第113話 結婚相談所という最後の切り札
五月下旬。
大野健太は、昼休みにスマートフォンを眺めていた。
マッチングアプリで知り合った女性とのやり取りは、結局そのまま終わっていた。
別の女性にもメッセージを送ってみたが、返事はない。
さらに別の女性とは、数日間やり取りが続いたものの、食事に誘ったところで返信が途絶えた。
「アプリって、ほんまに出会えるんか?」
健太はため息をついた。
そのとき、休憩室に木村が入ってきた。
「またスマホ見てんのか?」
「いや、ちょっと調べものや」
「女性探し?」
「まあな」
木村は苦笑した。
「健太、そんなに結婚したいんか?」
「当たり前やろ。もう三十七やぞ。いつまでも一人でおるわけにはいかん」
「結婚したいのは分かるけど、焦りすぎちゃうか?」
「焦るやろ。周りはどんどん結婚していくし、子どももできてる。俺だけ何もないんや」
木村は弁当のふたを開けながら言った。
「結婚相談所とかは考えたことないんか?」
健太は顔を上げた。
「結婚相談所?」
「真剣に結婚したい人が登録するところやろ。アプリとは違うんちゃう?」
健太はすぐに検索した。
画面には、いくつもの結婚相談所が表示された。
入会金、月会費、成婚料。
数字を見た瞬間、健太の表情が曇った。
「高いな……」
「そら、サービスやからな」
「こんなん払えるわけないやろ」
「まあ、無理して入るもんでもないわな」
健太は画面をスクロールした。
無料相談。
資料請求。
初回カウンセリング。
「無料なら話だけ聞いてみてもええか」
その日の夜、健太は結婚相談所の無料カウンセリングを予約した。
予約フォームには、年齢、職業、年収、結婚希望時期などを入力する欄があった。
年収の欄で、健太の指が止まった。
三百万円前後。
正直に入力するしかなかった。
趣味の欄には、草野球とゴルフ。
結婚後の希望には、温かい家庭を築きたいと書いた。
送信ボタンを押す。
「これで、何か変わるかもしれんな」
健太は期待した。
数日後、健太は相談所を訪れた。
担当者は三十代後半の女性だった。
「本日はありがとうございます。結婚について、いろいろお話を聞かせてください」
「よろしくお願いします」
健太は少し緊張していた。
担当者は、健太のプロフィールを確認した。
「現在は工場にお勤めなんですね」
「はい。帽子を作る工場です」
「休日は草野球やゴルフをされるんですね」
「そうです。仲間も多くて、楽しいですよ」
「将来はどんな家庭を築きたいですか?」
健太は少し考えた。
「休日に家族で出かけたり、子どもと遊んだり。普通の家庭がいいですね」
「素敵ですね」
担当者は穏やかにうなずいた。
「ちなみに、お相手に希望する条件はありますか?」
「優しくて、家庭的な人がいいです。年齢は、できれば二十代から三十代くらいで」
「分かりました」
担当者は質問を続けた。
「ご自身の年収や生活費を考えると、結婚後の家計についても話し合う必要がありそうですね」
健太は少し身構えた。
「まあ、共働きなら大丈夫やと思います」
「そうですね。ただ、お相手にも生活設計がありますから、具体的に考えておくことは大切です」
「はい」
「それから、結婚相談所では、お相手の希望だけでなく、ご自身が相手に何を提供できるかも考えていきます」
健太はうなずいた。
しかし、内心では少し面白くなかった。
自分は結婚したいだけなのに、なぜ自分の条件ばかり確認されるのか。
そんな気持ちがあった。
カウンセリングの最後に、料金の説明があった。
健太は資料を受け取った。
入会金、月会費、活動費。
合計すると、今の生活にはかなり大きな負担だった。
「少し考えさせてください」
「もちろんです。無理のない範囲でご検討ください」
相談所を出た健太は、駅まで歩きながら資料を見直した。
結婚相談所なら、結婚したい女性と出会える。
そう思っていた。
しかし、現実にはお金が必要だった。
「やっぱり金か……」
健太は財布を開いた。
今月の残りは少ない。
家に帰ると、母の美代子が夕食の準備をしていた。
「今日は遅かったね」
「ちょっと用事や」
「どこ行ってたん?」
「別に」
美代子は健太の顔を見た。
「また婚活?」
「何やねん。悪いんか」
「悪いなんて言ってないよ。ただ、無理してお金を使わないようにね」
「分かってるって」
健太はそれ以上話さず、自分の部屋へ向かった。
心配されるのは嫌だった。
自分の人生なのだから、自分で決めたい。
それは間違いではない。
ただ、健太は自分で決めたことの後始末を、いつも十分に考えていなかった。
部屋に入ると、結婚相談所の資料を机に置いた。
その隣には、高級ゴルフクラブの通販ページを印刷した紙があった。
結婚相談所に入るか。
ゴルフクラブを買うか。
どちらも今の健太には贅沢だった。
それでも、どちらかにお金を使えば、人生が少し前に進むような気がしていた。
健太は資料を閉じた。
「まだ三十七や。これからや」
そう言い聞かせた。
結婚への焦りは、消えなかった。
むしろ、何かを始めなければならないという気持ちだけが、少しずつ大きくなっていた。




