った。


 その笑顔を見た瞬間、健太の胸が少し弾んだ。


 もっと話したい。


 そう思った。


 しかし、何を話せばいいのか分からない。


 以前の健太なら、ここで無理に話題を探していた。


 天気の話。


 仕事の話。


 休日の過ごし方。


 何か面白いことを言って、笑わせたい。


 そして、できれば、いい人だと思われたい。


 だが、今日は少しだけ違った。


「真紀さんは、今日はこれから配達ですか?」


「はい。午後から、近くのお宅を何軒か回る予定です」


「そうなんですね。暑いから、気をつけてください」


「ありがとうございます。大野さんも、もう帰られるんですか?」


「そうですね。今日はここまでです」


 会話は、そこで一度途切れた。


 沈黙が訪れる。


 健太は、何か話さなければと思いかけた。


 しかし、真紀もまた、次の予定があるのかもしれない。


 無理に話を続ける必要はない。


「それじゃあ、また」


 健太は言った。


「はい。またよろしくお願いします」


 真紀は会釈した。


 それで終わりだった。


 連絡先を聞いたわけでもない。


 次に会う約束をしたわけでもない。


 ただ、挨拶をして、少し話しただけ。


 以前の健太なら、物足りなさを感じていたかもしれない。


 しかし、今日は違った。


 もっと話したいという自分の気持ちを認めながら、相手の予定を優先できた。


 それだけでも、小さな前進だと思えた。


     *


 帰宅途中。


 健太は、駅前の定食屋に立ち寄った。


 昼食を済ませ、冷たい水を飲んでいると、スマートフォンにメッセージが届いた。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットだった。


『恋愛強化計画、進捗報告せよ』


 田村からの連絡だった。


『俺はまだ何もしてへん』


 中村が返す。


『お前は家計簿つけたんか?』


『……今からつける』


『昨日も同じこと言うてたやろ』


 藤井のツッコミが入る。


 健太は笑いながら、今日のことを簡単に報告した。


『地域の買い物支援に行ってきた。前に知り合った女性と少し話したけど、今日は挨拶程度やな』


 すぐに中村から返信が来た。


『連絡先は?』


『聞いてへん』


『何でやねん!』


『相手も次の予定があったし、無理に聞く必要ないと思った』


 数秒後、藤井が返した。


『それでええんちゃうか。相手の状況を見て、自分で判断できたんやろ』


 健太は、その言葉を読んだ。


 自分が何かをしたことを認めてもらえると、やはりうれしい。


 だが、ここで気をつけなければいけない。


 相手の都合を考えることさえ、誰かに褒められるための行動になってしまったら、結局、同じことの繰り返しだ。


 健太は、返信を書いた。


『ありがとう。でも、まだまだやと思う。次も相手の様子を見ながら話すわ』


 送信して、スマートフォンを伏せた。


 恋愛強化計画。


 名前だけ聞けば、まるで恋人を作るための訓練のようだ。


 しかし、今の健太に必要なのは、女性を口説く技術ではない。


 自分の寂しさと、相手の気持ちを区別すること。


 自分の期待と、現実に起きていることを区別すること。


 そして、自分が望む結果にならなくても、相手を責めないこと。


 簡単なようで、難しい。


 それでも、少しずつ覚えていくしかなかった。


     *


 その日の夜。


 健太は、自室で動画を見ていた。


 画面の中では、恋愛アドバイザーを名乗る男性が、女性との距離の縮め方について語っていた。


『女性は、自分を大切にしてくれる男性に惹かれます』


 健太は、その言葉にうなずいた。


 しかし、すぐに疑問が浮かんだ。


 大切にするとは、どういうことだろう。


 プレゼントを渡すことか。


 優しい言葉をかけることか。


 相手のために何かをしてあげることか。


 それとも、相手が望んでいないことをしないことか。


 画面の男性は、さらに話を続けた。


『女性の小さな変化に気づいて、褒めてあげましょう』


 健太は、そこで動画を止めた。


 以前の自分なら、こうした言葉をそのまま実践しようとしていたかもしれない。


 女性の髪型を褒める。


 服装を褒める。


 困っているときに助ける。


 そうすれば、自分を好きになってくれるのではないか。


 しかし、それは本当に相手を大切にすることなのだろうか。


 褒めること自体は悪くない。


 困っている人を助けることも、悪くない。


 問題は、その行動の裏に、何を期待しているかだ。


 相手に喜んでほしいのか。


 それとも、喜んでもらうことで、自分を好きになってほしいのか。


 両方の気持ちが混ざることもあるだろう。


 人間なのだから、見返りを期待する気持ちが完全になくなるわけではない。


 それでも、自分の期待を相手に押しつけないことはできるはずだ。


 健太は動画を閉じた。


 そして、机のノートを開いた。


 今日の出来事を思い出しながら、ゆっくりと文字を書いた。


『親切にしたからといって、相手に何かを返してもらえるわけではない』


 その下に、もう一行。


『相手のために何かをするとき、自分が何を期待しているのかも考える』


 健太はペンを置いた。


 自分は、まだ誰かと付き合ったことがない。


 女性の気持ちを理解することも、恋愛の進め方も、よく分からない。


 それでも、自分がどんな人間なのかを考えることはできる。


 誰かに好かれるために、自分を立派な人間に見せようとする必要はない。


 むしろ、格好悪いところも含めて、自分を知っていく必要があるのだろう。


 健太は、ノートを閉じた。


 恋愛の試合は、まだ始まっていない。


 だが、少なくとも、相手の気持ちを勝手に決めつけないための練習は続いている。


 その練習が、いつか本当の誰かと向き合うときに役立つのか。


 今の健太には、まだ分からなかった。


 そして、七月も半ばに差しかかった頃。


 健太の父親が、次の診察について話し始めた。


「健太、今度の病院やけどな。先生に、ちょっと聞きたいことがあるんや」


「何を?」


「薬のことや。最近、少し気になることがあってな」


「分かった。次も一緒に行くわ」


 正一は、うなずいた。


「そうしてくれると助かる」


 健太は、その言葉を聞いて、自然に返事をした。


 まだ知らなかった。


 次の病院で、自分の考え方を試されるような出会いが待っていることを。


 そして、その女性が、健太の期待するような優しい言葉を、簡単には返してくれない人だということを。

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