第111話 高級クラブより高い、結婚への夢
五月の連休が終わり、いつもの日常が戻ってきた。
大野健太、三十七歳。
安い帽子を製造する工場で働き、年収は三百万円前後。実家暮らしで、休日の大半を草野球に費やしている。
恋愛経験はない。
女性と手をつないだことも、キスをしたこともない。
それでも、健太には夢があった。
結婚して、家庭を持つこと。
できれば、休日には家族で出かけ、子どもとキャッチボールをして、夕食には妻の作った料理を食べる。
そんな、ごく普通の家庭だった。
ただし、その夢を実現するために何をすればいいのか、健太にはよく分かっていなかった。
「やっぱり、男は金と見た目やな」
昼休み。
工場の休憩室で、健太はスマートフォンを眺めながらつぶやいた。
画面には、先日のゴルフ場で一緒になった藤原ななの写真が表示されていた。
もちろん、本人の写真ではない。
ゴルフ場の公式サイトに掲載されていた女性経営者向けのイベント紹介ページだった。
ななは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
背が高く、姿勢がよく、身につけているものにも品があった。
自分とは住む世界が違う。
健太はそう感じていた。
しかし、同時に考えていた。
「俺も、ああいう女性と結婚できたらな」
その直後、別の考えが頭をよぎる。
「いや、俺だってまだ三十七や。全然いけるやろ」
根拠はなかった。
ただ、そう思わなければ、現実を受け入れるのが怖かった。
「大野、何見てんねん?」
隣に座っていた木村が声をかけた。
「いや、ちょっとな。ゴルフ関係」
「また女の人か?」
「違うわ。ゴルフや、ゴルフ」
木村は笑った。
「まあ、頑張れよ」
健太はスマートフォンをポケットにしまった。
その日の仕事も、いつもと変わらなかった。
帽子の部品を確認し、決められた作業を繰り返す。
特別な技術が必要なわけでもない。
仕事に大きな不満があるわけでもないが、やりがいを感じることもなかった。
時計を見る。
午後三時。
あと二時間。
健太は小さく息を吐いた。
仕事が終われば、帰宅して夕食を食べる。
その後は、スマートフォンで女性を探す。
そんな生活が何年も続いていた。
帰宅後、健太はマッチングアプリを開いた。
プロフィールには、こう書いてある。
『将来を考えられる真剣なお付き合いを希望しています。休日は草野球やゴルフをしています。明るく楽しく過ごせる家庭を築きたいです』
写真は、少し若く見えるものを選んでいた。
実際よりも少しだけ顔色がよく、体型もすっきり見える写真だった。
「これなら、悪くないやろ」
健太は自分のプロフィールを眺めて満足した。
画面には、何人かの女性が表示されている。
二十九歳。
三十二歳。
三十五歳。
四十歳。
健太は年齢をあまり気にせず、気になる女性に次々と「いいね」を送った。
その中に、三十四歳の女性がいた。
プロフィールには、結婚願望があること、休日はカフェ巡りをしていること、穏やかな人が好きだと書かれていた。
「この人、ええやん」
健太はすぐにメッセージを考えた。
『はじめまして!プロフィールを見て気になりました。僕も将来は結婚して温かい家庭を築きたいと思っています。よかったらお話ししませんか?』
送信。
数分後、返信が来た。
『はじめまして。メッセージありがとうございます。よろしくお願いします』
健太の顔が明るくなった。
「よし!」
たった一通の返信だった。
しかし、健太の頭の中では、すでに何度も会話が進んでいた。
食事に行く。
仲良くなる。
交際する。
結婚する。
子どもが生まれる。
そして、休日には家族で野球をする。
まだ一度も会っていない女性との未来が、健太の頭の中では完成しかけていた。
翌日、健太は彼女に食事へ誘うメッセージを送った。
『よかったら今度、一緒に食事でもどうですか?お店はこちらで探します!』
返事は、その日の夜に届いた。
『ありがとうございます。もう少しメッセージでお話ししてからでもいいですか?』
健太は画面を見つめた。
「まあ、そらそうか」
そう言いながらも、心の中では焦りが生まれていた。
早く会いたい。
早く自分を知ってほしい。
早く結婚につながる関係になりたい。
しかし、相手の女性にとっては、まだ数回メッセージを交わしただけの相手だった。
その違いを、健太は理解しているようで、理解できていなかった。
その夜、健太はゴルフ用品の通販サイトを開いた。
先日見た高級クラブが頭から離れなかった。
価格は十万円を超えている。
「これを持ってたら、ちょっとは格好よく見えるかな」
購入ボタンの手前で指が止まった。
給料日まではまだ遠い。
貯金も多くない。
それでも健太は、商品ページを何度も眺めた。
結婚したい。
女性に選ばれたい。
格好よく見られたい。
その願いを叶えるために、何かを変えたいと思っていた。
ただ、何を変えるべきなのかは分からなかった。
そして、健太は今日も自分の失敗を振り返らない。
高級クラブを買えば、少しは変わるかもしれない。
そんな期待だけを胸に、スマートフォンの画面を閉じた。
結婚への夢は大きい。
財布の中身は小さい。
そして、恋愛経験は相変わらずゼロだった。




