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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第16話 病院で再会した女性、俺の知らない顔

 七月最初の金曜日。


 大野健太は、父親の正一と一緒に病院を訪れていた。


 梅雨の雨が朝から降り続いている。


 病院の入り口には、感染症対策についての案内が貼られていた。マスクの着用、手指の消毒、発熱がある場合の申し出。少し前まで当たり前だった光景が、いつの間にか変わってしまっていた。


「健太、診察券持ったか?」


「持ったで」


「保険証は?」


「持ったって」


「ほんまか?」


「親父、俺を何歳やと思ってんねん」


「三十五歳の息子が、いまだに結婚もせんと実家におるからな。心配にもなるわ」


「病院の話から、何で結婚の話になるねん!」


 正一は悪びれずに笑った。


 健太はため息をついた。


 父親の診察に付き添うだけでも、これだけ余計な話が増える。


 しかし、以前なら面倒くさがっていたかもしれないこの時間も、最近は少し違って感じられた。


 父親も、いつまでも元気なわけではない。


 自分が手伝えることがあるなら、できる範囲でやればいい。


 それだけのことだった。


「ほな、受付してくるわ」


 健太は診察券を手に、受付へ向かった。


     *


 受付を済ませ、待合室の椅子に座っていると、看護師が患者の名前を呼んだ。


「大野正一さん。診察室へお入りください」


「はい」


 正一が立ち上がる。


 健太も一緒に立とうとしたが、父親は手を振った。


「お前はここで待っとけ。先生の話くらい、自分で聞ける」


「そうか?」


「そうや。子どもやないんやから」


「いや、俺は付き添いやろ」


「付き添いが、本人より緊張してどうすんねん」


 正一は一人で診察室へ向かった。


 健太は再び椅子に座った。


 スマートフォンを取り出しかけて、やめる。


 最近は、何か時間が空くと、つい恋愛関連の動画や記事を見てしまう。


 女性と自然に会話する方法。


 三十代から恋人を作る方法。


 初対面で好印象を与える話し方。


 検索すれば、いくらでも情報が出てくる。


 しかし、情報を集めるほど、自分が何も知らないことを思い知らされる。


 結局、必要なのは知識だけではない。


 実際に人と向き合うことなのだ。


 そんなことを考えていたときだった。


「大野さん?」


 声をかけられ、健太は顔を上げた。


 目の前に、白衣を着た女性が立っていた。


 見覚えのある顔。


 以前、父親の書類を届けたときに会った看護師だった。


 なおみ。


 年齢は二十四歳。


 落ち着いた話し方と、患者に向ける柔らかな笑顔が印象に残っている女性だ。


「あっ……こんにちは」


「こんにちは。今日はお父さまの付き添いですか?」


「はい。まあ、そんな感じです」


 健太は、少し背筋を伸ばした。


 名前を呼ばれた。


 自分のことを覚えていてくれた。


 それだけで、胸の奥が温かくなる。


 以前の健太なら、ここから一気に想像を膨らませていただろう。


 自分のことを覚えているということは、印象に残っているということではないか。


 何度か会えば、仲良くなれるのではないか。


 ひょっとしたら、仕事以外でも話せる関係になれるのではないか。


 しかし、健太はすぐに頭の中でブレーキをかけた。


 なおみは看護師だ。


 患者や家族と接する仕事をしている。


 以前に対応した人を覚えていることも、名前を呼ぶことも、不自然ではない。


 それだけで、特別な感情があるとは限らない。


「お父さま、最近はいかがですか?」


「ええ、まあ。本人は元気やと言うてますけど」


「それならよかったです。何か気になることがあれば、先生にも相談してくださいね」


「はい。ありがとうございます」


 会話は、それだけだった。


 なおみは軽く会釈すると、別の患者のもとへ向かった。


 健太は、その後ろ姿を見送った。


 もう少し話したかった。


 できれば、仕事のことや趣味のことを聞いてみたかった。


 しかし、彼女は仕事中だ。


 患者が待っている。


 自分の好奇心を満たすために、彼女の時間を使わせるわけにはいかない。


「……よし」


 健太は、小さくつぶやいた。


 話したいと思うことと、今話しかけていいことは、同じではない。


 それも、最近になって覚え始めたことだった。


     *


 しばらくして、正一が診察室から出てきた。


「終わったん?」


「おう。薬も変わらんらしい」


「ほな、よかったな」


「せやな」


 二人は会計を済ませ、病院を出た。


 雨はまだ降っていた。


 駐車場まで歩きながら、正一が尋ねた。


「さっきの看護師さん、知り合いか?」


「いや、前に何回か会っただけや」


「若い人やったな」


「……まあな」


「ええ感じの人やったやないか」


「親父!」


 健太は思わず声を上げた。


「何やねん。褒めただけやろ」


「そういう話ちゃうねん!」


「ほな、どういう話や?」


 健太は答えられなかった。


 父親に、自分の恋愛事情を説明するのは難しい。


 いや、説明するほどの事情など、そもそも存在しない。


 ただ、少し気になっている。


 その程度のことだ。


「……まだ、何も始まってへん」


 健太は言った。


 正一は、意外そうに健太を見た。


「ほう。お前も、ようやく分かってきたんか」


「何がやねん」


「相手が優しいからいうて、すぐ自分に気があると思ったらあかんいうことや」


「……」


「それと、何も始まってへんからいうて、何もできへんわけでもない」


 正一は傘を持ち直した。


「相手が仕事中なら、仕事の邪魔をせん。それは当たり前や。もし、いつか仕事以外で話せる機会があって、自分の気持ちも伝えたいと思ったら、そのときに考えたらええ」


「……親父、今日は妙にまともやな」


「いつもまともや!」


「いや、普段は結婚の話ばっかりやん」


「それはお前が結婚せえへんからや!」


 二人は言い合いながら、車へ向かった。


 健太は少し笑った。


 父親の言葉が、完全に正しいとは限らない。


 しかし、何でもかんでも自分の中で答えを出す必要はないのだと思えた。


 今は、まだ何も始まっていない。


 だからといって、未来まで決まったわけではない。


     *


 帰宅後、健太は昼食を済ませ、自室でスマートフォンを眺めていた。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットが動いている。


『今日の練習、どうする? 雨やけど』


 田村からの連絡だった。


『屋内で筋トレやな』


 山本和也が提案する。


『筋トレより焼き肉やろ』


 石田が即座に返した。


『お前は毎日が食欲のシーズンやな』


 藤井のツッコミ。


 健太は笑いながら、今日の病院での出来事を書こうとして、指を止めた。


 なおみに会ったこと。


 名前を呼ばれてうれしかったこと。


 もう少し話したいと思ったこと。


 そんなことを報告したら、間違いなくからかわれる。


 特に中村あたりは、すぐに「連絡先を聞け」と言い出すだろう。


 しかし、健太は以前と少し考え方が変わっていた。


 自分が誰かを気になっているからといって、その相手の話を仲間内の笑い話にしていいわけではない。


 まだ、相手のことをほとんど知らないのだから。


 健太は、病院の話を送る代わりに、別のことを書いた。


『今日、親父の病院に付き添ってきた。人と話すとき、相手の都合を考えるのも大事やなと思ったわ』


 すぐに返信が来た。


『急にどうした。悟りでも開いたんか?』


 中村だった。


『いや、ちょっとな』


 健太が返すと、藤井からメッセージが届いた。


『ええことやと思うで。相手の都合を考えるのと、自分の気持ちを押し殺すのは別やけどな』


 健太は、その文章を読み返した。


 相手を尊重する。


 相手の時間を奪わない。


 相手が話したくないことを、無理に聞かない。


 それは大切だ。


 しかし、相手に迷惑をかけないことばかり考えて、自分の気持ちを永遠に隠してしまったら、誰とも関係を築けない。


 相手を尊重することと、自分から何も行動しないことは違う。


 その違いを、健太はまだうまく説明できなかった。


 ただ、少しずつ分かり始めていた。


     *


 夕方。


 健太が居間でテレビを見ていると、姉の真紀から電話がかかってきた。


「もしもし?」


『健太? お父さんの病院、今日やったんやろ?』


「せやで。何で知ってんねん」


『お母さんから聞いた。お父さん、どうやった?』


「特に変わりないって」


『そっか。よかった』


 真紀は安心したようだった。


 そのあと、少し世間話をした。


 子どもたちが家で騒いでいること。


 夫の亮太が仕事で疲れていること。


 買い物に行くにも気を使う日々が続いていること。


 健太は、姉の話を聞いていた。


 以前なら、結婚している姉の話を聞くたびに、自分と比べてしまっていた。


 姉には家庭がある。


 夫がいる。


 子どもがいる。


 自分には何もない。


 そう考えて、勝手に落ち込んでいた。


 しかし、姉の生活にも姉なりの悩みがある。


 結婚すれば、すべてが幸せになるわけではない。


 独身だからといって、人生が失敗しているわけでもない。


 当たり前のことなのに、健太は自分のことになると、すぐに忘れてしまう。


『そういえば、健太はどうなん?』


「何が?」


『女の人。まだ何もないん?』


「……何もないわ」


『ほんまに?』


「ほんまや!」


 電話の向こうで、真紀が笑った。


『まあ、焦りすぎてもあかんけどな。でも、何もせんかったら何も変わらんで』


「それ、親父にも言われたわ」


『そら、みんな同じこと思ってるんやろ』


 健太は黙った。


 真紀は少し声を落とした。


『健太。別に、無理して彼女を作らなあかんわけちゃうで。でも、ほんまは誰かと一緒にいたいと思ってるんやったら、その気持ちまで否定せんでええと思う』


「……」


『自分が傷つくのが怖いから、最初から無理やって決めるのも、もったいないやろ』


 健太は、スマートフォンを耳に当てたまま、窓の外を見た。


 雨は、いつの間にか止んでいた。


「……分かった」


『ほんまに分かってる?』


「分かってるって!」


『ほな、また連絡するわ。お父さんとお母さんのこと、よろしくな』


 電話が切れた。


 健太は、しばらくその場に座っていた。


 姉の言葉は、父親の言葉と似ていた。


 無理に恋人を作る必要はない。


 しかし、誰かと一緒にいたいという自分の気持ちまで否定する必要もない。


 それは、健太がずっと避けてきた問題だった。


 女性に好かれたい。


 恋人がほしい。


 誰かに必要とされたい。


 そんな気持ちを認めてしまうと、現実の自分があまりにも情けなく感じられる。


 三十五歳。


 交際経験なし。


 手をつないだこともない。


 誰かに告白したことすら、ほとんどない。


 だから、恋愛の話になると、冗談を言ってごまかしてきた。


 けれど、本当は寂しかった。


 誰かと食事をして、今日あったことを話したい。


 疲れて帰った日に、お互いのことを気にかけたい。


 休みの日に、同じ景色を見て笑いたい。


 そんな、ごく普通の生活を想像していた。


 それを望むこと自体は、恥ずかしいことではないのかもしれない。


 問題は、その願いを叶えるために、相手の気持ちを無視してしまうことだ。


 健太は、机に向かった。


 ノートを開く。


 そして、今日の言葉を書き加えた。


『相手を尊重することと、自分の気持ちを隠し続けることは違う』


 ペンを置く。


 書いた言葉が、すぐに自分の行動を変えてくれるわけではない。


 それでも、今まで見ないふりをしていた自分の気持ちを、少しだけ認められた気がした。


 恋愛の試合は、まだ始まっていない。


 だが、少なくとも、自分が何を望んでいるのかは、以前より少し分かってきた。


 そして、七月のある日。


 ドリーム・エース・ナインの仲間たちは、いつもの大阪の食堂「まる福」に集まることになる。


 野球の作戦会議ではない。


 彼らが掲げた、あの「恋愛強化計画」のためだった。


 今度こそ、誰か一人でも前に進めるのか。


 それとも、いつものように口だけで終わるのか。


 健太にも、まだ分からなかった。

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