第11話 再会した女性に、俺は何を期待していたのか
五月の終わり。
大阪の商店街には、少しずつ人の姿が戻り始めていた。
とはいえ、以前と同じというわけではない。
店先には消毒液が置かれ、入り口にはマスク着用を求める貼り紙がある。シャッターを下ろしたままの店もあれば、営業時間を短縮して営業を続ける店もあった。
いつもの風景なのに、どこか違う。
そんな日曜日の朝、俺は母親から買い物を頼まれた。
「健太、悪いけど、商店街の八百屋でジャガイモ買うてきてくれへん?」
「ジャガイモくらい、自分で買いに行ったらええやん」
「こっちは朝から洗濯して、あんたの昼ご飯も考えてるんやで」
「はいはい。何個?」
「袋に入ってるやつ一つ。あと、豆腐も」
「分かった」
俺は財布とマスクを持ち、玄関を出た。
四十歳まで、あと五年。
そんなことを考えながら歩く三十五歳の独身男は、日曜日の朝からジャガイモを買いに行く。
別に、それ自体は悪いことではない。
問題は、俺がその日常を、どこかで負けのように感じていたことだった。
同級生の中には、子どもと公園で遊んでいる奴もいる。
家族で旅行に行く奴もいる。
結婚して家を買い、住宅ローンの話をしている奴もいる。
一方、俺は親に頼まれて買い物をしている。
もちろん、結婚しているから幸せとは限らない。独身だから不幸とも限らない。
頭では分かっている。
それでも、他人の人生と自分の人生を比べてしまう。
そして比べるたびに、俺は自分に足りないものばかり数えていた。
彼女がいない。
恋愛経験がない。
誰かに必要とされている実感がない。
だから俺は、女性に優しくされると、その小さな出来事に大きな意味を持たせたくなるのかもしれなかった。
*
八百屋でジャガイモと豆腐を買い、帰り道を歩いていると、商店街の一角で人が集まっているのが見えた。
閉店した文房具店の前だった。
店のシャッターの横に机が置かれ、段ボール箱や紙袋が積まれている。
近づくと、商店街の人たちがマスク姿で何かを仕分けしていた。
「これ、子ども用と大人用で分けたらええんですか?」
聞き覚えのある声がした。
俺は足を止めた。
そこにいたのは、佐藤真紀さんだった。
先日、スーパーで偶然出会い、その後、弁当屋でも話をした女性。
家族のことで電話をしていたところを見かけた、あの人だ。
真紀さんは、白いマスクをつけ、段ボールから日用品を取り出していた。
俺に気づくと、少し驚いたように目を丸くした。
「あ、大野さん」
「お、おう。佐藤さん」
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が少し温かくなった。
自分の名前を覚えていてくれた。
たったそれだけのことだった。
だが、俺の頭の中では、早くも余計な考えが動き始める。
俺のこと、覚えてくれてたんや。
もしかして、少しは印象に残ってるんかな。
いや、待て。
名前を知っている相手なら、覚えていても不思議ではない。
俺は頭の中で、自分の妄想にブレーキをかけた。
「何してるん?」
「商店街の人たちと、日用品をまとめてるんです。困っている家庭に届ける分もあるみたいで」
「へえ」
「私、今日は少し時間があるので、お手伝いに来たんです」
真紀さんはそう言って、手元の紙袋を整えた。
俺は、段ボールの中にマスクやティッシュ、保存のきく食品などが入っているのを見た。
「俺も手伝おうか?」
口にしてから、少しだけ後悔した。
別に、手伝うこと自体が嫌なわけではない。
ただ、真紀さんに格好よく見られたいという気持ちが、ほんの少し混ざっていた。
俺はその気持ちを自分で認めることができず、すぐに言い訳を探した。
「いや、俺、力仕事なら得意やし。工場で働いてるからな」
真紀さんは笑った。
「助かります。じゃあ、あそこの箱をこっちに運んでもらえますか?」
「おう、任せとけ」
俺は腕まくりをして、段ボール箱を持ち上げた。
思ったより重い。
「うおっ……!」
腰に力を入れ直す。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。これくらい余裕や」
強がった瞬間、腰に嫌な感覚が走った。
俺は慌てて箱を机に置いた。
「……ちょっと重いな、これ」
「無理しないでください。中身を分けて運べばいいんですから」
真紀さんは箱を開け、いくつかの袋に分け始めた。
俺も黙って手伝った。
箱を運ぶ人。
中身を確認する人。
数量を記録する人。
配達先ごとに袋をまとめる人。
それぞれに役割があり、誰か一人が頑張れば済む作業ではなかった。
工場で働いている俺には、こういう作業の進め方はよく分かる。
無理に一人で抱え込めば、時間がかかるし、ミスも増える。
必要なのは、力自慢ではなく、周囲との連携だった。
ふと、野球の練習を思い出した。
俺はボールを投げるとき、相手が捕れるかどうかを十分に見ず、自分が投げたいタイミングで投げることがある。
恋愛でも同じだった。
自分が話したい。
自分が好かれたい。
自分が認められたい。
相手がどうしたいのかを確認する前に、自分の気持ちを先に動かしてしまう。
段ボールの中身を袋に詰めながら、俺はそんなことを考えていた。
*
「大野さんって、こういう作業、慣れてるんですね」
しばらくして、真紀さんが言った。
「まあ、工場で働いてるからな。手順とか、間違えたらあかんことには、うるさい方やと思う」
「そうなんですね。私は、こういうの慣れてなくて」
「いや、ちゃんとできてるやん」
「そうですか?」
「うん。分からんことを聞いてるし、勝手に決めつけてへんし」
言ってから、俺は自分の言葉に少し驚いた。
以前の俺なら、女性に何かを褒められたとき、自分も相手を褒め返せばいいと思っていた。
だが今は、相手の行動を見て、そのまま口にしただけだった。
真紀さんは、照れたように笑った。
「ありがとうございます。でも、私、家では結構失敗するんですよ」
「そうなん?」
「料理も、たまに失敗します。前なんて、煮物を作ったつもりが、ほとんど汁物になってしまって」
「それ、俺の得意分野や。煮物やと思って食べたら、だしの効いたスープやったってことやろ?」
「そうです。しかも、母に『味は悪くないけど、これは煮物じゃない』って言われました」
「お母さん、厳しいなあ」
二人で笑った。
それだけの会話だった。
結婚の話も、恋愛の話もしていない。
連絡先も交換していない。
それでも、俺は久しぶりに、女性と自然に話せた気がした。
俺は、相手に好かれるための言葉を探すことを、少しだけ忘れていた。
真紀さんが、次の袋を手に取った。
「大野さんは、普段、日曜日は何をしてるんですか?」
その質問を聞いた瞬間、俺の心臓が一度だけ大きく跳ねた。
普段、何をしているのか。
そんなことを聞かれただけだ。
それなのに、俺の頭の中では、いくつもの答えが浮かんだ。
野球をしている。
映画を見ている。
たまに友達と食事に行く。
どれも間違いではない。
しかし、俺は一瞬だけ、自分を少しでも立派に見せようとした。
「まあ、いろいろやな。野球もやってるし、最近は体を鍛えたりもしてる」
「野球ですか?」
「草野球やけどな。高校のときも野球部やったし」
「そうなんですね。すごいですね」
その言葉を聞いた途端、俺の中で小さな期待が膨らんだ。
すごいですね。
また、それだ。
俺は何度、この言葉を都合よく受け取ってきたのだろう。
相手は、俺の話を聞いて、普通に感想を返してくれただけかもしれない。
それなのに俺は、相手が自分に興味を持ってくれた証拠として扱いたくなる。
「いや、全然すごくないで。うちのチームなんか、口ばっかり達者でな。高いグローブ持ってるくせに、まともに捕られへん奴もおるし」
「ふふっ。楽しそうですね」
「まあ、楽しいのは楽しいな」
俺は、少し考えてから続けた。
「でも、最近は、自分が楽しむだけじゃあかんのかなって思うこともあるわ」
「どういうことですか?」
「野球でも、俺が打ちたいとか、俺が目立ちたいとか、そういう気持ちが先に出るときがあるねん。守備でも、ちゃんと周りを見てへんかったり」
自分から話しているうちに、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
こんな話をして、格好悪くないだろうか。
失敗を認める男は、女性から見て魅力的なのだろうか。
そんな計算が頭をよぎった。
俺は、自分の中に残っている癖に気づいた。
反省することさえ、誰かに褒められるための材料にしようとしている。
真紀さんは、少しだけ考えてから答えた。
「でも、自分で気づけたなら、変えられるんじゃないですか?」
「……そうかな」
「私も、失敗したときに、つい自分を責めすぎることがあります。でも、責めるだけでは何も変わらないので」
彼女はそう言って、袋の口を閉じた。
「次にどうするかを考えるしかないんですよね」
その言葉は、特別なものではなかった。
人生を変える名言でもなければ、恋愛指南の決め台詞でもない。
それでも、俺には妙に残った。
失敗した自分を責める。
そのあとで、誰かに慰めてもらいたくなる。
慰めてもらえれば、少しだけ自分を許せる。
だが、次に同じことをしないために何を変えるのか。
俺は、その部分を後回しにしてきたのかもしれない。
*
昼前になると、仕分け作業は一段落した。
商店街の人たちは、届け先ごとに荷物を分けていった。
俺も最後の袋を机に置き、腰を伸ばした。
「助かりました。ありがとうございます」
真紀さんが頭を下げた。
「いや、これくらい普通やろ」
俺は、いつものように答えた。
そして、その直後だった。
頭の中に、余計な声が浮かんだ。
普通のことをしたんだから、何かいいことがあってもええんちゃうか。
連絡先を聞いてみるとか。
今度、一緒に食事に行こうと誘ってみるとか。
ここまで話せたんだから、少しくらい距離を縮めてもいいんじゃないか。
自分の中に、期待が芽生えている。
俺はそれを、無理に消そうとはしなかった。
誰かを気になると思うこと自体は、悪いことではない。
問題は、その気持ちを理由にして、相手にも何かを返してもらおうとすることだ。
俺は、真紀さんを見た。
彼女は、商店街の女性と配達先について相談している。
さっきまで笑っていた顔とは違い、真剣な表情だった。
俺は声をかけるのをやめた。
今、彼女は作業の続きをしている。
俺が自分の気持ちを整理するために、わざわざ彼女の時間を使う必要はない。
「ほな、俺は帰るわ」
「あ、今日は本当にありがとうございました」
「また商店街で会ったら、よろしく」
「はい。また」
それだけだった。
俺は買い物袋を持ち、家へ向かった。
歩きながら、少しだけ寂しさを感じた。
何かが始まったわけではない。
連絡先も知らない。
彼女の家族の事情も、仕事も、好きなものも、詳しくは知らない。
俺は彼女について、ほんの少しのことしか知らなかった。
それなのに、俺は彼女と話せた時間を、何か特別なものにしたくなっていた。
その気持ちに気づけただけでも、今日は一歩進んだのかもしれない。
だが、気づいたからといって、すぐに変われるわけではない。
俺の中には、まだ誰かに認められたい気持ちが、しつこく残っていた。
*
帰宅すると、母親が台所から顔を出した。
「遅かったな。何してたん?」
「商店街で、荷物の仕分けを手伝ってた」
「へえ。あんたが?」
「なんやねん、その反応」
「いや、あんた、頼まれた買い物だけして帰ってくると思ってたから」
「俺を何やと思ってんねん」
「三十五歳の息子」
「説明になってへんわ!」
母親は笑いながら、俺からジャガイモと豆腐を受け取った。
「でも、ええことしたな」
その一言に、俺は一瞬、胸を張りかけた。
ええことしたな。
褒められた。
そう思った直後、俺は少しだけ考えた。
母親に褒められるのは、別に悪いことではない。
だが、誰かに褒められたから良い行いになったわけでもない。
俺が何をしたのか。
何のためにしたのか。
そして、次にどうするのか。
その方が大切なのだろう。
「まあ、たまたまや」
俺はそう答えて、自分の部屋へ向かった。
*
夜。
俺は、いつものようにドリーム・エース・ナインのグループチャットを開いた。
田村から、メッセージが届いていた。
『今日は自主練した奴おるか?』
中村がすぐに返信した。
『パチンコ屋まで歩いた。かなりの運動量や』
藤井が返す。
『それは自主練ちゃう。移動や』
石田からは、写真が送られてきた。
大盛りのカレーだった。
『筋肉を作るための栄養補給』
田村が書き込む。
『お前の場合、筋肉より先に腹が成長してるやろ』
いつものやり取りに、俺は笑った。
そのあと、俺は今日の出来事を簡単に報告した。
『商店街で荷物の仕分けを手伝ってきた。前に話した佐藤さんにも会った』
すぐに田村から返信が来た。
『おお! 再会イベント発生やんけ!』
中村も続く。
『これは脈ありやろ。荷物を運んだんやから、次は心を運べ』
『何をうまいこと言うたつもりやねん』
俺は笑いながら打ち込んだ。
藤井から、少し遅れてメッセージが届いた。
『それで、どうしたいん?』
俺は画面を見つめた。
どうしたいのか。
真紀さんと、もっと話してみたい。
できれば、仲良くなりたい。
その気持ちは確かにある。
だが、彼女が俺と仲良くなりたいと思っているかどうかは分からない。
俺は、正直に打ち込んだ。
『また会ったら話したいとは思う。でも、今日手伝ったからって、何か期待するのは違う気がした』
少しして、藤井が返信した。
『ええやん。気になるなら、相手のことを少しずつ知っていけばええ。ただし、相手が同じ気持ちかどうかは別の話や』
田村も続けた。
『俺らの恋愛強化計画、ようやく最初の一歩を踏み出した感じやな』
『俺、まだ誰とも付き合ってへんぞ』
『誰が付き合った言うた。勝手に進塁するな』
その返事に、俺は声を出して笑った。
野球で言えば、まだ打席に立っただけだ。
ヒットを打ったわけでも、塁に出たわけでもない。
ましてや、ホームインなどしていない。
俺はスマートフォンを置き、机のノートを開いた。
今日の反省を書く。
一つ目。
誰かの役に立つことと、その人に好かれることは別。
二つ目。
相手に興味を持つことは、相手の気持ちを決めつけることではない。
三つ目。
自分の善意を、相手から何かをもらうための取引にしない。
書き終えたあと、俺はペンを置いた。
正直に言えば、真紀さんとまた話せたら嬉しい。
彼女が俺のことを少しでも良く思ってくれたら、もっと嬉しい。
その気持ちまで否定する必要はない。
ただ、その気持ちを理由に、彼女の人生を自分の都合で動かそうとしてはいけない。
それだけは、忘れないようにしようと思った。
*
翌日の昼休み。
工場の食堂で、俺は木村亮と向かい合っていた。
「最近、健太、ちょっと変わったな」
木村が味噌汁を飲みながら言った。
「何が?」
「前より、人の話を聞くようになった気がする」
「前は聞いてへんかったみたいに言うな」
「いや、聞いてはいたで。聞きながら、自分の話をするタイミングを探してる感じやった」
「……それ、結構ひどいこと言うてるぞ」
「でも、当たってるやろ?」
俺は言い返せなかった。
木村は悪気のない顔で続けた。
「この前、俺が子どもの話してたときも、最後まで聞いてくれたやん。前やったら、途中で高校野球の話に変わってたと思うわ」
「そんなことしてたか?」
「してたで。三回は聞いた」
「三回も?」
「正確には四回や」
「増えとるやないか!」
二人で笑った。
だが、笑いながら、俺は思った。
俺は女性に対してだけではなく、普段から、自分が話したいことを優先していたのかもしれない。
自分の経験を話す。
自分の考えを伝える。
自分の正しさを分かってもらう。
それが会話だと思っていた。
しかし、相手の話を最後まで聞くことも、相手の考えを理解しようとすることも、同じくらい大切なのだろう。
「なあ、木村」
「ん?」
「お前、結婚してから、そういうこと考えるようになったん?」
「まあな。結婚したら、何でも分かり合えると思ってたけど、全然ちゃうからな」
「そうなん?」
「好きでも、考え方が違うことはある。家事のことも、金のことも、子どものことも。相手が自分と同じ考えやと思い込んだら、喧嘩になる」
木村は少し笑った。
「俺も、偉そうなこと言えるほどできた夫ちゃうけどな」
その言葉が、妙に印象に残った。
結婚している木村も、すべてを分かっているわけではない。
恋愛経験のない俺が知らないことを、彼は経験している。
それでも、彼にも分からないことがある。
つまり、人間関係には、最初から答えを知っている人間などいないのかもしれない。
少なくとも俺は、恋愛の正解を知らない。
だからこそ、相手のことを知ろうとするしかないのだ。
*
その日の帰り道、俺は駅前の薬局に立ち寄った。
父親の薬を受け取るためだった。
店内には、夕方の買い物客が何人かいた。
カウンターの向こうで、薬剤師が客に説明をしている。
その横に、見覚えのある女性がいた。
なおみさんだった。
以前、父親の書類を届けた病院で会った看護師。
患者に優しく声をかけていた、あの人だ。
なおみさんは、薬局のスタッフと何かを確認していた。
病院からの連絡で来ているのか、それとも個人的な用事なのか、俺には分からない。
声をかけようか。
そう考えた。
しかし、彼女は仕事の話をしているようだった。
俺はそのまま、薬を受け取るための順番を待った。
やがて、なおみさんがこちらに気づいた。
「あれ、大野さん?」
「あ、どうも」
「お父さま、お変わりありませんか?」
「はい。今のところ、落ち着いてます。いつもありがとうございます」
「それならよかったです」
なおみさんは、穏やかに微笑んだ。
以前なら、俺はその笑顔を見ただけで、胸の中に大きな期待を膨らませていたかもしれない。
だが、今は少し違った。
彼女は、父親の様子を気にかけてくれた。
俺は、そのことに感謝した。
それ以上の意味があるかどうかは、分からない。
「なおみさんも、お仕事お疲れさまです」
「ありがとうございます。大野さんも、お仕事頑張ってくださいね」
「はい」
会話は、それで終わった。
なおみさんは、再びスタッフとの話に戻った。
俺も薬を受け取り、薬局を出た。
夜風が、マスクの隙間から頬に触れた。
俺は歩きながら、今日のことを振り返った。
真紀さんと話した。
木村の話を聞いた。
なおみさんと短い挨拶を交わした。
誰とも、恋愛関係にはなっていない。
誰からも、特別な好意を示されたわけではない。
それでも、以前の俺よりは、少しだけ他人のことを考えられた気がした。
恋愛活動という名前をつけた計画は、まだ何も成果を出していない。
だが、俺が変わらなければ、誰かと出会っても、同じ失敗を繰り返すだけだ。
俺は、歩きながら小さくつぶやいた。
「まずは、ちゃんと相手を見ることやな」
自分がどう思われているかではなく。
相手が何を考えているのか。
何を望み、何を嫌がり、どんな人生を生きているのか。
それを知ろうとすること。
簡単そうで、俺には難しい。
けれど、難しいからといって、避け続けるわけにはいかない。
俺は三十五歳だ。
恋人はいない。
恋愛経験もない。
それでも、これから誰かと出会う可能性まで、なくなったわけではない。
そして、出会いがあるかどうかとは別に、俺自身が変わることには意味がある。
家に帰ると、母親が夕飯の支度をしていた。
「健太、ご飯できるで」
「分かった。手伝うわ」
「えっ?」
母親が、包丁を持ったまま振り返った。
「何や、その顔」
「いや、あんたから手伝うなんて言葉が出ると思わんかったから」
「俺を何やと思ってんねん!」
母親は笑った。
俺も笑った。
いつもと同じ、古い家の台所。
特別なことなど何もない。
けれど、俺はその日、少しだけ違う気持ちで、食卓の準備を始めた。
恋愛のためだけに、人間を変える必要はない。
誰かに好かれるためだけに、優しくなる必要もない。
自分が誰かと生きていきたいと思うなら、まず、自分が他人とどう向き合っているのかを知る必要がある。
俺はまだ、その入り口に立ったばかりだった。
そして、数日後。
父親の定期的な通院に付き添うことになった俺は、病院でなおみさんと再び顔を合わせることになる。
今度は、ただ挨拶を交わすだけでは終わらない出来事が待っていた。
ただし、それは俺が期待しているような、都合のいい恋愛の始まりではなかった。




