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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第12話 看護師の笑顔と、俺が聞けなかった質問

 六月の初め。


 大野健太は、朝から落ち着かなかった。


 理由は、父親の通院だった。


 もちろん、父の体調が心配なのは本当だ。


 しかし、それだけではない。


 病院に行けば、看護師のなおみに会えるかもしれない。


 そう考えている自分がいた。


「健太、保険証持ったか?」


 玄関で靴を履いていた父の正一が尋ねた。


「持ったで」


「診察券は?」


「ここにある」


「薬の手帳は?」


「あるって」


「そうか」


 父はそれ以上何も言わなかった。


 健太は、自分の手に握られた診察券を見下ろした。


 三十五歳にもなって、父親の通院に付き添う。


 昔なら、面倒だと思っていたかもしれない。


 今は、少し違う。


 父が年を取ってきたことを、以前よりも実感するようになったからだ。


 ただ、病院へ向かう車の中でも、健太の頭には別のことが浮かんでいた。


 ――なおみさん、今日もおるかな。


 ――前に会ったとき、俺のこと覚えてくれてたよな。


 ――名前、聞いてみようかな。


 最後の考えが浮かんだ瞬間、健太は自分で自分に突っ込んだ。


 いや、待て。


 名前を聞くこと自体は悪くない。


 しかし、相手は仕事中の看護師だ。


 患者や家族に名前を聞かれることなど、珍しくもないだろう。


 名前を教えてくれたからといって、親しくなれたことにはならない。


 そんなことは、もう分かっている。


 それでも、期待してしまう。


 自分を覚えていてほしい。


 自分にだけ、少し違う笑顔を見せてほしい。


 そんな願いが、心の奥に残っていた。


「健太」


「ん?」


「信号、青やぞ」


「あっ!」


 後続車に迷惑をかけるところだった。


「何ぼんやりしとるんや」


「いや、ちょっと考え事してて」


「病院の駐車場、混んでるかもしれんぞ。気ぃつけや」


「分かってるって」


 健太はハンドルを握り直した。


 まずは、父親の診察だ。


 恋愛のことを考えるのは、そのあとでいい。


 そう自分に言い聞かせた。


     *


 病院の待合室は、以前よりも静かだった。


 新型コロナウイルスの感染対策で、椅子の間隔が空けられている。


 受付には透明な仕切りが設置され、職員たちはマスクを着用していた。


 以前なら当たり前だった光景が、少しずつ変わり始めている。


「お父さん、ここで待っといて。受付の確認してくるわ」


「おう」


 健太は受付へ向かった。


 診察券を出し、必要な書類を確認してもらう。


 手続きを終えたところで、廊下の向こうから看護師が歩いてきた。


 白い制服。


 胸元の名札。


 患者に声をかけながら、書類を確認している。


 なおみだった。


 健太は、思わず足を止めた。


 いた。


 今日も、いた。


 ただ、それだけのことなのに、胸の奥が少し熱くなった。


 なおみは、年配の女性患者に何かを説明していた。


「お薬のことで分からないことがあったら、遠慮なく聞いてくださいね」


 女性が何度も頭を下げる。


 なおみは、その人が安心するまで、丁寧に話を聞いていた。


 健太は、その様子を眺めた。


 やっぱり、優しい人だ。


 そう思った。


 そして、すぐに気づいた。


 ――俺にだけ優しいわけやない。


 以前なら、そこで少しがっかりしていたかもしれない。


 けれど今は、そうではなかった。


 誰に対しても丁寧に接する。


 それは、看護師として仕事をするうえで大切なことなのだろう。


 自分が特別ではないからといって、彼女の優しさに価値がなくなるわけではない。


 健太は、小さく息を吐いた。


 そのとき、なおみが顔を上げた。


「あっ」


 目が合った。


「大野さん、こんにちは」


 名前を呼ばれた。


 健太の心臓が、一瞬だけ大きく跳ねた。


「こ、こんにちは!」


 声が裏返りかけた。


 なおみは、いつもの穏やかな声で続けた。


「今日は、お父さまの診察ですか?」


「はい。そうなんです」


「お父さま、待合室にいらっしゃいます?」


「はい。あそこで待ってます」


「分かりました。あとで確認に伺いますね」


「お願いします」


 それだけだった。


 なおみは、次の患者のところへ向かった。


 健太は、その場に立ち尽くしていた。


 名前を覚えてくれていた。


 前回の書類で確認しただけかもしれない。


 家族の付き添いとして、記録に残っていたのかもしれない。


 それでも、うれしかった。


 自分の名前を呼んでもらえる。


 たったそれだけのことが、こんなにも心に残る。


 健太は、少し恥ずかしくなった。


「……俺、単純やな」


 誰にも聞こえない声でつぶやいた。


     *


 診察が終わるまで、しばらく時間がかかった。


 父は待合室の椅子に座り、新聞の代わりにスマートフォンでニュースを読んでいた。


 健太は隣に座り、何度か廊下へ目を向けた。


 なおみの姿が見えるたび、つい目で追ってしまう。


 しかし、仕事中の彼女をじっと見続けるのも失礼だ。


 健太はスマートフォンを取り出した。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットには、朝からメッセージが届いていた。


【田村剛】

「みんな、最近どうや? 練習できへんけど、各自体動かしてるか?」


【森川信也】

「もちろんや。いつでも投げられるように肩は作ってる」


【藤井直樹】

「森川、まず腹を何とかせえ」


【森川信也】

「関係ないやろ!」


【石田雄二】

「腹は大事や。体の中心やからな」


【山本和也】

「その理屈なら、石田は中心が大きすぎる」


 健太は、思わず笑いそうになった。


 父が横からのぞき込んだ。


「何がおもろいんや?」


「いや、野球の仲間がアホなこと言うてるだけ」


「お前ら、もうええ年やろ」


「そうやけどな」


 健太はスマートフォンをしまった。


 そのとき、父がぽつりと言った。


「さっきから、あの看護師さんを気にしてるな」


「はっ?」


 健太は思わず父の顔を見た。


「何で分かるねん」


「分かるわ。廊下を見る回数が多い」


「いや、別に……」


「前にも会った人か?」


 健太は少し迷った。


 隠すほどのことではない。


 しかし、正直に話すのは恥ずかしかった。


「前に、書類を持ってきたときに会ってん」


「そうか」


「それだけやで」


「誰も、それ以上のことは聞いてへん」


「……」


 父は再びスマートフォンに目を落とした。


 健太は、顔が熱くなるのを感じた。


 自分では気づかれないようにしていたつもりだった。


 しかし、他人から見れば、分かりやすいのかもしれない。


「健太」


「何やねん」


「好きな人がおるんやったら、大事にしたらええ」


「まだ、そんなんちゃうって」


「ほな、何なんや?」


「それは……」


 言葉に詰まった。


 好きなのか。


 憧れているだけなのか。


 寂しいから、優しくしてくれる女性に惹かれているのか。


 自分でも、よく分からなかった。


 父は、そんな健太を見て、少しだけ笑った。


「分からんのやったら、急いで答えを出さんでもええやろ」


「……そうやな」


「ただし、相手の仕事の邪魔はするなよ」


「分かってるって!」


 健太は声を上げた。


 父は笑いながら、再びニュースを読み始めた。


 健太は、少しだけ肩の力が抜けた。


 父親に恋愛の話をする日が来るとは思っていなかった。


 しかも、まともな助言までされるとは。


 人生は、分からないものだ。


     *


 しばらくして、なおみが待合室へやってきた。


「大野さんのお父さま、いらっしゃいますか?」


「はい」


 健太が答えると、なおみは父の名前を確認し、診察後の説明について案内した。


 父は立ち上がり、なおみの説明を聞いた。


 健太も隣で耳を傾ける。


 薬のこと。


 次回の診察のこと。


 日常生活で気をつけること。


 なおみは、一つひとつ丁寧に説明してくれた。


 父が分からないところを質問すると、なおみは言葉を変えて説明し直した。


「つまり、無理をせず、何か変わったことがあったら相談したらええんやな?」


「はい。そのとおりです。気になる症状があれば、早めにご相談ください」


「分かりました。ありがとう」


「お大事になさってくださいね」


 説明が終わり、父が頭を下げた。


 健太も頭を下げた。


「ありがとうございました」


「いえ。お気をつけてお帰りください」


 なおみは、笑顔で会釈した。


 健太は、その笑顔を見ながら、心の中で考えた。


 今なら、聞けるだろうか。


 名前を。


 いや、名前は名札に書いてある。


 そうではない。


 何か、もっと彼女のことを知る質問をしたい。


 休みの日は何をしているのか。


 どんな食べ物が好きなのか。


 趣味はあるのか。


 どこで育ったのか。


 質問はいくらでも浮かんだ。


 しかし、そのどれもが、今ここで聞くべきことではない気がした。


 なおみは仕事中だ。


 父の診察に関する説明を終えたばかりだ。


 次の患者も待っているかもしれない。


 そんなときに、個人的な質問を並べるのはどうなのだろう。


 健太は口を開きかけて、閉じた。


「あの……」


 なおみが振り返った。


「はい?」


「いえ……。今日は、ありがとうございました」


 結局、それだけだった。


「どういたしまして」


 なおみは、穏やかに笑った。


「お父さまにも、よろしくお伝えください」


「はい」


 健太は父と一緒に、病院を後にした。


 駐車場へ向かう途中、少しだけ後悔した。


 もう少し話せたかもしれない。


 何か聞いてみてもよかったのではないか。


 しかし、すぐに考え直した。


 聞かなかったからといって、失敗したわけではない。


 相手の状況を考えて、今は聞かないと決めた。


 それも、一つの選択だ。


 これまでの健太は、行動することだけが大事だと思っていた。


 何もしなければ、何も始まらない。


 確かに、それも一理ある。


 しかし、相手の都合を考えずに行動することが、必ずしも正しいわけではない。


 時には、何もしないことが、相手を尊重することにつながる。


 健太は、そんなことを考えながら車のドアを開けた。


     *


 帰り道。


 父は助手席で、窓の外を眺めていた。


「健太」


「何や?」


「聞きたいこと、聞かんかったんか?」


「……何で分かるねん」


「顔に書いてある」


「そんな分かりやすいか、俺」


「昔からや」


 父は、楽しそうに笑った。


 健太は少しむっとした。


「別に、聞かんでもええねん」


「そうか」


「相手、仕事中やし。こっちの都合で質問するのも悪いやろ」


「そら、そういう場合もあるな」


「やろ?」


 健太は、少し得意げになった。


 父は、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「でもな。相手を尊重することと、嫌われるのが怖くて何も言えんことは、別やぞ」


 健太の手が、ハンドルの上で止まりかけた。


「……どういうことや?」


「今は仕事中やから聞かん。それは分かる。けど、いつでも相手の都合を理由にして、何もせんかったら、自分の気持ちも伝わらんままやろ」


「……」


「相手のことを考えるのは大事や。でも、自分の気持ちまで全部なかったことにせんでええ」


 父は、それだけ言うと、再び窓の外を見た。


 健太は、すぐには返事ができなかった。


 確かに、そのとおりかもしれない。


 今までは、自分の都合ばかりを考えていた。


 だから、相手の気持ちを想像することを覚えようとしている。


 しかし、その反動で、何もできなくなってしまったらどうなのだろう。


 相手に迷惑をかけたくない。


 嫌われたくない。


 変な男だと思われたくない。


 そんな気持ちが強くなりすぎて、最初から諦めてしまう。


 それでは、以前と形が違うだけで、結局は自分のことしか考えていないのかもしれない。


 健太は、信号が赤になるのを待ちながら考えた。


 自分の気持ちを押しつけることと、自分の気持ちを伝えること。


 その違いは、まだよく分からない。


 けれど、いつかは考えなければならない問題だった。


     *


 その夜。


 健太は、久しぶりに藤井直樹へ個別メッセージを送った。


【大野健太】

「ちょっと聞きたいことがある」


【藤井直樹】

「何や。ついに告白でもしたんか?」


【大野健太】

「してへんわ!」


【藤井直樹】

「冗談や。で、何?」


 健太は、しばらく入力欄を見つめた。


 そして、今日の出来事を書いた。


 病院でなおみに会ったこと。


 名前を覚えていてくれたこと。


 もっと話したかったが、仕事中だったので質問をやめたこと。


 父から、相手を尊重することと、嫌われるのが怖くて何も言えないことは違うと言われたこと。


 送信すると、藤井からの返信は少し遅れて届いた。


【藤井直樹】

「親父さん、ええこと言うな」


【大野健太】

「そう思うか?」


【藤井直樹】

「うん。ただ、今の段階で無理に個人的な質問をする必要もないと思うで。相手は仕事中やしな」


【大野健太】

「やっぱり、そうやんな」


【藤井直樹】

「でも、相手のことを知りたいなら、相手が答えやすい場面で、自然に会話することはできるやろ」


【大野健太】

「自然に会話って、どうするねん」


【藤井直樹】

「それを俺に聞くか? お前、三十五歳やぞ」


【大野健太】

「うるさいわ!」


 健太は笑った。


 そのあと、藤井からもう一通届いた。


【藤井直樹】

「健太。大事なんは、会話を成功させることちゃうと思うで」


【大野健太】

「どういう意味や?」


【藤井直樹】

「相手が答えたくなさそうなら、そこで引く。相手が話してくれたら、ちゃんと聞く。自分の話も少しする。そうやって、相手と自分の両方を知っていくんちゃうか」


 健太は、画面を見つめた。


 相手に質問することばかり考えていた。


 何を聞けばいいのか。


 どんな話題なら盛り上がるのか。


 どうすれば、自分に興味を持ってもらえるのか。


 しかし、会話は面接ではない。


 正しい質問をして、相手から合格をもらうためのものでもない。


 相手の話を聞く。


 自分のことも話す。


 その中で、互いに知っていく。


 そして、相手が自分に興味を持たないこともある。


 自分が相手と合わないと感じることだってある。


 それも含めて、相手と向き合うということなのだろう。


【大野健太】

「ありがとう。ちょっと考えてみるわ」


【藤井直樹】

「おう。あと、相手の笑顔だけで勝手に試合終了まで進めるなよ」


【大野健太】

「何やねん、それ!」


【藤井直樹】

「お前の恋愛、初回から九回裏まで妄想で進むからな」


 健太は、スマートフォンを置いて笑った。


 笑ったあと、ふと考えた。


 自分は、なおみと付き合いたいのだろうか。


 それとも、女性と付き合ったことがない自分を変えたいだけなのだろうか。


 なおみが好きなのか。


 看護師としての優しさに惹かれているのか。


 それとも、誰かに優しくされることに飢えているのか。


 答えは、まだ出なかった。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 なおみには、なおみの人生がある。


 自分が知らない時間があり、自分が知らない人間関係があり、自分が知らない喜びや悩みがある。


 それを知らないまま、勝手に恋人候補にしてしまうのは、彼女を知ることとは違う。


 健太はノートを開いた。


 四つ目の約束の下に、五つ目を書いた。


『相手を知ることは、自分の理想に相手を当てはめることではない』


 書き終えると、ペンを置いた。


 ノートには、まだ空白がたくさん残っていた。


 そこに、これから何が書き加えられるのか。


 健太自身にも分からなかった。


     *


 翌週。


 健太は、工場の休憩室で昼食を食べていた。


 隣に座った木村亮が、スマートフォンを見ながら話しかけてきた。


「健太、お前、最近ちょっと変わったな」


「またそれか。何やねん」


「前より、人の話を聞くようになった気がする」


「そうか?」


「前はさ、俺が話してる途中で、自分の話に持っていくことが多かったやん」


「……そうやったか?」


「そうやで。悪気はなかったんやろうけどな」


 健太は、箸を止めた。


 悪気はなかった。


 確かに、そうだったのだろう。


 自分が話したいことを話していただけだ。


 相手を傷つけようと思っていたわけではない。


 しかし、悪気がなければ、相手が嫌な思いをしないわけではない。


「俺、そんなにしゃべってたんかな」


「しゃべってたで。野球の話なんか、聞いてへんのに十分くらい話すときあるやん」


「十分は盛りすぎやろ」


「いや、十五分のときもあった」


「もっと増えとるやないか!」


 二人は笑った。


 木村は弁当の残りを食べながら続けた。


「でも、別に無理して変わらんでもええと思うで。聞くのも大事やけど、自分の話をするのも大事やし」


「藤井にも似たようなこと言われたわ」


「そらそうやろ。相手の話ばっかり聞いて、自分のことを何も話さんかったら、相手もお前がどんな人間か分からんやん」


「……なるほどな」


「ただし、話すぎは注意や」


「分かったって!」


 健太は笑った。


 そのとき、休憩室のテレビから、感染状況に関するニュースが流れた。


 世の中は、まだ落ち着いていない。


 外出や人との交流にも、さまざまな制限がある。


 恋愛を始めようとしても、簡単にはいかない時期だった。


 けれど、できることが何もないわけではない。


 自分の生活を整える。


 相手の話を聞く。


 自分の気持ちを見つめる。


 人との距離を考える。


 それらは、誰かと付き合っていなくてもできることだった。


 健太は弁当の最後の一口を食べた。


 そして、ふと思った。


 ――次に、なおみさんと会ったら。


 ――少しだけ、自分のことも話してみよう。


 それができるかどうかは、分からない。


 緊張して、また何も話せないかもしれない。


 それでも、相手の都合を考えながら、自分のことも少しずつ知ってもらう。


 その先に何があるのか。


 恋愛につながるのか。


 それとも、何も始まらないまま終わるのか。


 今は、まだ分からない。


 健太は、空になった弁当箱を片づけた。


 恋愛活動は、今日も続いている。


 ただし、相手の気持ちを確認する前に、自分の頭の中だけで勝手に試合を終わらせないこと。


 それだけは、忘れないようにしようと思った。


――第12話・了

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