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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第13話 優しさを勘違いする男、距離を測る女

 六月の中旬。


 大野健太は、工場の更衣室で作業着に着替えながら、スマートフォンの画面を眺めていた。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットに、田村剛からメッセージが届いている。


【田村剛】

「そろそろ各自、恋愛活動の進捗を報告せえへんか?」


【中村拓郎】

「進捗って何や。工事の工程会議か?」


【山本和也】

「目標に対する実績確認やろ。定量化せな改善できへん」


【石田雄二】

「俺は順調や。昨日も女性店員に注文聞かれた」


【藤井直樹】

「それは飲食店の通常業務や」


【石田雄二】

「分かっとるわ!」


 健太は、口元を緩めた。


 この連中は、相変わらずだった。


 恋愛経験が豊富なわけでもない。


 女性の気持ちを完璧に理解しているわけでもない。


 それなのに、誰かが恋愛の話を始めると、急に専門家のような顔をする。


 自分も同じだった。


 女性と付き合った経験はない。


 それでも、頭の中では何度も恋愛をしてきた。


 告白して、付き合って、休日に出かけて、手をつないで、結婚する。


 妄想の中なら、失敗することはなかった。


 現実では、女性と数分会話しただけで、帰宅後に何度も言葉を思い返している。


 我ながら、情けない話だった。


【田村剛】

「健太はどうや? 病院の看護師さんとは進展あったんか?」


 健太は、思わずスマートフォンを落としそうになった。


【大野健太】

「何もないわ。普通に父親の診察に付き添っただけや」


【中村拓郎】

「名前覚えられてたんやろ? それ、脈ありちゃうんか?」


【藤井直樹】

「中村、お前は恋愛相談を禁止する」


【中村拓郎】

「何でやねん!」


 健太は笑った。


 しかし、心のどこかでは、中村の言葉が引っかかっていた。


 名前を覚えられていた。


 自分を見て、声をかけてくれた。


 それだけで、うれしかった。


 もし、なおみが自分に少しでも好意を持ってくれていたら。


 そう考えたことがないと言えば、嘘になる。


 けれど、それを確かめる方法は分からなかった。


 そもそも、今の自分は、なおみの何を知っているのだろう。


 看護師として働いていること。


 患者に丁寧に接すること。


 穏やかな笑顔を見せること。


 それくらいだ。


 好きな食べ物も、趣味も、休日の過ごし方も知らない。


 恋愛経験があるのかどうかも知らない。


 誰かと付き合っているのかどうかも知らない。


 知らないことばかりなのに、自分に都合のいい想像だけは膨らんでいく。


 健太はスマートフォンをしまった。


「……ほんま、何やってんねやろな」


 自分に呆れながら、仕事場へ向かった。


     *


 昼休み。


 健太は食堂で、木村亮と向かい合っていた。


 木村は既婚者で、妻と子どもがいる。


 健太にとっては、恋愛経験のない自分とは違う世界を生きている男だった。


 もっとも、本人に言わせれば、結婚生活は楽しいことばかりではないらしい。


「昨日、嫁さんとケンカしてな」


 木村が味噌汁を飲みながら言った。


「またか?」


「子どものことでな。俺、仕事で疲れて帰ってきたから、ちょっと休もうと思ってたんよ」


「うん」


「そしたら、嫁さんも疲れてたんやろな。いろいろ言われてさ」


「それで?」


「俺も腹立って言い返してもうた」


 木村は、困ったように笑った。


「あとから考えたら、嫁さんも休みたかったんやろうな」


 健太は箸を止めた。


「お前も疲れてたんやろ?」


「そら、そうやけどな」


「ほな、どっちが悪いって話でもないんちゃうか」


「そうなんよ。どっちも疲れてたんやと思う」


 木村は弁当の唐揚げを口に入れた。


「でも、ケンカしてる最中は、そんなこと考えられへんねん。自分のしんどさばっかり考えてまう」


 健太は、黙って聞いていた。


 自分も同じだった。


 誰かに優しくされたら、うれしい。


 しかし、相手が自分の期待どおりに動いてくれなかったら、勝手に落ち込む。


 自分が寂しいときには、誰かにそばにいてほしい。


 でも、相手にも事情があるということを、つい忘れてしまう。


「結婚してても、分からんことばっかりなんやな」


 健太が言うと、木村は苦笑した。


「分からんことばっかりやで。結婚したら相手のことが全部分かると思ってたら、大間違いや」


「……そうか」


「付き合ってても、結婚してても、相手は別の人間やからな」


 木村はそう言って、食べ終わった弁当箱を片づけ始めた。


 健太は、その言葉を心の中で繰り返した。


 相手は別の人間。


 当たり前のことだ。


 けれど、自分は今まで、その当たり前のことをどれだけ理解していただろう。


 なおみの笑顔を見て、勝手に自分への好意を想像する。


 真紀に親切にされて、相性がいいのではないかと思う。


 女性の行動を、自分の願望に合わせて解釈してしまう。


 それでは、相手を知るどころか、相手を見てすらいないのかもしれない。


「なあ、木村」


「ん?」


「お前、嫁さんの好きなところって、どこなん?」


 木村は意外そうな顔をした。


「急に何やねん」


「いや、何となく」


「そうやなあ……」


 木村は、少し考えた。


「俺が落ち込んでるとき、無理に励ましたりせんところかな」


「へえ」


「ただ隣に座って、話を聞いてくれる。何か言わなあかんと思ってるわけやないんやろうけど、それが助かるときがある」


 健太は、ゆっくりとうなずいた。


 相手の気持ちを理解すること。


 相手が何を求めているのかを考えること。


 そして、必要以上に踏み込まないこと。


 それは、恋愛だけではなく、人間関係そのものに関わることなのだろう。


「まあ、俺も嫁さんの話を聞くようにせなあかんな」


 木村はそう言って、食堂を出ていった。


 健太は、しばらく席に残った。


 自分には、まだ誰かの話を聞くという経験が足りない。


 そう思った。


     *


 その日の帰り道。


 健太は、父親の薬を受け取るため、病院の近くにある薬局へ立ち寄った。


 薬局の前には、数人の客が並んでいた。


 健太は順番を待ち、受付で処方箋を出した。


「大野さんですね。少々お待ちください」


 薬剤師が処方箋を確認し、奥へ引っ込んだ。


 しばらくすると、カウンターの向こうから女性が出てきた。


 小川理沙だった。


 以前、父親の薬を受け取りに来たとき、丁寧に対応してくれた薬局の女性である。


「あ、大野さん。こんにちは」


「こんにちは」


 理沙は、以前と同じように明るい笑顔を見せた。


「今日は、お父さまのお薬ですね」


「はい。そうです」


「少しお待ちくださいね」


 理沙は薬の説明を確認し、必要な注意事項を丁寧に伝えてくれた。


 健太は、うなずきながら説明を聞いた。


「お薬の飲み方で、何か分からないことはありませんか?」


「大丈夫です。家でも確認しておきます」


「ありがとうございます。お父さまにも、よろしくお伝えください」


 理沙は笑顔で頭を下げた。


 健太も頭を下げ、薬局を出た。


 外へ出てから、ふと足が止まった。


 以前なら、こう考えていたはずだ。


 自分のことを覚えてくれている。


 笑顔で話してくれる。


 こちらのことを気にかけてくれる。


 もしかしたら、自分に好意があるのではないか。


 けれど、今回は違った。


 理沙は、仕事として丁寧に対応してくれた。


 父親の薬を受け取りに来る家族として、自分のことを覚えていたのだろう。


 それだけのことだ。


 健太は、少しだけ寂しさを感じた。


 そして、その寂しさを感じた自分に、苦笑した。


「何で、勝手に期待して、勝手に寂しなってんねん」


 誰かに好意を持つことは、悪いことではない。


 しかし、相手が同じ気持ちであることを前提にしてはいけない。


 自分の気持ちと、相手の気持ちは別々のものなのだ。


 健太は、薬局の袋を持ち直した。


 今日は、もう一つ気づいたことがあった。


 理沙に笑顔を向けられたとき、自分はうれしかった。


 そのうれしさは、相手が自分を好きだから生まれたものではない。


 自分が、彼女の笑顔をうれしいと感じたから生まれたものだ。


 相手の気持ちを勝手に決めつけなくても、自分の気持ちを大切にすることはできる。


 そのことに、健太は少しだけ救われた気がした。


     *


 自宅に帰ると、母の美代子が台所から顔を出した。


「薬、もらってきてくれた?」


「おう。これや」


「ありがとう。お父さん、もうすぐ帰ってくるから、あとで渡しといて」


「分かった」


 健太は薬を食卓に置いた。


 そのとき、母が何気なく尋ねた。


「そういえば、病院の看護師さんとはどうなん?」


「どうって、何が?」


「ほら、前に言うてた人」


「何もないって」


「名前、聞いたん?」


「名札に書いてあるやろ」


「そういう意味ちゃうわ」


 母は、あきれたように笑った。


「もう三十五歳なんやから、少しは積極的にならなあかんで」


「積極的って、何をすんねん」


「食事に誘うとか」


「仕事中の看護師さんを、いきなり食事に誘うんか?」


「……それは、ちょっと違うか」


「せやろ」


 健太は、呆れながらも笑った。


 母は、息子に早く恋人ができてほしいと思っている。


 その気持ちは分かる。


 しかし、母の言うとおりにすれば、すべてがうまくいくわけではない。


 自分の年齢に焦って、相手の気持ちを考えずに行動する。


 それでは、何も変わらない。


「俺、もうちょっと普通に話せるようになりたいねん」


 健太は、ぽつりと言った。


 母が顔を上げた。


「普通に?」


「そう。相手が何を考えてるか、全部分かるわけないやろ。でも、こっちが話したいことばっかり話すんやなくて、相手の話も聞けるようになりたい」


 母は、しばらく黙っていた。


 そして、少しだけ表情を和らげた。


「……そうやな。あんた、昔から自分の話をするのは好きやったもんな」


「それ、褒めてへんやろ」


「褒めてへんよ」


「正直すぎるわ!」


 二人は笑った。


 健太は、自分の部屋へ戻った。


 机の上には、恋愛について書き込んだノートがある。


 最初は、どうすれば女性に好かれるのかを書こうと思っていた。


 どんな服を着ればいいのか。


 どんな話をすればいいのか。


 どうすれば、恋人ができるのか。


 けれど、今では少し違う。


 自分は、どんな人間なのか。


 相手の話を、どれだけ聞けるのか。


 相手が自分の思いどおりにならなかったとき、どう受け止めるのか。


 そういうことを考えるようになっていた。


 恋人を作るためのノートが、いつの間にか、自分自身を見つめるためのノートになっていた。


 健太は、ページを開いた。


 そして、新しい一文を書いた。


『相手に好かれることと、相手を大切にすることは、同じではない』


 書き終えたところで、ペンを止めた。


 もし、なおみが自分に好意を持っていなかったら。


 もし、真紀が自分をただの知り合いだと思っていたら。


 もし、これから出会う女性たちが、自分の気持ちに応えてくれなかったら。


 それでも、自分は相手を尊重できるだろうか。


 答えは、まだ分からなかった。


 ただ、これまでの自分なら、相手に選ばれないことを、自分の価値が否定されたように感じていたはずだ。


 これからは、そう考えないようになりたい。


 相手が自分を好きにならなかったとしても、それは相手の自由だ。


 自分が相手を好きになったことまで、間違いになるわけではない。


 健太は、ノートを閉じた。


     *


 週末。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットに、田村から連絡が入った。


【田村剛】

「来週、感染対策を確認したうえで、少人数で体を動かせるか検討する。参加できるやつは返事してくれ」


 久しぶりに野球の話題が出た。


 健太は、うれしくなった。


 野球ができない日々は、思っていた以上に退屈だった。


 仕事が終われば家に帰り、食事をして、スマートフォンを眺める。


 恋愛のことを考える時間は増えたが、それだけで生活が充実するわけではない。


 体を動かしたい。


 仲間と笑いたい。


 自分の好きなことに、もう一度向き合いたい。


 そう思った。


【大野健太】

「参加する。久しぶりに体動かしたいわ」


【森川信也】

「ついに俺の剛速球を見せるときが来たな」


【藤井直樹】

「まずキャッチボールから始めろ」


【石田雄二】

「終わったら飯行こうや」


【山本和也】

「感染対策と運動強度の管理を優先しよう」


【中村拓郎】

「山本、お前は何でも難しくするな」


 健太は笑った。


 画面の中には、いつもの仲間たちがいた。


 自分と同じように、不器用で、見栄っ張りで、失敗ばかりしている男たち。


 彼らも、少しずつ変わろうとしている。


 誰かに好かれるためだけではなく、自分の生活を変えるために。


 健太はスマートフォンを置き、窓の外を見た。


 なおみに、また会いたい。


 真紀とも、また話せたらうれしい。


 その気持ちは、今も変わらない。


 ただ、彼女たちが自分をどう思っているのか、勝手に決めつけるのはやめよう。


 そして、自分の気持ちを無理に押し殺すこともしない。


 相手の気持ちと、自分の気持ち。


 その両方を大切にしながら、少しずつ前へ進んでいく。


 健太は、まだ恋愛の入り口に立ったばかりだった。


 だが、少なくとも以前よりは、自分が何をすべきなのかを考えるようになっていた。


 それが恋人を作る近道なのかどうかは、分からない。


 それでも、誰かを好きになるということが、相手を自分のものにすることではないのだと、少しずつ理解し始めていた。


 そして、次の出会いは、健太が想像していたものとは少し違う形で訪れることになる。


 その女性は、健太がこれまで出会った女性たちとは、まったく違う価値観を持っていた。


 健太は、まだ知らない。


 女性に好かれようとする努力だけでは、どうにもならない相手がいるということを。


――第13話・了

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