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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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15/71

第15話 グラウンドでは、言い訳が通用しない

 六月最後の土曜日。


 大阪の空は朝から曇っていた。


 雨が降るのか、降らないのか。天気予報を確認するたびに、降水確率が変わっている。


 大野健太は、枕元に置いたスマートフォンを手に取った。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットには、朝六時からメッセージが流れていた。


『本日、予定どおり練習。雨天中止の場合は七時に連絡』


 田村剛からの連絡だった。


『了解。今日は新しいスパイクの実力を見せたるわ』


 松田浩一が続く。


『スパイク変えたところで、走れんかったら一緒やろ』


 藤井直樹の冷静なツッコミ。


『道具には夢があるんや』


『夢を見る前に体重計に乗れ』


 石田雄二まで参戦した。


 いつものやり取りだ。


 健太は思わず笑った。


 この仲間たちといると、学生時代に戻ったような気持ちになる。


 ただし、戻れるのは気持ちだけだ。


 現実には、三十五歳の腹があり、衰えた体力があり、平日の仕事で疲れ切った体がある。


 そして、恋愛経験は相変わらずゼロだった。


「よし。今日は違うところを見せたる」


 健太はベッドから起き上がった。


 何を見せるのかは、自分でもよく分かっていなかった。


     *


 河川敷のグラウンドに到着すると、すでに田村が準備を始めていた。


「おう、健太。今日は遅刻せんかったな」


「当たり前や。俺は時間を守る男やからな」


「先週、集合時間を三十分間違えたやつが何言うてんねん」


「それはカレンダーの見間違いや!」


「言い訳の仕方まで三十五歳やな」


 田村の横で、藤井が笑った。


 グラウンドには、少しずつメンバーが集まってきていた。


 森川信也は、相変わらず自信満々に肩を回している。


「今日は投げ込みするで。昔の球威を取り戻したる」


「昔って、何年前やねん」


 中村拓郎が尋ねた。


「高校時代や」


「二十年近く前やないか」


「細かいこと言うな!」


 森川は胸を張った。


 その直後、準備運動で前屈をした途端、腰を押さえた。


「……ちょっと待て。今日は腰の調子が悪い」


「まだボールも触ってへんぞ」


 田村が呆れた。


 健太も笑った。


 こういうところが、このチームらしい。


 口では強いことを言う。


 道具には金をかける。


 昔の実績を語る。


 しかし、実際に体を動かすと、思いどおりにはいかない。


 それでも、健太は思っていた。


 自分はまだ、野球なら何とかなる。


 恋愛は経験がない。


 女性との会話も苦手だ。


 だが、野球は違う。


 高校時代、強豪校の野球部にいた。


 レギュラーにはなれなかったが、練習はしてきた。


 三塁手としての経験もある。


 少なくとも、何も知らない素人ではない。


「よし、始めるぞ!」


 田村の声で、全員が集まった。


「今日は基本をやる。キャッチボール、ノック、連係プレー。派手な練習はいらん。まずは当たり前のことを当たり前にできるようにする」


「また基本かよ」


 松田が不満そうに言った。


「新しいバットの試し打ちは?」


「基本ができてからや」


「俺のバット、結構高かったんやけど」


「値段と実力は別や」


 藤井の言葉に、松田が黙った。


 健太はそのやり取りを聞きながら、少しだけ考えた。


 値段と実力は別。


 それは、野球だけの話ではないのかもしれない。


 高い服を着れば、女性に好かれるわけではない。


 会話のテクニックを覚えれば、相手の気持ちが分かるわけでもない。


 そんなことを考えながら、健太はグローブをはめた。


     *


 キャッチボールが終わり、ノックが始まった。


「大野、三塁!」


「おう!」


 健太は守備位置についた。


 田村がノッカーを務め、打球を転がす。


 一球目。


 正面に来たゴロを、健太は無難にさばいた。


「ナイス!」


 藤井が声をかける。


 二球目。


 少し三遊間寄りの打球だった。


 健太は一歩目を踏み出し、ボールに追いついた。


 グローブに収める。


 そこまではよかった。


 しかし、送球を急いだ。


 ファーストの石田がベースに入る前に投げてしまい、ボールは石田の頭上を越えていった。


「おい、大野!」


 石田が叫んだ。


「何してんねん!」


「いや、今のは石田が遅かったやろ!」


 健太は反射的に言い返した。


「俺がベースに入る前に投げたんはお前や!」


「いや、普通はあのタイミングで入るやろ!」


「普通って何やねん!」


 言い合いになりかけたところで、田村が手を上げた。


「ストップ」


 二人が黙る。


「健太。今、何を見て投げた?」


「何って……石田がファーストに入ると思ったから」


「思った?」


「そら、ファーストやから入るやろ」


「じゃあ、実際に入ってるか確認したんか?」


 健太は言葉に詰まった。


「……してへん」


「石田が悪いかどうかを決める前に、自分が何を見て、何を見てへんかったか考えろ」


 田村はボールを拾った。


「次、同じ打球が来たらどうする?」


「石田が入るのを確認してから投げる」


「それだけか?」


「……声をかける」


「そうや」


 田村はうなずいた。


「野球は、自分の頭の中だけで成立するもんやない。相手が何をしてるか見て、必要なら声をかける。自分の予想と違ったら、その場で判断を変える。それが連係や」


 健太は、グローブの中の手を握り直した。


 頭では分かる。


 しかし、ミスを指摘されると、どうしても相手の悪いところを探してしまう。


 自分だけが悪いわけではない。


 相手だって、間違える。


 それは確かだ。


 けれど、自分のミスを認める前に相手のせいにしてしまえば、何も変わらない。


「……悪かった、石田」


 健太は言った。


「次は確認してから投げるわ」


 石田は少し意外そうな顔をした。


「お、おう。分かってくれたらええわ」


「ただし、次にお前が太りすぎて動けんかったら、それは言うで」


「そこは黙っとけ!」


 周囲から笑い声が上がった。


 空気が和らぐ。


 健太も笑った。


 だが、胸の奥には、さっきの田村の言葉が残っていた。


 自分の頭の中だけで、物事を成立させようとしている。


 恋愛でも、同じことをしていないだろうか。


 女性が笑ってくれた。


 名前を呼んでくれた。


 親切にしてくれた。


 だから、自分に好意があるのではないか。


 そう考えて、相手の気持ちを確かめる前に、頭の中で関係を進めてしまう。


 そして、現実が想像と違うと、落ち込んだり、相手の態度に不満を持ったりする。


 野球でやっていることと、ほとんど同じだった。


     *


 次は、内野の連係プレーだった。


 一塁に走者がいる場面を想定し、三塁ゴロから二塁へ送球する練習だ。


 田村が説明を始めた。


「走者の位置を確認。打球を処理したら、状況を見て送球先を判断する。味方の声も聞くこと。分かったな?」


「了解!」


 健太たちは返事をした。


 最初の数回は、問題なかった。


 ところが、森川が投げた球が少し横にそれた。


 健太は捕球しようと動いたが、体勢が崩れた。


 それでも、すぐに二塁へ投げようとした。


「待て!」


 田村の声が飛ぶ。


 健太は慌てて投げるのをやめた。


「今の体勢で無理に投げたら、また暴投や」


「でも、早く投げなあかんやろ」


「早く投げることと、急いで投げることは違う」


 田村は続けた。


「間に合わんと判断したら、一つアウトを取ることを考えろ。何でもかんでも自分の理想どおりに進めようとするな」


「……分かった」


 健太はうなずいた。


 しかし、その後も失敗は続いた。


 森川の送球が高くなり、石田が捕球できない。


 中村が二塁へのカバーを忘れる。


 松田が打球を追いすぎて、ほかの選手とぶつかりそうになる。


 そのたびに、誰かが誰かに文句を言った。


「ちゃんと投げろや!」


「お前がカバーせえへんからや!」


「声出せって言うてるやろ!」


 練習は、だんだん険悪になっていった。


「ちょっと待て!」


 突然、藤井が声を上げた。


「お前ら、何の練習してるか分かってるか?」


「連係プレーやろ」


 中村が答えた。


「せやったら、何で連係せえへんねん」


 藤井は、一人ずつ顔を見た。


「森川は自分の球を投げることしか考えてへん。健太は自分が早くアウトを取ることしか考えてへん。石田は自分が捕りやすい球を要求する。松田は自分が目立つプレーをしたがる。全員、自分のことばっかりや」


「お前も偉そうに言うなや」


 森川が反論する。


「俺もや」


 藤井はあっさり認めた。


「俺かて、女性と話すときは自分が面白いと思われたいし、野球でもええところを見せたい。けど、自分が目立つことばっかり考えてたら、周りが見えへんようになる」


 その言葉に、健太は顔を上げた。


 藤井は女性との会話が得意だ。


 人当たりもよく、初対面の相手とも自然に話せる。


 健太から見れば、最初から何でもできる人間のように思えていた。


 しかし、藤井も自分の問題を抱えている。


「俺ら、昔は強豪校の野球部におったやろ」


 藤井が言った。


「けど、全員がレギュラーやったわけちゃう。控えやったやつも、ベンチに入れへんかったやつもおる。それでも、あの頃の話ばっかりする。昔の自分はすごかったって、いつまでも言うてる」


「……」


「今の俺らは、今の俺らや。昔の実績も、道具の値段も関係ない。今、目の前の仲間が何をしてるか。それを見んと、チームなんかできへん」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 河川敷を吹き抜ける風の音が聞こえた。


 健太は、自分のグローブを見下ろした。


 高校時代の自分。


 あの頃の自分は、今より体が軽かった。


 もっと走れた。


 もっと動けた。


 いつかレギュラーになれると信じていた。


 しかし、現実には最後まで控えのままだった。


 その悔しさを、ずっと心のどこかに残してきた。


 だからこそ、今でも野球がうまいと思われたい。


 女性からも、頼れる男だと思われたい。


 年齢に見合った経験がある人間だと思われたい。


 本当の自分を見せるより、理想の自分を見せようとしていた。


 そして、その理想を守るために、失敗を誰かのせいにしていたのかもしれない。


「……俺、さっきの送球もそうやったわ」


 健太が口を開いた。


「石田が悪いって思って、先に言い返してもうた。自分が確認してへんかったことは、後回しにした」


「まあ、そうやな」


 石田が素直にうなずいた。


「お前、昔からそういうとこあるしな」


「お前にだけは言われたないわ!」


 健太は思わず反論した。


「俺は食べ物を前にしたら、周りが見えんようになるだけや!」


「それが一番あかんやろ!」


 再び笑いが起こった。


 だが、今度の笑いは、誰かを責めるためのものではなかった。


 全員が、自分の欠点を少しだけ認めたうえで笑っていた。


     *


 練習の後半。


 田村は、もう一度同じ連係プレーを行うことにした。


「今度は声を出す。捕る前でも、捕った後でもええ。味方が何をするのか分からんかったら、確認しろ」


「了解!」


 打球が転がる。


 健太が捕球した。


「石田、入ってるか!」


「入ってる!」


「二塁、カバー頼む!」


「了解!」


 健太は味方の位置を確認し、送球した。


 今度は、石田のグローブにきちんと収まった。


「アウト!」


 田村が判定する。


「よし!」


 健太は小さく拳を握った。


 たった一つのプレーだった。


 試合で活躍したわけでもない。


 誰かに褒められるような、派手なプレーでもない。


 それでも、さっきまでの失敗とは違った。


 自分の思い込みだけで動かなかった。


 相手の位置を見た。


 声をかけた。


 返事を聞いた。


 そして、投げた。


 その結果、プレーが成立した。


「今のはよかったぞ」


 田村が言った。


「まあ、基本やけどな」


「分かってるわ!」


 健太は笑った。


 その後も失敗はあった。


 ゴロを後逸した。


 送球が高くなった。


 森川は相変わらず制球が悪く、最後には息を切らしてベンチに座り込んだ。


「俺、今日は本気出してへんからな」


「いつ本気出すねん」


 中村が尋ねる。


「来月や」


「毎月言うてるぞ、それ」


 チームは相変わらず弱かった。


 しかし、練習の終わりには、以前より少しだけ声が増えていた。


 失敗した選手に、ただ文句を言うのではなく、次に何をするか伝える。


 うまくいったプレーには、素直に声をかける。


 そんな小さな変化だった。


     *


 練習後。


 自動販売機の前で、健太はスポーツドリンクを飲んでいた。


 隣には藤井がいる。


「今日は、ちょっと分かった気がするわ」


 健太が言った。


「何が?」


「相手を見てるつもりで、実際は自分の考えを見てたんやなって」


「ほう」


「女性が笑ってくれたら、俺のことが好きなんちゃうかって考える。返事が遅かったら、嫌われたんちゃうかって考える。相手が何を考えてるか分からんのに、自分の中で勝手に答えを出してまう」


 健太は、空になったペットボトルを見つめた。


「野球でも同じやった。石田が入ると思った。森川の球なら捕れると思った。自分が思ったとおりにならんかったら、腹が立つ」


「せやな」


 藤井は否定しなかった。


「けど、相手のことを全部理解するなんて無理やで」


「……そうなんか?」


「当たり前やろ。俺かて、女性の気持ちなんか全部分からん。話しやすい相手やと思っても、付き合いたい相手とは限らん。楽しく話せても、恋愛感情があるとは限らん」


「お前でも分からんのか」


「分からんから、聞くんや。聞けることは聞く。相手が答えたくなさそうなら、それ以上は聞かん。自分の気持ちを伝えるときは、相手にも断る自由があることを忘れへん」


 藤井は、飲み終えたボトルをゴミ箱に入れた。


「恋愛って、相手の気持ちを当てるゲームちゃうからな」


 健太は、その言葉を頭の中で繰り返した。


 当てるゲームではない。


 答えを予想して、正解したら勝ち。


 間違えたら負け。


 そんな単純なものではないのだ。


「でも、相手に聞くのも怖いわ」


 健太は正直に言った。


「嫌われたらどうするんやって思う」


「嫌われるかもしれんな」


「そこは否定してくれや!」


 藤井は笑った。


「けど、嫌われるのが怖いからって、相手の気持ちを勝手に決めるのは違うやろ。自分の気持ちを伝えることと、相手に答えを強制することは別や」


「……そうやな」


「それに、断られたからって、健太の人生が終わるわけちゃう」


「分かってる。頭ではな」


「頭で分かってることを、実際にできるようになるまでが練習や」


 健太は、思わず藤井を見た。


「お前、たまにええこと言うな」


「たまにって何やねん。俺はいつでもええこと言うてるわ」


「自分で言うな!」


 二人は笑った。


 帰り支度をする仲間たちの声が聞こえる。


 来週の練習日程を相談する者。


 昼飯に何を食べるか話す者。


 新しいバットを自慢する者。


 いつもどおりの、ドリーム・エース・ナインだった。


 健太は、スマートフォンを取り出した。


 メモ帳を開き、今日のことを書いた。


『相手がこうするはずだ、と決めつけない』


『分からないときは、確認する』


『失敗したとき、相手のせいにする前に、自分が何をしたか考える』


 少し考えてから、最後に一行を加えた。


『自分の思いどおりにいかないことと、相手が悪いことは、同じではない』


 書き終えたところで、母親からメッセージが届いた。


『お父さんの次の診察、来週の金曜日になったから。仕事が休みなら、一緒に来てくれる?』


 健太は返信を打った。


『分かった。時間を確認しておく』


 以前なら、面倒だと思ったかもしれない。


 あるいは、母親に頼られることを、自分が必要とされている証拠のように感じたかもしれない。


 今は、そういう気持ちがまったくなくなったわけではない。


 誰かに必要とされたい。


 誰かに認められたい。


 誰かに好かれたい。


 その気持ちは、まだ自分の中にある。


 ただ、その気持ちを満たすために、相手の事情を無視してはいけない。


 少しずつでも、そう考えられるようになってきた。


     *


 帰宅すると、父親の正一が居間でテレビを見ていた。


「野球、どうやった?」


「まあまあやな」


「打ったんか?」


「今日は守備練習や」


「エラーしたんか?」


「……何で分かるねん」


 正一は、口元だけで笑った。


「お前は、うまくいったときより、失敗したときのほうが顔に出る」


「そうか?」


「そうや」


 父親はテレビの音量を少し下げた。


「野球も仕事も、人間関係も、思いどおりにはいかんもんや」


「また説教か?」


「説教やない。年寄りの経験談や」


 正一は、しばらく黙ってから言った。


「失敗することより、失敗したあとに何をするかのほうが大事やと思うで」


 健太は、返事をしなかった。


 父親の言葉は、今日の田村や藤井の言葉と重なっていた。


 自分の失敗を認める。


 必要なら謝る。


 次にどうするかを考える。


 それは、野球でも、仕事でも、恋愛でも変わらないのかもしれない。


「……俺、もう三十五やで」


 健太は、ぽつりと言った。


「知っとる」


「恋愛もしたことない。付き合ったこともない。手をつないだこともない」


「それも知っとる」


「このままで、ええんかな」


 正一は、すぐには答えなかった。


 テレビでは、プロ野球の過去の名場面が流れていた。


 しばらくして、父親が口を開いた。


「ええか悪いかは、お前が決めることやろ」


「……」


「ただ、何もせんまま、どうせ無理やと決めるんは違うと思うで」


 健太は父親を見た。


「失敗したら、また考えたらええ。相手に嫌やと言われたら、そこは引いたらええ。それでも、自分がどうしたいかまで、他人に決めてもらう必要はない」


 正一は、再びテレビに視線を戻した。


「まあ、わしも偉そうなこと言えるほど、立派な人間やないけどな」


「……ありがとう」


 健太は、短く答えた。


 自分は、恋愛をしたことがない。


 だから、何をすればいいのか分からない。


 しかし、経験がないことと、何も学べないことは違う。


 野球の練習と同じだ。


 一球目から完璧にできるわけではない。


 失敗する。


 注意される。


 恥をかく。


 それでも、次の一球を投げることはできる。


 健太は自分の部屋に戻り、机の上のノートを開いた。


 これまでに書いた言葉が並んでいる。


『相手の優しさを、自分への好意だと決めつけない』


『相手の人生は、相手のもの』


『名前を知ったからといって、相手を知ったことにはならない』


『分からないことを、都合のいい答えで埋めない』


 どれも、書いただけでは何も変わらない。


 実際に人と向き合ったとき、同じことができるとは限らない。


 それでも、忘れないように書いておく意味はあると思った。


 健太は、最後に今日の言葉を書き加えた。


『自分の思いどおりにいかないことと、相手が悪いことは、同じではない』


 ペンを置く。


 窓の外では、雨が降り始めていた。


 明日も、たぶん何かに失敗する。


 仕事で失敗するかもしれない。


 誰かとの会話で、余計なことを言ってしまうかもしれない。


 それでも、次に何をするかは、自分で選べる。


 健太はノートを閉じた。


 恋愛の試合は、まだ始まっていない。


 けれど、少なくとも今日は、自分の思い込みを一つだけ打ち返せた気がした。


 その小さな手応えを、健太は忘れないようにした。


 そして翌週。


 父親の診察に付き添うため、健太は再び病院を訪れることになる。


 そこで彼は、これまでとは少し違う立場で、一人の女性と向き合うことになるのだった。

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