第102話 初めての二人きりの食事
2022年3月16日。
大野健太は、仕事を終えるとスマートフォンを何度も確認していた。
相手は三浦美咲。先日の飲み会で知り合い、映画の話で盛り上がった女性だ。
彼女から食事に誘われた。
それだけのことなのに、健太の胸は落ち着かなかった。
「二人で食事か……」
健太は洗面所の鏡を見た。
髪型を整え、着ていく服を選び直す。普段なら気にしないような細かい部分まで気になった。
しかし、ふと手が止まった。
(また勝手に期待しているんじゃないか)
これまで何度も同じ失敗をしてきた。
笑顔を向けられただけで、自分に好意があると思い込む。少し話が弾んだだけで、付き合える可能性を考えてしまう。
今回は違う。
美咲は食事に誘ってくれた。それ以上でも、それ以下でもない。
健太は深呼吸して家を出た。
待ち合わせ場所は、駅前のイタリア料理店だった。
「こんばんは。お待たせしました」
美咲は先に到着していた。
「いや、俺も今来たところです」
実際には十五分前から近くをうろうろしていたが、そんなことは言わなかった。
二人は席に着き、メニューを開いた。
「健太さん、何にします?」
「うーん、パスタにしようかな」
「じゃあ、私もパスタにしようかな」
注文を済ませると、自然と映画の話になった。
「この前話していた映画、観ましたよ」
「本当ですか? どうでした?」
「思っていたより面白かったです。最後の展開はちょっと意外でした」
美咲は映画の感想を楽しそうに話した。
健太も自分の好きな作品について話す。
普段、職場では仕事の話ばかり。野球仲間とは野球の話ばかり。
こうして趣味の話をゆっくりできる相手は、健太にとって珍しかった。
「健太さんって、野球以外に趣味はあるんですか?」
「最近は小説を読むこともあります。自分でも少し書いているんですよ」
「小説? どんな話を書くんですか?」
「恋愛とか、ホラーとか……いろいろです」
「面白そうですね。いつか読んでみたいです」
その言葉に、健太の胸が少し弾んだ。
しかし、すぐに考え直した。
(読んでみたいと言ってくれただけだ。期待しすぎるな)
食事が運ばれてきた。
二人は料理を食べながら、仕事や休日の過ごし方について話した。
美咲は事務関係の仕事をしており、忙しい時期には残業も多いという。
「仕事が忙しいと、休日は何もしたくなくなるんですよね」
「分かります。俺も仕事で疲れると、家で寝ていたいです」
「でも、ずっとそれだと一週間が終わっちゃうんですよね」
「確かに」
美咲は笑った。
その笑顔を見て、健太は少し安心した。
無理に面白い話をしなくてもいい。自分を大きく見せる必要もない。
ただ、普通に会話をする。
それだけで、食事の時間は思っていた以上に早く過ぎていった。
会計を済ませ、店の外に出る。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
美咲が言った。
「こちらこそ。誘ってもらえて嬉しかったです」
「また映画の話をしましょう」
「ぜひ」
駅までの道を二人で歩いた。
改札前で美咲が立ち止まる。
「それじゃあ、気をつけて帰ってくださいね」
「美咲さんも」
彼女は軽く手を振って改札の向こうへ消えていった。
健太は、その姿が見えなくなるまで見送った。
帰り道、スマートフォンに美咲からメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました。お話できて楽しかったです。また映画の話をしましょう』
健太はすぐに返信した。
『こちらこそ、ありがとうございました。また話しましょう』
それ以上の言葉は付け加えなかった。
帰宅後、健太は夕食のことを思い返していた。
食事は楽しかった。
美咲も笑ってくれた。
また話そうと言ってくれた。
けれど、それを恋愛感情だと決めつけることはできない。
翌日の昼休み、健太は職場で木村に昨夜のことを話した。
「へえ、二人で食事に行ったんか」
「そう。楽しかったよ」
「よかったやん。次も誘ってみたら?」
「いや、まだ分からんよ。向こうがどう思ってるかも分からないし」
木村は少し驚いた顔をした。
「お前、前より慎重になったな」
「何度も失敗したからな」
「慎重なのはええけど、何もしないのも違うぞ」
木村は弁当を食べながら続けた。
「相手の気持ちを勝手に決めつけないことと、自分の気持ちを伝えないことは別やからな」
その言葉は、健太の胸に残った。
一方、仕事では新たな問題が起きていた。
前日に発生した部品の数量確認ミスについて、上司から再発防止策を提出するよう求められていた。
「大野、今回の件は確認不足だ。次からは出荷前にチェック表を使って、必ず別の人間にも確認してもらえ」
「分かりました」
健太は素直に返事をした。
恋愛だけではない。
仕事でも、自分の思い込みで判断することが多かった。
確認したつもりになっていた。
分かったつもりになっていた。
そして、間違いが起きてから気づく。
健太は机に向かい、チェック表を作り始めた。
その夜、ドリーム・エース・ナインのグループメッセージに田村から連絡が入った。
『来月、知り合いからゴルフに誘われた。興味ある人いるか?』
森川がすぐに反応した。
『ゴルフなら俺の出番やな!』
石田も続く。
『道具が高そうやな』
藤井からは、
『運動不足解消にはいいかもな』
という返信があった。
健太はゴルフ経験がほとんどなかった。
だが、休日に新しいことを始めるのも悪くないと思った。
『初心者でもいいなら参加してみたい』
そう送ると、田村から返事が届いた。
『もちろん。最初は練習場からやな』
健太はスマートフォンを置いた。
美咲との関係は、まだ始まったばかりですらないのかもしれない。
それでも、誰かと食事をし、新しい趣味に興味を持ち、仕事の失敗を改善しようとしている。
少しずつではあるが、自分の生活に変化が生まれていた。
ただし、健太はまだ知らなかった。
ゴルフという新しい世界で出会う女性が、また別の期待と勘違いを生むことになるとは。
そして、その女性の隣には、健太が今まで見たこともないほど高価なゴルフクラブが置かれていた。




