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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第10話 優しい言葉をくれた女性の事情

 五月。


 ゴールデンウィークが終わっても、大阪の街には、いつもの活気が戻っていなかった。


 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、緊急事態宣言が続いていた。


 会社では、部署ごとに出勤時間をずらすことになった。


 食堂のテーブルには透明な仕切りが置かれ、昼休みの雑談も少なくなった。


 以前なら、仕事が終われば草野球の仲間と集まっていた。


 居酒屋で酒を飲み、くだらない話で笑い、次の試合について語り合う。


 だが、今はそれもできない。


 家に帰り、食事をして、風呂に入る。


 テレビを見て、スマートフォンを眺め、眠る。


 そんな毎日が続いていた。


「健太、あんた最近、スマホばっかり見てるな」


 夕食のとき、母親に言われた。


「別にええやろ」


「目、悪くなるで」


「もう悪いわ」


「そういう問題ちゃうねん」


 母親は呆れたように笑った。


 俺は、味噌汁をすすった。


 スマートフォンを見ている時間が増えたのは、確かだった。


 動画を見る。


 ニュースを見る。


 野球用品の値段を調べる。


 そして、ときどき恋愛について検索する。


 女性に好かれる話し方。


 三十五歳からの恋愛。


 恋愛経験がない男性の特徴。


 検索すればするほど、いろいろな情報が出てきた。


 清潔感が大切。


 相手の話を聞くことが大切。


 自信を持つことが大切。


 行動することが大切。


 どれも間違ってはいないのだろう。


 だが、画面の向こうの誰かが書いた成功談を読んでも、自分の生活は変わらなかった。


 俺は、動画を見ているだけで、何かを学んだ気になっていたのかもしれない。


 実際には、何もしていない。


 そのことに気づき始めていた。


     *


 五月十二日、火曜日。


 仕事帰り、俺は近所のスーパーに立ち寄った。


 母親に頼まれた牛乳と卵を買うためだった。


 店内は、いつもより静かだった。


 入口には消毒液が置かれ、買い物客は距離を取って並んでいる。


 俺はカゴを持ち、牛乳売り場へ向かった。


 その途中、飲料コーナーの前で、女性が困ったように商品を見比べていた。


 三十代くらいだろうか。


 肩までの髪を後ろでまとめ、薄い色のカーディガンを着ている。


 片手には買い物カゴ。


 もう片方の手には、スマートフォンが握られていた。


 女性は商品を手に取っては戻し、何かを確認している。


 俺は、通り過ぎようとした。


 そのとき、女性が小さくつぶやいた。


「……どっちやったかな」


 どうやら、何かを探しているらしい。


 俺は少し迷った。


 声をかけるべきか。


 いや、余計なお世話かもしれない。


 それに、見知らぬ女性に話しかけるのは、まだ苦手だった。


 以前の俺なら、ここで声をかけたあと、相手が笑ってくれただけで、勝手に期待していたかもしれない。


 だが、今は違う。


 困っているように見えても、本当に助けを求めているとは限らない。


 まずは、相手の反応を確かめればいい。


「あの……」


 俺は、少し離れたところから声をかけた。


「何か探してはるんですか?」


 女性が振り返った。


「あ、すみません。ちょっと、母に頼まれたものを探していて」


「そうなんですか」


「いつも買ってる商品なんですけど、パッケージが変わったみたいで……」


 女性は、スマートフォンの画面を見せた。


 そこには、商品名と写真が表示されていた。


「ああ、これなら、あっちの棚にあるかもしれませんね」


 俺は、以前見かけた場所を指さした。


「本当ですか? ありがとうございます」


 二人で棚を確認すると、商品はすぐに見つかった。


「ありました!」


 女性の顔が明るくなった。


「よかったですね」


「助かりました。ありがとうございます」


「いえいえ」


 会話は、それで終わった。


 女性は商品をカゴに入れ、俺に軽く頭を下げた。


 俺も会釈して、その場を離れた。


 たったそれだけの出来事だった。


 しかし、牛乳をカゴに入れながら、俺は少しだけ考えていた。


 今の俺は、何かを期待して声をかけたわけではなかった。


 困っているように見えたから、声をかけた。


 相手が助かったなら、それでいい。


 そこに恋愛の可能性があるかどうかは、関係ない。


「……こういうことなんかな」


 俺は、小さくつぶやいた。


 もちろん、これだけで自分が変わったとは思わない。


 ただ、以前よりも、少しだけ自然に人と接することができた気がした。


     *


 その女性と再会したのは、三日後だった。


 金曜日の夕方。


 俺は、会社から帰る途中で、商店街の小さな弁当屋に立ち寄った。


 母親が夕食を作るのを面倒くさがっていたので、弁当を二つ買って帰ることにしたのだ。


 店の前には、数人の客が並んでいた。


 俺も最後尾についた。


 前にいたのは、見覚えのある女性だった。


 薄い色のカーディガン。


 肩までの髪。


 あのスーパーで会った女性だ。


 女性も俺に気づいたらしく、軽く会釈した。


「あ、この前はありがとうございました」


「ああ、いえいえ。見つかってよかったですね」


「おかげさまで。母も助かったって言ってました」


「それはよかったです」


 俺は、そこで会話を終えようとした。


 しかし、女性が続けた。


「この辺に住んでるんですか?」


「はい。すぐ近くです」


「そうなんですね。私も、この近くなんです」


「へえ、そうなんや」


 そこで、俺は言葉に詰まった。


 何を話せばいいのか分からない。


 以前なら、ここで焦って自分の話を始めていただろう。


 仕事の話。


 野球の話。


 自分がどんな人間なのか、知ってもらおうとしていたかもしれない。


 だが、相手は今、弁当を買うために並んでいる。


 長話をしたいとは限らない。


 俺は、無理に会話を続けないことにした。


「この店、よく来るんですか?」


 女性が尋ねた。


「たまに来ますね。ここの唐揚げ、うまいんですよ」


「そうなんですか。私は初めてです」


「ほな、唐揚げ弁当がおすすめですわ」


「じゃあ、それにしてみようかな」


 女性は笑った。


 俺も笑った。


 それだけだった。


 やがて、女性の順番が来た。


「じゃあ、また」


「はい。ありがとうございました」


 女性は弁当を受け取り、店を出ていった。


 俺は、その背中を見送った。


 以前なら、もっと話したかったと思っただろう。


 名前を聞けばよかった。


 連絡先を交換できればよかった。


 そんなことを考えていたかもしれない。


 しかし、今回は少し違った。


 話せたこと自体が、悪くなかった。


 相手が笑ってくれたことも、うれしかった。


 それ以上のことを、今すぐ求めなくてもいい。


 俺は、自分の順番が来るのを待った。


     *


 帰宅後。


 俺は、弁当を食べながら、母親に話した。


「今日、スーパーで会うた女性と、また会ってん」


「えっ?」


 母親が、箸を止めた。


「何? 女性?」


「いや、普通に話しただけや」


「どこの人なん?」


「知らんわ。名前も聞いてへん」


「何歳くらい?」


「知らんって」


「仕事は?」


「知らん」


 母親は、少し不満そうな顔をした。


「何も聞いてへんの?」


「聞いてへんよ。普通に話しただけやから」


「そんなんやから、あかんねん」


 その言葉に、俺は箸を止めた。


「何がやねん」


「せっかく女性と話す機会があったんやろ? もっと仲良くなろうと思わへんの?」


「……」


「結婚したいんやろ?」


 母親の言葉は、もっともだった。


 俺は結婚したい。


 恋人もほしい。


 そのためには、女性と知り合い、関係を築いていかなければならない。


 ただ話しただけで満足していたら、何も進まない。


 そういう考え方もある。


 だが、俺は少し違うことを思っていた。


「仲良くなるんと、いきなり距離を詰めるんは違うやろ」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。


 母親が目を丸くした。


「……何やの、急に」


「いや、別に」


 俺は、弁当の唐揚げを口に運んだ。


 うまかった。


 母親は、しばらく黙っていた。


 やがて、ぽつりと言った。


「まあ、あんたがそう思うんやったら、ええけどな」


 俺は、少しだけほっとした。


 自分の考えを説明するのは、難しい。


 まして、母親は俺に早く結婚してほしいと思っている。


 女性と話せたと聞けば、次は連絡先を交換してほしい。


 その次は、二人で食事に行ってほしい。


 そして、いつか結婚してほしい。


 そんな期待があるのだろう。


 だが、俺は、誰かと知り合うたびに、すぐに結婚まで考えるのをやめたかった。


 相手がどんな人なのかを知る前に、自分の将来の一部として考えてしまう。


 その癖を直したいと思っていた。


     *


 翌日、土曜日。


 俺は、ドリーム・エース・ナインのグループチャットを開いた。


『昨日、また女性と話したで』


 すぐに田村から返事が来た。


『おお! 誰や?』


『スーパーで会った人や。前に話した商品探してた人』


『それで?』


『弁当屋で会って、ちょっと話しただけ』


『連絡先は?』


『交換してへん』


『またかい!』


 田村の突っ込みが飛んできた。


 中村も続いた。


『お前、何しに話しかけてんねん。彼女作る気あるんか?』


 俺は、少し腹が立った。


 だが、反論する前に考えた。


 中村の言うことにも、一理ある。


 俺は、恋愛をしたいと言っている。


 それなのに、何も行動しなければ、何も始まらない。


 ただ、相手に興味を持つことと、恋愛相手として手に入れようとすることは違う。


 その違いを、どう説明すればいいのだろう。


 俺が考えていると、藤井からメッセージが届いた。


『連絡先を交換することだけが、行動ちゃうやろ』


 俺は、その文章を読んだ。


『相手が嫌がってるのに距離を詰めたら、それは行動やなくて押しつけや。自然に話せるようになって、相手も話したそうにしてるなら、そのときに考えたらええ』


 藤井らしい言葉だった。


 俺は、少し落ち着いた。


『せやな』


 そう返したあと、俺は続けた。


『でも、俺は今まで、女性と話すたびに、彼女にできるかどうかばっかり考えてたんかもしれん』


 今度は、田村から返事が来た。


『俺も似たようなもんやで。女性と話したら、まず自分がどう見られたか気になる』


『俺もや』


 石田が続いた。


『結局、俺らは自分のことばっかり考えてるんかもしれんな』


 その言葉に、俺はうなずいた。


 女性に好かれたい。


 格好いいと思われたい。


 面白い男だと思われたい。


 結婚相手として選ばれたい。


 俺たちは、そんなことばかり考えていた。


 もちろん、相手に好かれたいと思うこと自体が悪いわけではない。


 ただ、その気持ちが強すぎると、相手を見る余裕がなくなる。


 相手が何を望んでいるのかより、自分がどう思われるかを優先してしまう。


 俺は、スマートフォンを見つめながら思った。


 もしかすると、恋愛が苦手な理由は、女性と話す経験が少ないことだけではないのかもしれない。


 自分をよく見せることばかりに気を取られ、相手のことを知ろうとしていなかった。


 そこに、問題があるのかもしれなかった。


     *


 その日の午後。


 俺は、母親に頼まれて、近所の薬局に買い物に行った。


 帰り道、商店街の入口で、見覚えのある女性を見かけた。


 スーパーで会った女性だった。


 女性は、スマートフォンを耳に当てていた。


「……うん。分かってる」


 声が聞こえた。


「でも、今は無理やって。私も仕事があるし……」


 少し間があった。


「だから、そういう言い方せんといてよ」


 女性の声は、先ほどまでとは違っていた。


 困っているような、疲れているような声だった。


 俺は、思わず足を止めた。


 女性は俺に気づいていない。


「……分かった。あとで連絡する」


 電話を切ると、女性は深く息を吐いた。


 そして、スマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。


 俺は、声をかけるべきか迷った。


 先日、商品を探していたときは、困っていることが分かりやすかった。


 今回は違う。


 電話の内容を聞いてしまったが、何があったのかは分からない。


 家族との問題かもしれない。


 仕事の問題かもしれない。


 あるいは、俺には関係のないことかもしれない。


 俺は、声をかけずに通り過ぎようとした。


 すると、女性が顔を上げた。


「あ……」


 目が合った。


「こんにちは」


 女性が、少し疲れた笑顔で挨拶した。


「こんにちは」


 俺も挨拶を返した。


 女性は、すぐに笑顔を作った。


「また会いましたね」


「せやな。この辺、よく通るんですか?」


「はい。実家が近くなんです」


「そうなんや」


 俺は、少し迷った。


 さっきの電話について聞くべきではない。


 何かあったのかと尋ねれば、話したくないことまで話させてしまうかもしれない。


 それに、女性が疲れているように見えたからといって、俺が助けなければならないわけでもない。


 俺は、いつものように会話を続けようとした。


 だが、女性の表情が気になった。


「……何か、疲れてはるみたいやけど、大丈夫ですか?」


 言ってから、少し後悔した。


 余計なことだったかもしれない。


 女性は、一瞬だけ驚いた顔をした。


 そして、視線を落とした。


「……大丈夫です」


 そう答えたあと、彼女は小さく笑った。


「すみません。ちょっと、家のことで」


「そうなんですか」


「はい。でも、大丈夫ですから」


 それ以上、彼女は話さなかった。


 俺も、詳しく聞こうとはしなかった。


「無理せんといてくださいね」


 俺は、そう言った。


 女性は、少しだけ目を見開いた。


「……ありがとうございます」


 その声は、先ほどよりも柔らかかった。


 俺たちは、そこで別れた。


 俺は歩きながら、何度も自分の言葉を思い返した。


 無理せんといてくださいね。


 ありふれた言葉だ。


 誰でも言える。


 特別なことではない。


 それでも、彼女が少しだけ安心したように見えたのは、気のせいだろうか。


 俺は、すぐに考え直した。


 相手がどう感じたかは、本人にしか分からない。


 勝手に想像するのはやめよう。


 ただ、疲れている人に、無理をしないでほしいと思った。


 それだけでいい。


     *


 帰宅後。


 俺は、ノートを開いた。


 これまで書いてきた言葉を読み返す。


『相手の優しさを、自分への好意だと決めつけない』


『自分が話したいことより、相手が話したいことを聞く』


『相手のことを、少ない情報だけで決めつけない』


 そして、今日、新しい一文を書き加えた。


『相手が話したくないことを、無理に聞き出さない』


 俺は、その文字をしばらく眺めていた。


 人と仲良くなるためには、相手のことを知る必要がある。


 しかし、知りたいと思うことと、何でも聞いていいということは違う。


 相手には、話したくないことがある。


 知られたくないこともある。


 自分の力では、どうにもできない事情もある。


 俺は、女性と付き合った経験がない。


 だから、恋愛のことを何も知らないと思っていた。


 だが、恋愛以前に、人と接するときの基本的なことも、十分には分かっていなかったのかもしれない。


 相手が何を考えているのか。


 何を望んでいるのか。


 どこまで踏み込んでいいのか。


 その答えは、インターネットで調べても、簡単には見つからない。


 相手によって違うからだ。


 そして、その女性についても、俺はまだ何も知らない。


 名前さえ知らない。


 年齢も、仕事も、家族構成も知らない。


 ただ、二度ほど話しただけだ。


 それでも、俺は彼女のことが少し気になっていた。


 それは、恋愛感情なのだろうか。


 それとも、困っている人を見て、心配になっただけなのだろうか。


 今の俺には、まだ分からなかった。


 分からないなら、分からないままでいい。


 焦って答えを出す必要はない。


 俺は、ノートを閉じた。


     *


 翌週。


 会社の昼休み。


 俺は、木村と一緒に食堂で弁当を食べていた。


「大野さん、最近、何か変わりましたね」


 木村が言った。


「また、それか」


「いや、前より落ち着いた感じがします」


「そうか?」


「前は、女性の話になると、すぐに『脈ありか?』とか『どうしたらモテる?』とか聞いてきたじゃないですか」


「……そんな聞いてたか?」


「かなり聞いてましたよ」


 木村は笑った。


 俺は、苦笑した。


「まあ、そうかもしれんな」


「何かあったんですか?」


 俺は、少し考えてから答えた。


「別に大したことちゃうねん。ただ、相手のことを知る前に、自分のことばっかり考えてたんやなって思って」


 木村は、黙って聞いていた。


「女性に好かれたい。彼女がほしい。結婚したい。そんなんばっかりやった。でも、相手がどんな人なんか、ちゃんと考えてへんかったんや」


「なるほど」


「それに、相手が優しくしてくれたら、すぐに自分に気があるんちゃうかって思ってたしな」


 木村は、少し困ったように笑った。


「まあ、誰でも多少はあるんじゃないですか」


「そうなんかな」


「ただ、相手の気持ちを勝手に決めつけるのは、よくないですよね」


「……せやな」


 俺は、うなずいた。


 木村は、弁当の最後の一口を食べた。


「大野さん。恋愛って、相手を好きになることも大事ですけど、相手のことを知っていくことも大事なんじゃないですかね」


 俺は、その言葉を聞いて、少し笑った。


「お前、既婚者らしいこと言うやん」


「既婚者でも、全部分かってるわけじゃないですよ」


 木村は、少し照れたように笑った。


「結婚してても、相手の気持ちが分からないことはあります。言わないと伝わらないこともあるし、言われても理解できないこともある。だから、話すんじゃないですかね」


 俺は、何も言わずに聞いていた。


 結婚すれば、相手のことが全部分かるわけではない。


 恋人になれば、何でも理解し合えるわけでもない。


 むしろ、相手を知ろうとし続けることが必要なのだろう。


 俺は、少しだけ気持ちが軽くなった。


 恋愛経験がないことを、恥ずかしいと思っていた。


 経験がないから、何も分からない。


 何も分からないから、うまくできない。


 そう考えていた。


 だが、経験があれば、すべてが分かるわけでもないのだ。


 経験がなくても、相手を尊重しようとすることはできる。


 間違えたら、振り返ることもできる。


 それなら、俺にもできることがある。


「木村、ありがとうな」


「えっ、何ですか急に」


「いや、別に」


「何か気持ち悪いですよ」


「お前な!」


 二人で笑った。


     *


 その日の帰り道。


 俺は、例の弁当屋の前を通った。


 店先には、手書きの張り紙が貼られていた。


『しばらくの間、営業時間を短縮します』


 感染拡大の影響で、店も大変なのだろう。


 俺は、張り紙を見てから、ゆっくり歩き出した。


 角を曲がったところで、前方に女性の姿が見えた。


 薄い色のカーディガン。


 肩までの髪。


 あの女性だった。


 彼女は、買い物袋を両手に持って歩いていた。


 俺に気づくと、軽く会釈した。


「こんばんは」


「こんばんは」


 俺も会釈を返した。


 彼女は、少し迷ったあと、口を開いた。


「あの……この前は、ありがとうございました」


「えっ?」


「無理しないでくださいって、言ってくれたじゃないですか」


 俺は、少し驚いた。


「いや、そんな大したこと言うてへんで」


「そうなんですけど……あの日、ちょっと大変だったので」


 彼女は、買い物袋を持ち直した。


「誰かにそう言ってもらえると、少し気が楽になることもあるんですね」


 俺は、返事に困った。


 何と答えればいいのか分からなかった。


 ただ、彼女の言葉を聞いて、うれしいと思った。


 自分の言葉が、少しでも役に立ったのなら。


 それは、悪いことではない。


 だが、ここで勘違いしてはいけない。


 彼女が感謝してくれたからといって、俺に好意があるとは限らない。


 優しい言葉をかけてくれたことと、恋愛感情は別だ。


 俺は、そう自分に言い聞かせた。


「……そら、誰でも大変なときはありますからね」


 俺は、少しぎこちなく笑った。


「私、佐藤といいます」


 女性が言った。


「佐藤さん?」


「はい。佐藤真紀です」


 初めて、彼女の名前を知った。


 真紀さん。


 俺は、その名前を心の中で繰り返した。


「大野です。大野健太」


「大野さんですね」


 真紀さんは、笑顔を浮かべた。


「また会ったら、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 俺たちは、そこで別れた。


 俺は、歩きながら考えた。


 名前を知った。


 それだけのことだ。


 連絡先を交換したわけではない。


 二人で食事に行く約束をしたわけでもない。


 彼女が俺を好きだと分かったわけでもない。


 ただ、名前を知った。


 少し話をした。


 それだけだった。


 だが、今までの俺なら、きっと違った。


 名前を教えてくれた。


 笑顔を見せてくれた。


 感謝してくれた。


 だから、自分に好意があるのではないか。


 そんなふうに考えていたかもしれない。


 俺は、空を見上げた。


 夕暮れの空には、薄い雲が広がっていた。


「……ゆっくりやな」


 俺は、小さくつぶやいた。


 焦らなくていい。


 相手のことを、少しずつ知っていけばいい。


 その先に恋愛があるかどうかは、まだ分からない。


 それでも、今はそれでいいと思えた。


     *


 夜。


 俺は、ノートに今日の出来事を書き加えた。


『名前を知ったからといって、相手を知ったことにはならない』


 書き終えて、少し考えた。


 そして、その下にもう一文を書いた。


『感謝されることと、好かれることは違う』


 俺は、ペンを置いた。


 これまでの俺は、女性に好かれるために、何をすればいいのかばかり考えていた。


 だが、誰かに好かれることは、自分一人の努力で決められるものではない。


 自分がどれだけ頑張っても、相手が同じ気持ちになるとは限らない。


 それは、少し寂しいことだ。


 けれど、相手の気持ちを自分の努力だけで決められないからこそ、相手の意思を尊重しなければならないのだろう。


 俺は、今まで恋愛を、野球に似た勝負だと思っていた。


 相手より優れた男になれば、勝てる。


 努力すれば、選ばれる。


 何かを手に入れれば、評価される。


 だが、恋愛は、相手を打ち負かす競技ではない。


 誰かが選ばれたからといって、自分が負けたわけではない。


 誰かに断られたからといって、自分の人生が終わるわけでもない。


 そのことを、俺は少しずつ学んでいた。


 しかし、理解したつもりになるのは簡単だ。


 本当に試されるのは、自分が期待していた相手に断られたときなのかもしれない。


 そのとき、俺は相手を責めずにいられるだろうか。


 自分の価値まで否定せずにいられるだろうか。


 まだ、分からない。


 ただ、今は一つだけ、確かなことがあった。


 真紀さんと話した時間は、短かった。


 彼女について知っていることも、ほとんどない。


 それでも、俺は彼女を、俺の恋愛を成功させるための相手としてだけ見るのではなく、一人の人間として知っていきたいと思った。


 その気持ちが、恋愛になるのか。


 それとも、ただの知り合いで終わるのか。


 それは、これから分かることだ。


 俺は、ノートを閉じた。


 窓の外では、夜の街が静かに眠り始めていた。


 三十五歳。


 恋人なし。


 交際経験なし。


 童貞。


 俺の人生は、まだ何も大きく変わっていない。


 だが、少なくとも、女性と話すたびに勝手に未来を想像する癖は、少しずつ変わり始めていた。


 そして、五月の終わり。


 真紀さんとの再会は、俺が予想していなかった形で訪れることになる。


 そのとき、俺は初めて知ることになるのだった。


 人に優しくすることは、簡単なようで難しい。


 そして、優しくされた人が、必ずしも自分の望む形で応えてくれるわけではないということを。

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