第14話 恋愛経験ゼロの男、人生相談を受ける
六月の下旬。
大野健太は、会社の休憩室で、後輩の小野寺翔と向かい合っていた。
翔は二十四歳。
入社して三年目になる若手社員で、仕事を覚えるのも早く、分からないことがあれば自分から質問する。
健太とは正反対の部分が多かった。
ただし、何でもできるわけではない。
仕事では積極的な翔も、人間関係になると、妙に慎重になることがあった。
「大野さん、ちょっと相談してもいいですか?」
「何や? 仕事のことか?」
「いや……プライベートの話なんですけど」
翔は、周囲に誰もいないことを確認した。
その仕草を見て、健太は少し身構えた。
プライベートの相談。
まさか、恋愛の話だろうか。
いや、待て。
自分に恋愛相談をするということは、野球未経験者にホームランの打ち方を聞くようなものだ。
「俺でええんか?」
「大野さんだから、聞きたいんです」
「……そうか」
健太は、妙にうれしくなった。
自分にも、誰かの役に立てることがあるのかもしれない。
そう思ったのだ。
「それで、何や?」
翔は、少し恥ずかしそうに話し始めた。
「最近、知り合った女性がいるんです」
「ほう」
「何回か一緒にご飯を食べて、LINEも交換してて」
「ほうほう」
「でも、最近、返信が遅くなってきたんですよ」
健太の表情が、真剣になった。
これは難しい問題だ。
返信が遅くなった。
つまり、相手の気持ちが冷めてきたのかもしれない。
しかし、仕事が忙しい可能性もある。
家庭の事情かもしれない。
単にスマートフォンを見る時間が減っただけかもしれない。
以前の自分なら、ここで勝手に答えを出していただろう。
だが、今は違う。
「翔、その女性とは、どれくらいの頻度で連絡してるんや?」
「毎日です。朝と夜に、何かしら送ってます」
「相手からも来るんか?」
「最初は、向こうからも来てたんです。でも、最近は僕から送ることが多くて」
「そうか……」
健太は腕を組んだ。
ここで、何か気の利いたことを言いたい。
先輩らしい助言をしたい。
しかし、無理に答えを出す必要はない。
自分は、恋愛経験が豊富な人間ではないのだから。
「なあ、翔」
「はい」
「その女性、返信が遅くなった理由を、本人に聞いたんか?」
「いえ……。そんなこと聞いたら、面倒くさい男だと思われそうで」
健太は、少し考えた。
自分も同じだった。
相手に嫌われたくない。
変な男だと思われたくない。
だから、聞きたいことがあっても聞けない。
それなのに、頭の中では、悪い想像ばかりが膨らんでいく。
「……俺も、そういうところあるわ」
「大野さんもですか?」
「うん。相手にどう思われるかばっかり気にして、何も聞かれへんことがある」
翔は、少し驚いたような顔をした。
「大野さんでも、そんなこと考えるんですね」
「俺なんか、そんなんばっかりやで」
健太は苦笑した。
「ただな、返信が遅い理由は、本人にしか分からんやろ。忙しいだけかもしれんし、連絡を減らしたいと思ってるのかもしれん」
「……そうですね」
「せやから、勝手に決めつけんほうがええと思う」
そこまで話して、健太は一度言葉を切った。
自分が今、どんな助言をしようとしているのか。
それを考えた。
翔に、もっと連絡しろと言うのか。
それとも、諦めろと言うのか。
どちらも、今の情報だけでは判断できない。
「でも、どうすればいいんですかね」
翔が尋ねた。
健太は、正直に答えた。
「俺も、正解は分からん」
「……え?」
「いや、ほんまに。俺、恋愛経験ないからな」
翔は、困ったように笑った。
「そこは、堂々と言うんですね」
「隠してもしゃあないやろ!」
二人は笑った。
笑いが落ち着いたところで、健太は続けた。
「ただ、毎日連絡するのが相手の負担になってる可能性はあると思う。相手からの返信を待ってみてもええんちゃうか」
「こちらから連絡するのをやめる、ということですか?」
「試すためにやめるんやなくて、相手にも自分の時間があるって考えるんや。連絡したいと思ったときに送るのはええけど、返事を急かしたり、何通も続けて送ったりするのは、ちょっと考えたほうがええかもしれんな」
翔は、ゆっくりとうなずいた。
「確かに、返事が来ないと、不安になって何通か送ってしまうことがありました」
「そっか」
「嫌われたくないから、何か話題を作らないといけないと思って」
健太は、胸の奥が少し痛くなった。
その気持ちは、よく分かる。
会話が途切れるのが怖い。
相手が離れていくのが怖い。
だから、何かをしなければと思ってしまう。
しかし、その行動が、相手にとっては負担になっているかもしれない。
「なあ、翔」
「はい」
「相手に好かれたい気持ちは、別に悪いことちゃうと思うねん」
「……はい」
「でも、好かれたいからって、相手が望んでへんことまでせんようにせなあかんのやろな」
言いながら、健太自身がその言葉をかみしめていた。
これは、翔だけの問題ではない。
自分にも当てはまることだった。
なおみの笑顔を見たい。
真紀と話したい。
できることなら、誰かに好きになってもらいたい。
その気持ちは、今もある。
けれど、自分の気持ちを叶えるために、相手の気持ちを無視するわけにはいかない。
「ありがとうございます。ちょっと、考えてみます」
翔は、ほっとしたように笑った。
「おう。俺も偉そうなこと言える立場ちゃうけどな」
「いえ、聞いてもらえてよかったです」
その言葉を聞いて、健太はうれしくなった。
自分の助言が正しかったかどうかは分からない。
それでも、誰かの話を聞くことはできた。
答えを出せなくても、相手の話を聞くことはできる。
それだけでも、以前の自分よりは少し成長したのかもしれない。
*
その日の夜。
健太は、ドリーム・エース・ナインのメンバーに、昼間の出来事を話した。
もちろん、翔の名前や詳しい事情は出さなかった。
【大野健太】
「今日、後輩から恋愛相談されたわ」
【田村剛】
「何やと? 恋愛経験ゼロのお前に?」
【中村拓郎】
「会社も人材不足やな」
【大野健太】
「お前ら、ほんまに失礼やな!」
【藤井直樹】
「で、何て答えたん?」
健太は、後輩の話を聞いて、自分なりに考えたことを伝えた。
すると、山本和也から、すぐに返信があった。
【山本和也】
「返信速度だけで好意の有無を判断するのは、情報不足やな」
【中村拓郎】
「山本、お前は恋愛をデータ分析するな」
【山本和也】
「データが足りないなら、結論を保留するのが合理的やろ」
【藤井直樹】
「それは間違ってへん」
【田村剛】
「問題は、結論が出るまで待てるかどうかやな」
健太は、そのメッセージを見つめた。
結論が出るまで待つ。
簡単そうで、難しい。
自分は、分からないことがあると、すぐに答えを求めてしまう。
この女性は自分をどう思っているのか。
自分は恋人ができるのか。
いつになったら、童貞を卒業できるのか。
いつになったら、誰かに選んでもらえるのか。
答えが分からないから、不安になる。
不安だから、勝手に想像する。
そして、その想像を事実のように扱ってしまう。
健太は、スマートフォンを握り直した。
【大野健太】
「俺も、分からんことをすぐに決めつける癖があるわ」
【藤井直樹】
「自分で気づけたなら、少しずつ直していけばええんちゃうか」
【田村剛】
「ただし、恋愛の反省会ばっかりして、実際の行動を忘れるなよ」
【大野健太】
「分かってるわ!」
健太は笑った。
実際の行動。
それも大切だ。
いくら考えても、何もしなければ何も始まらない。
しかし、何かをする前に、相手の気持ちや状況を考える必要もある。
その両方を、少しずつ身につけていかなければならないのだろう。
*
翌日の昼休み。
健太は、工場の自動販売機の前で、小野寺翔と再び顔を合わせた。
「大野さん」
「おう。昨日の話、どうなった?」
翔は、少し考えてから答えた。
「こちらからの連絡を、少し控えてみました」
「そうか」
「そしたら、夜に向こうから連絡が来たんです」
「おお」
健太は、思わず声を上げた。
翔は、照れくさそうに笑った。
「仕事が忙しかったみたいです。最近、資格の勉強もしているらしくて」
「そうやったんか」
「僕、勝手に嫌われたと思ってました」
健太は、ゆっくりとうなずいた。
「そういうこともあるよな」
「はい。もちろん、これで脈ありだって決まったわけじゃないですけど」
健太は、少し驚いた。
昨日までの翔なら、連絡が来たことを喜んで、すぐに恋愛がうまくいくと期待していたかもしれない。
しかし、今日は違った。
相手の連絡を喜びながらも、それだけで結論を出してはいなかった。
「……お前、ええ考え方してるやん」
「そうですか?」
「うん」
健太は、心からそう思った。
相手から連絡が来た。
だから、自分を好きなのだ。
そう決めつけることもできる。
しかし、連絡が来たからといって、恋愛感情があるとは限らない。
それでも、連絡をもらってうれしいと思う気持ちは本物だ。
うれしいことと、相手の気持ちを決めつけることは、別なのだ。
「大野さんに相談して、よかったです」
翔は、そう言って頭を下げた。
「いや、俺は大したこと言うてへんよ」
「でも、話を聞いてもらえたから、少し落ち着きました」
健太は、返事に困った。
自分は、誰かの役に立てるような人間ではないと思っていた。
仕事では失敗もする。
恋愛経験はゼロ。
女性と話すだけで緊張する。
年齢ばかり重ねて、何も成長していないような気がしていた。
しかし、そんな自分でも、誰かの話を聞くことはできる。
自分の失敗から、何かを伝えることもできる。
それは、少しだけうれしいことだった。
「翔」
「はい」
「俺も、まだまだ勉強中や。お互い、頑張ろうや」
「はい!」
翔は笑顔で答えた。
健太は、その笑顔を見て思った。
人との関係は、相手を思いどおりに動かすことではない。
相手を知り、自分を知ってもらい、そのうえで、少しずつ距離を縮めていくことなのかもしれない。
そして、それは恋愛だけではなく、仕事でも、友人関係でも、家族との関係でも同じなのだろう。
*
その夜。
健太は、自分のノートを開いた。
これまで書いてきた約束を、もう一度読み返す。
『相手の優しさを、自分への好意だと決めつけない』
『自分が話したいことより、相手が話したいことを聞く』
『自分がどう思われるかだけでなく、相手がどんな人なのかを知ろうとする』
『誰かに認められたい気持ちがあっても、それを理由に相手へ見返りを求めない』
『相手を知ることは、自分の理想に相手を当てはめることではない』
健太は、最後の行の下に、新しい言葉を書いた。
『分からないことを、都合のいい答えで埋めない』
書き終えたあと、しばらくその文字を見つめた。
自分は、今まで何度も、分からないことを想像で埋めてきた。
女性が笑ってくれたら、自分に好意があるのかもしれない。
連絡が遅くなったら、嫌われたのかもしれない。
誰かが優しくしてくれたら、自分を特別に思ってくれているのかもしれない。
そうやって、相手の気持ちを勝手に作り上げていた。
けれど、本当の相手は、自分の想像とは違う人間だ。
自分の知らない事情があり、自分の知らない感情がある。
それを知るためには、焦らず、相手の話を聞かなければならない。
そして、相手が何も話してくれないときには、分からないまま受け止めることも必要なのだろう。
健太は、ノートを閉じた。
「……難しいなあ」
思わず声が出た。
恋愛は、思っていたよりも難しい。
女性に好かれる方法を覚えれば、うまくいくと思っていた。
見た目を整えて、会話を覚えて、積極的に行動すれば、恋人ができるのだと思っていた。
もちろん、そうした努力が無意味なわけではない。
しかし、それだけでは足りない。
相手にも気持ちがある。
相手にも都合がある。
自分の努力が、必ず報われるとは限らない。
その現実を受け入れたうえで、それでも人と関わろうとする。
それが、恋愛の始まりなのかもしれない。
健太は、ふとスマートフォンを手に取った。
なおみの連絡先は、知らない。
真紀の連絡先も、知らない。
今の自分にできることは、次に会ったとき、自然に挨拶をすることくらいだ。
それで十分なのかもしれない。
焦る必要はない。
ただし、いつまでも何もしないままでいいわけでもない。
自分が相手と話したいと思うなら、相手の状況を考えながら、一歩を踏み出す必要がある。
健太は、スマートフォンを机に置いた。
来週は、久しぶりに野球の仲間と体を動かす予定だ。
恋愛も、野球も、仕事も。
すぐに結果が出るとは限らない。
それでも、自分にできることを一つずつ積み重ねていくしかない。
健太は、明日の目覚ましを設定した。
そして、電気を消した。
眠りにつく直前、頭に浮かんだのは、なおみの笑顔だった。
やはり、会いたい。
もう少し話してみたい。
その気持ちは、消えていなかった。
ただ、今度は、彼女が自分を好きかどうかを考える前に、こう考えてみようと思った。
――次に会えたら、俺はどんな人間なのか。
――相手に、少しずつ知ってもらえたらええな。
そのために、まずは相手の話を聞く。
そして、自分のことも、少しずつ話す。
健太の恋愛活動は、まだ始まったばかりだった。
だが、彼が向き合わなければならないものは、女性の気持ちだけではなかった。
自分の中にある焦り。
見栄。
寂しさ。
そして、誰かに選ばれたいという、強い願い。
それらと向き合わない限り、相手が誰に変わっても、同じ失敗を繰り返すのかもしれない。
健太は、まだそのことを完全には理解していなかった。
そして、次の週末。
久しぶりのグラウンドで、彼はまた、自分の欠点と向き合うことになる。
――第14話・了




