第18話 親切な女性と、俺の下心
七月第二週の土曜日。
午前八時四十分。
大野健太は、地域の買い物支援活動が行われる集会所に到着した。
空は薄曇りだった。
梅雨はまだ明けていない。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、歩いてきただけで背中に汗がにじんでいた。
「おはようございます」
集会所の入り口で、健太は頭を下げた。
「あら、大野さん。おはようございます」
受付にいた女性が笑顔で応じた。
健太は、以前ここで一緒に活動した佐藤真紀が来ているか、さりげなく周囲を見回した。
いない。
まだ到着していないだけかもしれない。
そう思った瞬間、自分が何を考えているのかに気づいた。
真紀に会いたい。
できれば、少し話したい。
そして、あわよくば、自分に好印象を持ってほしい。
そんな気持ちが、心のどこかにある。
「……あかんな」
健太は小さくつぶやいた。
誰かに会いたいと思うことは、悪いことではない。
しかし、活動に参加する目的が、いつの間にか真紀に会うことだけになってしまったら、本末転倒だ。
健太は気持ちを切り替え、受付で名簿に名前を書いた。
「今日は何人くらい参加されますか?」
「十人くらいですね。高齢の方から買い物の依頼も届いているので、何組かに分かれて回っていただく予定です」
「分かりました。できることがあれば、何でも言ってください」
口にしてから、健太は少しだけ考えた。
何でも。
便利な言葉だ。
しかし、本当に何でもできるわけではない。
できないことまで引き受けてしまえば、結局、誰かに迷惑をかけることになる。
「……できる範囲で、手伝います」
健太は言い直した。
受付の女性は、穏やかにうなずいた。
「ありがとうございます。無理のない範囲でお願いしますね」
その言葉を聞いて、健太は少し安心した。
誰かの役に立つことと、無理をしてまで自分をよく見せることは違う。
今日の活動では、そのことを忘れないようにしようと思った。
*
九時を過ぎると、参加者が集まり始めた。
健太は、数人の男性と組んで、近所の高齢者宅へ食料品を届けることになった。
依頼の内容は、牛乳、卵、野菜、食パンなど、日常的な買い物だった。
「大野さん、こちらのリストをお願いします」
担当者から渡された紙を受け取り、健太は内容を確認した。
「牛乳二本、卵一パック、食パン一袋……」
仕事で数量を確認することには慣れている。
健太は品物を一つずつ確かめ、袋に詰めていった。
「大野さん、仕事でもこういう確認をされてるんですか?」
一緒に活動する男性が尋ねた。
「そうですね。工場で働いてるんで、数量や品質の確認は大事なんです」
「なるほど。頼りになりますね」
「いや、そんな大したことないですよ」
健太は照れ笑いを浮かべた。
褒められると、うれしい。
自分が役に立っていると思えると、安心する。
以前なら、その気持ちを満たすために、必要以上に仕事を引き受けていたかもしれない。
しかし、今日は違った。
自分にできることを、確実にやる。
それでいいのだ。
買い物を終えた一行は、住宅街を歩き始めた。
最初の届け先は、七十代の女性が一人で暮らす家だった。
「こんにちは。地域の買い物支援です」
玄関先で声をかけると、女性がゆっくりと扉を開けた。
「あら、いつもありがとうね」
「いえいえ。こちら、ご依頼の品物です」
健太は袋を渡した。
女性は中身を確認し、何度も頭を下げた。
「助かるわ。最近は、暑いし、買い物に行くのも大変でね」
「そうですよね。無理せんといてくださいね」
「ありがとう。あなたも、体に気をつけて」
それだけのやり取りだった。
けれど、女性が安心したように笑う姿を見て、健太は素直にうれしくなった。
誰かに感謝されたい。
そういう気持ちが、自分の中にあることは否定できない。
だが、感謝されたからといって、必ず何かを返してもらえるわけではない。
それでも、目の前の人が少しでも助かったのなら、それでいい。
健太は次の届け先へ向かった。
*
午前十一時過ぎ。
最後の配達を終えて集会所へ戻ると、入り口の前に見覚えのある女性が立っていた。
佐藤真紀だった。
「あ、大野さん」
真紀が気づいて、軽く手を振った。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は来られてたんですね」
「はい。ちょっと遅れてしまって。もう配達は終わりました?」
「ええ、今、戻ってきたところです」
「お疲れさまでした」
真紀は、健太の手元にある空の買い物袋を見た。
「結構、回られたんですか?」
「そうですね。何軒か回りました。暑かったですけど、皆さん喜んでくれました」
「それはよかったですね」
真紀は笑った。
その笑顔を見た瞬間、健太の胸が少し弾んだ。
もっと話したい。
そう思った。
しかし、何を話せばいいのか分からない。
以前の健太なら、ここで無理に話題を探していた。
天気の話。
仕事の話。
休日の過ごし方。
何か面白いことを言って、笑わせたい。
そして、できれば、いい人だと思われたい。
だが、今日は少しだけ違った。
「真紀さんは、今日はこれから配達ですか?」
「はい。午後から、近くのお宅を何軒か回る予定です」
「そうなんですね。暑いから、気をつけてください」
「ありがとうございます。大野さんも、もう帰られるんですか?」
「そうですね。今日はここまでです」
会話は、そこで一度途切れた。
沈黙が訪れる。
健太は、何か話さなければと思いかけた。
しかし、真紀もまた、次の予定があるのかもしれない。
無理に話を続ける必要はない。
「それじゃあ、また」
健太は言った。
「はい。またよろしくお願いします」
真紀は会釈した。
それで終わりだった。
連絡先を聞いたわけでもない。
次に会う約束をしたわけでもない。
ただ、挨拶をして、少し話しただけ。
以前の健太なら、物足りなさを感じていたかもしれない。
しかし、今日は違った。
もっと話したいという自分の気持ちを認めながら、相手の予定を優先できた。
それだけでも、小さな前進だと思えた。
*
帰宅途中。
健太は、駅前の定食屋に立ち寄った。
昼食を済ませ、冷たい水を飲んでいると、スマートフォンにメッセージが届いた。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットだった。
『恋愛強化計画、進捗報告せよ』
田村からの連絡だった。
『俺はまだ何もしてへん』
中村が返す。
『お前は家計簿つけたんか?』
『……今からつける』
『昨日も同じこと言うてたやろ』
藤井のツッコミが入る。
健太は笑いながら、今日のことを簡単に報告した。
『地域の買い物支援に行ってきた。前に知り合った女性と少し話したけど、今日は挨拶程度やな』
すぐに中村から返信が来た。
『連絡先は?』
『聞いてへん』
『何でやねん!』
『相手も次の予定があったし、無理に聞く必要ないと思った』
数秒後、藤井が返した。
『それでええんちゃうか。相手の状況を見て、自分で判断できたんやろ』
健太は、その言葉を読んだ。
自分が何かをしたことを認めてもらえると、やはりうれしい。
だが、ここで気をつけなければいけない。
相手の都合を考えることさえ、誰かに褒められるための行動になってしまったら、結局、同じことの繰り返しだ。
健太は、返信を書いた。
『ありがとう。でも、まだまだやと思う。次も相手の様子を見ながら話すわ』
送信して、スマートフォンを伏せた。
恋愛強化計画。
名前だけ聞けば、まるで恋人を作るための訓練のようだ。
しかし、今の健太に必要なのは、女性を口説く技術ではない。
自分の寂しさと、相手の気持ちを区別すること。
自分の期待と、現実に起きていることを区別すること。
そして、自分が望む結果にならなくても、相手を責めないこと。
簡単なようで、難しい。
それでも、少しずつ覚えていくしかなかった。
*
その日の夜。
健太は、自室で動画を見ていた。
画面の中では、恋愛アドバイザーを名乗る男性が、女性との距離の縮め方について語っていた。
『女性は、自分を大切にしてくれる男性に惹かれます』
健太は、その言葉にうなずいた。
しかし、すぐに疑問が浮かんだ。
大切にするとは、どういうことだろう。
プレゼントを渡すことか。
優しい言葉をかけることか。
相手のために何かをしてあげることか。
それとも、相手が望んでいないことをしないことか。
画面の男性は、さらに話を続けた。
『女性の小さな変化に気づいて、褒めてあげましょう』
健太は、そこで動画を止めた。
以前の自分なら、こうした言葉をそのまま実践しようとしていたかもしれない。
女性の髪型を褒める。
服装を褒める。
困っているときに助ける。
そうすれば、自分を好きになってくれるのではないか。
しかし、それは本当に相手を大切にすることなのだろうか。
褒めること自体は悪くない。
困っている人を助けることも、悪くない。
問題は、その行動の裏に、何を期待しているかだ。
相手に喜んでほしいのか。
それとも、喜んでもらうことで、自分を好きになってほしいのか。
両方の気持ちが混ざることもあるだろう。
人間なのだから、見返りを期待する気持ちが完全になくなるわけではない。
それでも、自分の期待を相手に押しつけないことはできるはずだ。
健太は動画を閉じた。
そして、机のノートを開いた。
今日の出来事を思い出しながら、ゆっくりと文字を書いた。
『親切にしたからといって、相手に何かを返してもらえるわけではない』
その下に、もう一行。
『相手のために何かをするとき、自分が何を期待しているのかも考える』
健太はペンを置いた。
自分は、まだ誰かと付き合ったことがない。
女性の気持ちを理解することも、恋愛の進め方も、よく分からない。
それでも、自分がどんな人間なのかを考えることはできる。
誰かに好かれるために、自分を立派な人間に見せようとする必要はない。
むしろ、格好悪いところも含めて、自分を知っていく必要があるのだろう。
健太は、ノートを閉じた。
恋愛の試合は、まだ始まっていない。
だが、少なくとも、相手の気持ちを勝手に決めつけないための練習は続いている。
その練習が、いつか本当の誰かと向き合うときに役立つのか。
今の健太には、まだ分からなかった。
そして、七月も半ばに差しかかった頃。
健太の父親が、次の診察について話し始めた。
「健太、今度の病院やけどな。先生に、ちょっと聞きたいことがあるんや」
「何を?」
「薬のことや。最近、少し気になることがあってな」
「分かった。次も一緒に行くわ」
正一は、うなずいた。
「そうしてくれると助かる」
健太は、その言葉を聞いて、自然に返事をした。
まだ知らなかった。
次の病院で、自分の考え方を試されるような出会いが待っていることを。
そして、その女性が、健太の期待するような優しい言葉を、簡単には返してくれない人だということを。




