第112話 十万円の自信
五月中旬。
大野健太は、給料日前の財布を開いていた。
千円札が数枚。
小銭が少し。
レシートが何枚か。
「今月も厳しいな……」
原因は分かっていた。
先週、マッチングアプリで知り合った女性との食事を想定して、少し高めの店を調べていた。実際にはまだ会う約束すらできていない。
それでも、健太は店の候補を三つも保存していた。
さらに、ゴルフ用品の通販サイトで高級クラブを眺める時間が増えていた。
十万円を超えるクラブ。
安い帽子を作る工場で働く健太にとって、決して気軽に買えるものではない。
しかし、頭の中では購入する理由が次々と生まれていた。
「ゴルフも上手くなりたいしな」
「いい道具を持ってたら、見た目も変わる」
「趣味が充実してる男の方が魅力あるやろ」
最後の理由だけは、誰に確認したわけでもなかった。
その日の夜、健太は草野球チームのグループチャットにメッセージを送った。
『今度のゴルフ、また高級クラブの話聞きたいわ』
すぐに松田から返信があった。
『買うんか?』
『検討中や』
『買うなら試打してからにしろよ。値段だけで選ぶな』
藤井も続けた。
『健太はまだ自分のスイングが安定してないんだから、今は練習優先でいいと思うぞ』
健太は少し不満だった。
せっかく買おうとしているのに、誰も背中を押してくれない。
『まあ、考えとくわ』
そう返して、スマートフォンを置いた。
翌日、健太はゴルフ練習場へ向かった。
そこには、前回一緒にラウンドした藤原なながいた。
ななは知人の女性と二人で練習していた。
「こんにちは」
ななが気づいて声をかけた。
「こんにちは。今日も練習ですか?」
「はい。来週、仕事関係のコンペがあるんです」
「そうなんですね。僕も最近、ちょっとずつ上達してきたんですよ」
実際には、まだ大きな変化はなかった。
それでも健太は、少し胸を張った。
「そうなんですか。続けることが大切ですよね」
ななは自然に笑った。
健太はその笑顔を見て、少し気分がよくなった。
「ところで、クラブを買い替えようと思ってるんです」
「買い替えですか?」
「ええ。ちょっといいものを」
「今のクラブに不満があるんですか?」
「いや、まあ、もっといいクラブなら飛距離も伸びるかなと思って」
ななは健太のスイングを見た。
「クラブも大事ですけど、まずは自分に合っているかどうかですね。高いものが必ず合うとは限らないですよ」
「やっぱり、そうですよね」
健太は笑って答えた。
しかし、心の中では別のことを考えていた。
高いクラブを持っている自分。
それを見た女性が、少しだけ自分を格好いいと思ってくれるかもしれない。
そんな期待だった。
「私も最初は高いものを買えば上達すると思ってました。でも、結局は自分に合うものを選ぶのが一番でした」
「なるほど」
「焦らなくてもいいと思いますよ」
ななはそう言って、再び自分の練習に戻った。
健太は自分の打席に戻った。
ボールを置き、クラブを構える。
一打目。
ボールは右方向へ大きく曲がった。
二打目。
今度は地面を転がった。
三打目。
ようやく前へ飛んだが、距離は短かった。
「なんやねん……」
健太は小さくつぶやいた。
そのとき、隣の打席から松田が声をかけた。
「健太、力入りすぎや」
「分かってるわ」
「高いクラブ買う前に、まず力抜け」
「うるさいな」
松田は笑った。
「十万円のクラブ買っても、十万円分うまくなるわけちゃうぞ」
「分かってるって」
健太は苦笑いした。
練習を終えた後、健太はスマートフォンで再びクラブを検索した。
購入するかどうか、まだ決められなかった。
一方、マッチングアプリの女性からは返信が届いていた。
『お話しするのは楽しいですが、今は仕事が忙しくて、会う予定はまだ考えられません。すみません』
健太は画面を見つめた。
「またか……」
怒りはなかった。
ただ、焦りがあった。
自分は結婚したいと思っている。
そのために努力しているつもりだった。
女性を探し、メッセージを送り、服装にも気を遣い、趣味にもお金をかけようとしている。
それなのに、何も進まない。
健太は返信した。
『分かりました。お仕事頑張ってください』
送信してから、しばらく画面を眺めていた。
女性からの返信はなかった。
その夜、健太は高級クラブをカートに入れたまま、購入ボタンを押さなかった。
十万円で自信が買えるなら安いものだ。
しかし、十万円を払っても、誰かに選ばれる保証はない。
健太はそのことを、まだ本当の意味では理解していなかった。
そして翌朝、いつもの帽子工場へ向かった。
十万円のクラブよりも、今日の昼食代の方が、健太には切実な問題だった。




