第15話 グラウンドでは、言い訳が通用しない
六月最後の土曜日。
大阪の空は朝から曇っていた。
雨が降るのか、降らないのか。天気予報を確認するたびに、降水確率が変わっている。
大野健太は、枕元に置いたスマートフォンを手に取った。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットには、朝六時からメッセージが流れていた。
『本日、予定どおり練習。雨天中止の場合は七時に連絡』
田村剛からの連絡だった。
『了解。今日は新しいスパイクの実力を見せたるわ』
松田浩一が続く。
『スパイク変えたところで、走れんかったら一緒やろ』
藤井直樹の冷静なツッコミ。
『道具には夢があるんや』
『夢を見る前に体重計に乗れ』
石田雄二まで参戦した。
いつものやり取りだ。
健太は思わず笑った。
この仲間たちといると、学生時代に戻ったような気持ちになる。
ただし、戻れるのは気持ちだけだ。
現実には、三十五歳の腹があり、衰えた体力があり、平日の仕事で疲れ切った体がある。
そして、恋愛経験は相変わらずゼロだった。
「よし。今日は違うところを見せたる」
健太はベッドから起き上がった。
何を見せるのかは、自分でもよく分かっていなかった。
*
河川敷のグラウンドに到着すると、すでに田村が準備を始めていた。
「おう、健太。今日は遅刻せんかったな」
「当たり前や。俺は時間を守る男やからな」
「先週、集合時間を三十分間違えたやつが何言うてんねん」
「それはカレンダーの見間違いや!」
「言い訳の仕方まで三十五歳やな」
田村の横で、藤井が笑った。
グラウンドには、少しずつメンバーが集まってきていた。
森川信也は、相変わらず自信満々に肩を回している。
「今日は投げ込みするで。昔の球威を取り戻したる」
「昔って、何年前やねん」
中村拓郎が尋ねた。
「高校時代や」
「二十年近く前やないか」
「細かいこと言うな!」
森川は胸を張った。
その直後、準備運動で前屈をした途端、腰を押さえた。
「……ちょっと待て。今日は腰の調子が悪い」
「まだボールも触ってへんぞ」
田村が呆れた。
健太も笑った。
こういうところが、このチームらしい。
口では強いことを言う。
道具には金をかける。
昔の実績を語る。
しかし、実際に体を動かすと、思いどおりにはいかない。
それでも、健太は思っていた。
自分はまだ、野球なら何とかなる。
恋愛は経験がない。
女性との会話も苦手だ。
だが、野球は違う。
高校時代、強豪校の野球部にいた。
レギュラーにはなれなかったが、練習はしてきた。
三塁手としての経験もある。
少なくとも、何も知らない素人ではない。
「よし、始めるぞ!」
田村の声で、全員が集まった。
「今日は基本をやる。キャッチボール、ノック、連係プレー。派手な練習はいらん。まずは当たり前のことを当たり前にできるようにする」
「また基本かよ」
松田が不満そうに言った。
「新しいバットの試し打ちは?」
「基本ができてからや」
「俺のバット、結構高かったんやけど」
「値段と実力は別や」
藤井の言葉に、松田が黙った。
健太はそのやり取りを聞きながら、少しだけ考えた。
値段と実力は別。
それは、野球だけの話ではないのかもしれない。
高い服を着れば、女性に好かれるわけではない。
会話のテクニックを覚えれば、相手の気持ちが分かるわけでもない。
そんなことを考えながら、健太はグローブをはめた。
*
キャッチボールが終わり、ノックが始まった。
「大野、三塁!」
「おう!」
健太は守備位置についた。
田村がノッカーを務め、打球を転がす。
一球目。
正面に来たゴロを、健太は無難にさばいた。
「ナイス!」
藤井が声をかける。
二球目。
少し三遊間寄りの打球だった。
健太は一歩目を踏み出し、ボールに追いついた。
グローブに収める。
そこまではよかった。
しかし、送球を急いだ。
ファーストの石田がベースに入る前に投げてしまい、ボールは石田の頭上を越えていった。
「おい、大野!」
石田が叫んだ。
「何してんねん!」
「いや、今のは石田が遅かったやろ!」
健太は反射的に言い返した。
「俺がベースに入る前に投げたんはお前や!」
「いや、普通はあのタイミングで入るやろ!」
「普通って何やねん!」
言い合いになりかけたところで、田村が手を上げた。
「ストップ」
二人が黙る。
「健太。今、何を見て投げた?」
「何って……石田がファーストに入ると思ったから」
「思った?」
「そら、ファーストやから入るやろ」
「じゃあ、実際に入ってるか確認したんか?」
健太は言葉に詰まった。
「……してへん」
「石田が悪いかどうかを決める前に、自分が何を見て、何を見てへんかったか考えろ」
田村はボールを拾った。
「次、同じ打球が来たらどうする?」
「石田が入るのを確認してから投げる」
「それだけか?」
「……声をかける」
「そうや」
田村はうなずいた。
「野球は、自分の頭の中だけで成立するもんやない。相手が何をしてるか見て、必要なら声をかける。自分の予想と違ったら、その場で判断を変える。それが連係や」
健太は、グローブの中の手を握り直した。
頭では分かる。
しかし、ミスを指摘されると、どうしても相手の悪いところを探してしまう。
自分だけが悪いわけではない。
相手だって、間違える。
それは確かだ。
けれど、自分のミスを認める前に相手のせいにしてしまえば、何も変わらない。
「……悪かった、石田」
健太は言った。
「次は確認してから投げるわ」
石田は少し意外そうな顔をした。
「お、おう。分かってくれたらええわ」
「ただし、次にお前が太りすぎて動けんかったら、それは言うで」
「そこは黙っとけ!」
周囲から笑い声が上がった。
空気が和らぐ。
健太も笑った。
だが、胸の奥には、さっきの田村の言葉が残っていた。
自分の頭の中だけで、物事を成立させようとしている。
恋愛でも、同じことをしていないだろうか。
女性が笑ってくれた。
名前を呼んでくれた。
親切にしてくれた。
だから、自分に好意があるのではないか。
そう考えて、相手の気持ちを確かめる前に、頭の中で関係を進めてしまう。
そして、現実が想像と違うと、落ち込んだり、相手の態度に不満を持ったりする。
野球でやっていることと、ほとんど同じだった。
*
次は、内野の連係プレーだった。
一塁に走者がいる場面を想定し、三塁ゴロから二塁へ送球する練習だ。
田村が説明を始めた。
「走者の位置を確認。打球を処理したら、状況を見て送球先を判断する。味方の声も聞くこと。分かったな?」
「了解!」
健太たちは返事をした。
最初の数回は、問題なかった。
ところが、森川が投げた球が少し横にそれた。
健太は捕球しようと動いたが、体勢が崩れた。
それでも、すぐに二塁へ投げようとした。
「待て!」
田村の声が飛ぶ。
健太は慌てて投げるのをやめた。
「今の体勢で無理に投げたら、また暴投や」
「でも、早く投げなあかんやろ」
「早く投げることと、急いで投げることは違う」
田村は続けた。
「間に合わんと判断したら、一つアウトを取ることを考えろ。何でもかんでも自分の理想どおりに進めようとするな」
「……分かった」
健太はうなずいた。
しかし、その後も失敗は続いた。
森川の送球が高くなり、石田が捕球できない。
中村が二塁へのカバーを忘れる。
松田が打球を追いすぎて、ほかの選手とぶつかりそうになる。
そのたびに、誰かが誰かに文句を言った。
「ちゃんと投げろや!」
「お前がカバーせえへんからや!」
「声出せって言うてるやろ!」
練習は、だんだん険悪になっていった。
「ちょっと待て!」
突然、藤井が声を上げた。
「お前ら、何の練習してるか分かってるか?」
「連係プレーやろ」
中村が答えた。
「せやったら、何で連係せえへんねん」
藤井は、一人ずつ顔を見た。
「森川は自分の球を投げることしか考えてへん。健太は自分が早くアウトを取ることしか考えてへん。石田は自分が捕りやすい球を要求する。松田は自分が目立つプレーをしたがる。全員、自分のことばっかりや」
「お前も偉そうに言うなや」
森川が反論する。
「俺もや」
藤井はあっさり認めた。
「俺かて、女性と話すときは自分が面白いと思われたいし、野球でもええところを見せたい。けど、自分が目立つことばっかり考えてたら、周りが見えへんようになる」
その言葉に、健太は顔を上げた。
藤井は女性との会話が得意だ。
人当たりもよく、初対面の相手とも自然に話せる。
健太から見れば、最初から何でもできる人間のように思えていた。
しかし、藤井も自分の問題を抱えている。
「俺ら、昔は強豪校の野球部におったやろ」
藤井が言った。
「けど、全員がレギュラーやったわけちゃう。控えやったやつも、ベンチに入れへんかったやつもおる。それでも、あの頃の話ばっかりする。昔の自分はすごかったって、いつまでも言うてる」
「……」
「今の俺らは、今の俺らや。昔の実績も、道具の値段も関係ない。今、目の前の仲間が何をしてるか。それを見んと、チームなんかできへん」
誰もすぐには返事をしなかった。
河川敷を吹き抜ける風の音が聞こえた。
健太は、自分のグローブを見下ろした。
高校時代の自分。
あの頃の自分は、今より体が軽かった。
もっと走れた。
もっと動けた。
いつかレギュラーになれると信じていた。
しかし、現実には最後まで控えのままだった。
その悔しさを、ずっと心のどこかに残してきた。
だからこそ、今でも野球がうまいと思われたい。
女性からも、頼れる男だと思われたい。
年齢に見合った経験がある人間だと思われたい。
本当の自分を見せるより、理想の自分を見せようとしていた。
そして、その理想を守るために、失敗を誰かのせいにしていたのかもしれない。
「……俺、さっきの送球もそうやったわ」
健太が口を開いた。
「石田が悪いって思って、先に言い返してもうた。自分が確認してへんかったことは、後回しにした」
「まあ、そうやな」
石田が素直にうなずいた。
「お前、昔からそういうとこあるしな」
「お前にだけは言われたないわ!」
健太は思わず反論した。
「俺は食べ物を前にしたら、周りが見えんようになるだけや!」
「それが一番あかんやろ!」
再び笑いが起こった。
だが、今度の笑いは、誰かを責めるためのものではなかった。
全員が、自分の欠点を少しだけ認めたうえで笑っていた。
*
練習の後半。
田村は、もう一度同じ連係プレーを行うことにした。
「今度は声を出す。捕る前でも、捕った後でもええ。味方が何をするのか分からんかったら、確認しろ」
「了解!」
打球が転がる。
健太が捕球した。
「石田、入ってるか!」
「入ってる!」
「二塁、カバー頼む!」
「了解!」
健太は味方の位置を確認し、送球した。
今度は、石田のグローブにきちんと収まった。
「アウト!」
田村が判定する。
「よし!」
健太は小さく拳を握った。
たった一つのプレーだった。
試合で活躍したわけでもない。
誰かに褒められるような、派手なプレーでもない。
それでも、さっきまでの失敗とは違った。
自分の思い込みだけで動かなかった。
相手の位置を見た。
声をかけた。
返事を聞いた。
そして、投げた。
その結果、プレーが成立した。
「今のはよかったぞ」
田村が言った。
「まあ、基本やけどな」
「分かってるわ!」
健太は笑った。
その後も失敗はあった。
ゴロを後逸した。
送球が高くなった。
森川は相変わらず制球が悪く、最後には息を切らしてベンチに座り込んだ。
「俺、今日は本気出してへんからな」
「いつ本気出すねん」
中村が尋ねる。
「来月や」
「毎月言うてるぞ、それ」
チームは相変わらず弱かった。
しかし、練習の終わりには、以前より少しだけ声が増えていた。
失敗した選手に、ただ文句を言うのではなく、次に何をするか伝える。
うまくいったプレーには、素直に声をかける。
そんな小さな変化だった。
*
練習後。
自動販売機の前で、健太はスポーツドリンクを飲んでいた。
隣には藤井がいる。
「今日は、ちょっと分かった気がするわ」
健太が言った。
「何が?」
「相手を見てるつもりで、実際は自分の考えを見てたんやなって」
「ほう」
「女性が笑ってくれたら、俺のことが好きなんちゃうかって考える。返事が遅かったら、嫌われたんちゃうかって考える。相手が何を考えてるか分からんのに、自分の中で勝手に答えを出してまう」
健太は、空になったペットボトルを見つめた。
「野球でも同じやった。石田が入ると思った。森川の球なら捕れると思った。自分が思ったとおりにならんかったら、腹が立つ」
「せやな」
藤井は否定しなかった。
「けど、相手のことを全部理解するなんて無理やで」
「……そうなんか?」
「当たり前やろ。俺かて、女性の気持ちなんか全部分からん。話しやすい相手やと思っても、付き合いたい相手とは限らん。楽しく話せても、恋愛感情があるとは限らん」
「お前でも分からんのか」
「分からんから、聞くんや。聞けることは聞く。相手が答えたくなさそうなら、それ以上は聞かん。自分の気持ちを伝えるときは、相手にも断る自由があることを忘れへん」
藤井は、飲み終えたボトルをゴミ箱に入れた。
「恋愛って、相手の気持ちを当てるゲームちゃうからな」
健太は、その言葉を頭の中で繰り返した。
当てるゲームではない。
答えを予想して、正解したら勝ち。
間違えたら負け。
そんな単純なものではないのだ。
「でも、相手に聞くのも怖いわ」
健太は正直に言った。
「嫌われたらどうするんやって思う」
「嫌われるかもしれんな」
「そこは否定してくれや!」
藤井は笑った。
「けど、嫌われるのが怖いからって、相手の気持ちを勝手に決めるのは違うやろ。自分の気持ちを伝えることと、相手に答えを強制することは別や」
「……そうやな」
「それに、断られたからって、健太の人生が終わるわけちゃう」
「分かってる。頭ではな」
「頭で分かってることを、実際にできるようになるまでが練習や」
健太は、思わず藤井を見た。
「お前、たまにええこと言うな」
「たまにって何やねん。俺はいつでもええこと言うてるわ」
「自分で言うな!」
二人は笑った。
帰り支度をする仲間たちの声が聞こえる。
来週の練習日程を相談する者。
昼飯に何を食べるか話す者。
新しいバットを自慢する者。
いつもどおりの、ドリーム・エース・ナインだった。
健太は、スマートフォンを取り出した。
メモ帳を開き、今日のことを書いた。
『相手がこうするはずだ、と決めつけない』
『分からないときは、確認する』
『失敗したとき、相手のせいにする前に、自分が何をしたか考える』
少し考えてから、最後に一行を加えた。
『自分の思いどおりにいかないことと、相手が悪いことは、同じではない』
書き終えたところで、母親からメッセージが届いた。
『お父さんの次の診察、来週の金曜日になったから。仕事が休みなら、一緒に来てくれる?』
健太は返信を打った。
『分かった。時間を確認しておく』
以前なら、面倒だと思ったかもしれない。
あるいは、母親に頼られることを、自分が必要とされている証拠のように感じたかもしれない。
今は、そういう気持ちがまったくなくなったわけではない。
誰かに必要とされたい。
誰かに認められたい。
誰かに好かれたい。
その気持ちは、まだ自分の中にある。
ただ、その気持ちを満たすために、相手の事情を無視してはいけない。
少しずつでも、そう考えられるようになってきた。
*
帰宅すると、父親の正一が居間でテレビを見ていた。
「野球、どうやった?」
「まあまあやな」
「打ったんか?」
「今日は守備練習や」
「エラーしたんか?」
「……何で分かるねん」
正一は、口元だけで笑った。
「お前は、うまくいったときより、失敗したときのほうが顔に出る」
「そうか?」
「そうや」
父親はテレビの音量を少し下げた。
「野球も仕事も、人間関係も、思いどおりにはいかんもんや」
「また説教か?」
「説教やない。年寄りの経験談や」
正一は、しばらく黙ってから言った。
「失敗することより、失敗したあとに何をするかのほうが大事やと思うで」
健太は、返事をしなかった。
父親の言葉は、今日の田村や藤井の言葉と重なっていた。
自分の失敗を認める。
必要なら謝る。
次にどうするかを考える。
それは、野球でも、仕事でも、恋愛でも変わらないのかもしれない。
「……俺、もう三十五やで」
健太は、ぽつりと言った。
「知っとる」
「恋愛もしたことない。付き合ったこともない。手をつないだこともない」
「それも知っとる」
「このままで、ええんかな」
正一は、すぐには答えなかった。
テレビでは、プロ野球の過去の名場面が流れていた。
しばらくして、父親が口を開いた。
「ええか悪いかは、お前が決めることやろ」
「……」
「ただ、何もせんまま、どうせ無理やと決めるんは違うと思うで」
健太は父親を見た。
「失敗したら、また考えたらええ。相手に嫌やと言われたら、そこは引いたらええ。それでも、自分がどうしたいかまで、他人に決めてもらう必要はない」
正一は、再びテレビに視線を戻した。
「まあ、わしも偉そうなこと言えるほど、立派な人間やないけどな」
「……ありがとう」
健太は、短く答えた。
自分は、恋愛をしたことがない。
だから、何をすればいいのか分からない。
しかし、経験がないことと、何も学べないことは違う。
野球の練習と同じだ。
一球目から完璧にできるわけではない。
失敗する。
注意される。
恥をかく。
それでも、次の一球を投げることはできる。
健太は自分の部屋に戻り、机の上のノートを開いた。
これまでに書いた言葉が並んでいる。
『相手の優しさを、自分への好意だと決めつけない』
『相手の人生は、相手のもの』
『名前を知ったからといって、相手を知ったことにはならない』
『分からないことを、都合のいい答えで埋めない』
どれも、書いただけでは何も変わらない。
実際に人と向き合ったとき、同じことができるとは限らない。
それでも、忘れないように書いておく意味はあると思った。
健太は、最後に今日の言葉を書き加えた。
『自分の思いどおりにいかないことと、相手が悪いことは、同じではない』
ペンを置く。
窓の外では、雨が降り始めていた。
明日も、たぶん何かに失敗する。
仕事で失敗するかもしれない。
誰かとの会話で、余計なことを言ってしまうかもしれない。
それでも、次に何をするかは、自分で選べる。
健太はノートを閉じた。
恋愛の試合は、まだ始まっていない。
けれど、少なくとも今日は、自分の思い込みを一つだけ打ち返せた気がした。
その小さな手応えを、健太は忘れないようにした。
そして翌週。
父親の診察に付き添うため、健太は再び病院を訪れることになる。
そこで彼は、これまでとは少し違う立場で、一人の女性と向き合うことになるのだった。




