第16話 病院で再会した女性、俺の知らない顔
七月最初の金曜日。
大野健太は、父親の正一と一緒に病院を訪れていた。
梅雨の雨が朝から降り続いている。
病院の入り口には、感染症対策についての案内が貼られていた。マスクの着用、手指の消毒、発熱がある場合の申し出。少し前まで当たり前だった光景が、いつの間にか変わってしまっていた。
「健太、診察券持ったか?」
「持ったで」
「保険証は?」
「持ったって」
「ほんまか?」
「親父、俺を何歳やと思ってんねん」
「三十五歳の息子が、いまだに結婚もせんと実家におるからな。心配にもなるわ」
「病院の話から、何で結婚の話になるねん!」
正一は悪びれずに笑った。
健太はため息をついた。
父親の診察に付き添うだけでも、これだけ余計な話が増える。
しかし、以前なら面倒くさがっていたかもしれないこの時間も、最近は少し違って感じられた。
父親も、いつまでも元気なわけではない。
自分が手伝えることがあるなら、できる範囲でやればいい。
それだけのことだった。
「ほな、受付してくるわ」
健太は診察券を手に、受付へ向かった。
*
受付を済ませ、待合室の椅子に座っていると、看護師が患者の名前を呼んだ。
「大野正一さん。診察室へお入りください」
「はい」
正一が立ち上がる。
健太も一緒に立とうとしたが、父親は手を振った。
「お前はここで待っとけ。先生の話くらい、自分で聞ける」
「そうか?」
「そうや。子どもやないんやから」
「いや、俺は付き添いやろ」
「付き添いが、本人より緊張してどうすんねん」
正一は一人で診察室へ向かった。
健太は再び椅子に座った。
スマートフォンを取り出しかけて、やめる。
最近は、何か時間が空くと、つい恋愛関連の動画や記事を見てしまう。
女性と自然に会話する方法。
三十代から恋人を作る方法。
初対面で好印象を与える話し方。
検索すれば、いくらでも情報が出てくる。
しかし、情報を集めるほど、自分が何も知らないことを思い知らされる。
結局、必要なのは知識だけではない。
実際に人と向き合うことなのだ。
そんなことを考えていたときだった。
「大野さん?」
声をかけられ、健太は顔を上げた。
目の前に、白衣を着た女性が立っていた。
見覚えのある顔。
以前、父親の書類を届けたときに会った看護師だった。
なおみ。
年齢は二十四歳。
落ち着いた話し方と、患者に向ける柔らかな笑顔が印象に残っている女性だ。
「あっ……こんにちは」
「こんにちは。今日はお父さまの付き添いですか?」
「はい。まあ、そんな感じです」
健太は、少し背筋を伸ばした。
名前を呼ばれた。
自分のことを覚えていてくれた。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
以前の健太なら、ここから一気に想像を膨らませていただろう。
自分のことを覚えているということは、印象に残っているということではないか。
何度か会えば、仲良くなれるのではないか。
ひょっとしたら、仕事以外でも話せる関係になれるのではないか。
しかし、健太はすぐに頭の中でブレーキをかけた。
なおみは看護師だ。
患者や家族と接する仕事をしている。
以前に対応した人を覚えていることも、名前を呼ぶことも、不自然ではない。
それだけで、特別な感情があるとは限らない。
「お父さま、最近はいかがですか?」
「ええ、まあ。本人は元気やと言うてますけど」
「それならよかったです。何か気になることがあれば、先生にも相談してくださいね」
「はい。ありがとうございます」
会話は、それだけだった。
なおみは軽く会釈すると、別の患者のもとへ向かった。
健太は、その後ろ姿を見送った。
もう少し話したかった。
できれば、仕事のことや趣味のことを聞いてみたかった。
しかし、彼女は仕事中だ。
患者が待っている。
自分の好奇心を満たすために、彼女の時間を使わせるわけにはいかない。
「……よし」
健太は、小さくつぶやいた。
話したいと思うことと、今話しかけていいことは、同じではない。
それも、最近になって覚え始めたことだった。
*
しばらくして、正一が診察室から出てきた。
「終わったん?」
「おう。薬も変わらんらしい」
「ほな、よかったな」
「せやな」
二人は会計を済ませ、病院を出た。
雨はまだ降っていた。
駐車場まで歩きながら、正一が尋ねた。
「さっきの看護師さん、知り合いか?」
「いや、前に何回か会っただけや」
「若い人やったな」
「……まあな」
「ええ感じの人やったやないか」
「親父!」
健太は思わず声を上げた。
「何やねん。褒めただけやろ」
「そういう話ちゃうねん!」
「ほな、どういう話や?」
健太は答えられなかった。
父親に、自分の恋愛事情を説明するのは難しい。
いや、説明するほどの事情など、そもそも存在しない。
ただ、少し気になっている。
その程度のことだ。
「……まだ、何も始まってへん」
健太は言った。
正一は、意外そうに健太を見た。
「ほう。お前も、ようやく分かってきたんか」
「何がやねん」
「相手が優しいからいうて、すぐ自分に気があると思ったらあかんいうことや」
「……」
「それと、何も始まってへんからいうて、何もできへんわけでもない」
正一は傘を持ち直した。
「相手が仕事中なら、仕事の邪魔をせん。それは当たり前や。もし、いつか仕事以外で話せる機会があって、自分の気持ちも伝えたいと思ったら、そのときに考えたらええ」
「……親父、今日は妙にまともやな」
「いつもまともや!」
「いや、普段は結婚の話ばっかりやん」
「それはお前が結婚せえへんからや!」
二人は言い合いながら、車へ向かった。
健太は少し笑った。
父親の言葉が、完全に正しいとは限らない。
しかし、何でもかんでも自分の中で答えを出す必要はないのだと思えた。
今は、まだ何も始まっていない。
だからといって、未来まで決まったわけではない。
*
帰宅後、健太は昼食を済ませ、自室でスマートフォンを眺めていた。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットが動いている。
『今日の練習、どうする? 雨やけど』
田村からの連絡だった。
『屋内で筋トレやな』
山本和也が提案する。
『筋トレより焼き肉やろ』
石田が即座に返した。
『お前は毎日が食欲のシーズンやな』
藤井のツッコミ。
健太は笑いながら、今日の病院での出来事を書こうとして、指を止めた。
なおみに会ったこと。
名前を呼ばれてうれしかったこと。
もう少し話したいと思ったこと。
そんなことを報告したら、間違いなくからかわれる。
特に中村あたりは、すぐに「連絡先を聞け」と言い出すだろう。
しかし、健太は以前と少し考え方が変わっていた。
自分が誰かを気になっているからといって、その相手の話を仲間内の笑い話にしていいわけではない。
まだ、相手のことをほとんど知らないのだから。
健太は、病院の話を送る代わりに、別のことを書いた。
『今日、親父の病院に付き添ってきた。人と話すとき、相手の都合を考えるのも大事やなと思ったわ』
すぐに返信が来た。
『急にどうした。悟りでも開いたんか?』
中村だった。
『いや、ちょっとな』
健太が返すと、藤井からメッセージが届いた。
『ええことやと思うで。相手の都合を考えるのと、自分の気持ちを押し殺すのは別やけどな』
健太は、その文章を読み返した。
相手を尊重する。
相手の時間を奪わない。
相手が話したくないことを、無理に聞かない。
それは大切だ。
しかし、相手に迷惑をかけないことばかり考えて、自分の気持ちを永遠に隠してしまったら、誰とも関係を築けない。
相手を尊重することと、自分から何も行動しないことは違う。
その違いを、健太はまだうまく説明できなかった。
ただ、少しずつ分かり始めていた。
*
夕方。
健太が居間でテレビを見ていると、姉の真紀から電話がかかってきた。
「もしもし?」
『健太? お父さんの病院、今日やったんやろ?』
「せやで。何で知ってんねん」
『お母さんから聞いた。お父さん、どうやった?』
「特に変わりないって」
『そっか。よかった』
真紀は安心したようだった。
そのあと、少し世間話をした。
子どもたちが家で騒いでいること。
夫の亮太が仕事で疲れていること。
買い物に行くにも気を使う日々が続いていること。
健太は、姉の話を聞いていた。
以前なら、結婚している姉の話を聞くたびに、自分と比べてしまっていた。
姉には家庭がある。
夫がいる。
子どもがいる。
自分には何もない。
そう考えて、勝手に落ち込んでいた。
しかし、姉の生活にも姉なりの悩みがある。
結婚すれば、すべてが幸せになるわけではない。
独身だからといって、人生が失敗しているわけでもない。
当たり前のことなのに、健太は自分のことになると、すぐに忘れてしまう。
『そういえば、健太はどうなん?』
「何が?」
『女の人。まだ何もないん?』
「……何もないわ」
『ほんまに?』
「ほんまや!」
電話の向こうで、真紀が笑った。
『まあ、焦りすぎてもあかんけどな。でも、何もせんかったら何も変わらんで』
「それ、親父にも言われたわ」
『そら、みんな同じこと思ってるんやろ』
健太は黙った。
真紀は少し声を落とした。
『健太。別に、無理して彼女を作らなあかんわけちゃうで。でも、ほんまは誰かと一緒にいたいと思ってるんやったら、その気持ちまで否定せんでええと思う』
「……」
『自分が傷つくのが怖いから、最初から無理やって決めるのも、もったいないやろ』
健太は、スマートフォンを耳に当てたまま、窓の外を見た。
雨は、いつの間にか止んでいた。
「……分かった」
『ほんまに分かってる?』
「分かってるって!」
『ほな、また連絡するわ。お父さんとお母さんのこと、よろしくな』
電話が切れた。
健太は、しばらくその場に座っていた。
姉の言葉は、父親の言葉と似ていた。
無理に恋人を作る必要はない。
しかし、誰かと一緒にいたいという自分の気持ちまで否定する必要もない。
それは、健太がずっと避けてきた問題だった。
女性に好かれたい。
恋人がほしい。
誰かに必要とされたい。
そんな気持ちを認めてしまうと、現実の自分があまりにも情けなく感じられる。
三十五歳。
交際経験なし。
手をつないだこともない。
誰かに告白したことすら、ほとんどない。
だから、恋愛の話になると、冗談を言ってごまかしてきた。
けれど、本当は寂しかった。
誰かと食事をして、今日あったことを話したい。
疲れて帰った日に、お互いのことを気にかけたい。
休みの日に、同じ景色を見て笑いたい。
そんな、ごく普通の生活を想像していた。
それを望むこと自体は、恥ずかしいことではないのかもしれない。
問題は、その願いを叶えるために、相手の気持ちを無視してしまうことだ。
健太は、机に向かった。
ノートを開く。
そして、今日の言葉を書き加えた。
『相手を尊重することと、自分の気持ちを隠し続けることは違う』
ペンを置く。
書いた言葉が、すぐに自分の行動を変えてくれるわけではない。
それでも、今まで見ないふりをしていた自分の気持ちを、少しだけ認められた気がした。
恋愛の試合は、まだ始まっていない。
だが、少なくとも、自分が何を望んでいるのかは、以前より少し分かってきた。
そして、七月のある日。
ドリーム・エース・ナインの仲間たちは、いつもの大阪の食堂「まる福」に集まることになる。
野球の作戦会議ではない。
彼らが掲げた、あの「恋愛強化計画」のためだった。
今度こそ、誰か一人でも前に進めるのか。
それとも、いつものように口だけで終わるのか。
健太にも、まだ分からなかった。




