第101話 新しい関係の始まり
二〇二二年三月七日、月曜日。
大野健太は、朝から少しだけ機嫌がよかった。
理由は単純だった。
昨日、三浦美咲からメッセージが届いていたからだ。
『おすすめしてくれた映画、配信で見てみました。思っていたより面白かったです』
健太は通勤途中にスマートフォンを確認し、返信を考えていた。
『見てくれたんですね。ありがとうございます。どの場面がよかったですか?』
送信してから、少し不安になった。
質問が多すぎただろうか。
返事を急かしているように見えないだろうか。
以前なら、既読がつくまで何度も画面を確認していた。
しかし、今日はスマートフォンをポケットにしまった。
相手にも仕事がある。
すぐに返事が来なくても、それは普通のことだ。
健太は駅の階段を上り、会社へ向かった。
*
午前十時。
工場では、部品の納入に関するトラブルが発生していた。
健太が担当していた工程で、確認不足による作業の遅れが出ていたのだ。
「大野さん、この部品の数量が合っていないんですけど」
若い社員が伝票を持ってきた。
「え? 昨日確認したはずやけど」
「でも、実際の数量と違っています」
健太は伝票を確認した。
確かに数字が合わない。
昨日、別の作業に気を取られ、確認を最後まで終えていなかった。
「悪い。俺の確認不足や」
健太はすぐに上司へ報告した。
上司からは厳しい注意を受けた。
「忙しいのは分かるけど、確認を省略したら意味がないだろ」
「申し訳ありません」
健太は頭を下げた。
恋愛のことばかり考えているわけではない。
仕事にも責任がある。
自分の生活を立て直すには、まず目の前の仕事をきちんとこなさなければならない。
*
昼休み。
健太は休憩室で木村と顔を合わせた。
「大野さん、今日は大変そうですね」
「ちょっとミスしてな」
「大丈夫ですか?」
「確認不足や。自分が悪い」
木村は弁当を食べながら言った。
「忙しいときほど、確認する時間を取った方がいいですよ」
「そうやな」
健太は弁当のふたを閉じた。
「ところで、美咲さんとは連絡取ってるんですか?」
「たまにな」
「どうですか?」
「映画の話をしたくらいや。まだ何もないで」
木村は笑った。
「それでいいんじゃないですか。焦らずに」
健太はうなずいた。
「今回は、ちゃんと相手のペースを考えようと思ってる」
「いいと思います」
*
三月九日、水曜日。
夜九時。
健太のスマートフォンに、美咲から返信が届いた。
『主人公が最後に自分の間違いを認めるところがよかったです。最初は少し嫌な人だと思ったんですけど』
健太は笑った。
『確かに。最初は嫌な人でしたね。でも、最後まで見ると印象が変わりますよね』
『そうですね。人って、最初の印象だけでは分からないですね』
その文章を読んで、健太は少し考えた。
人は、最初の印象だけでは分からない。
それは女性に対しても同じだ。
優しいから自分に好意がある。
話しやすいから自分を特別に思っている。
そう決めつけてはいけない。
『本当にそう思います。俺も、もう少し相手のことを知ってから判断するようにしたいです』
送信すると、美咲から短い返信が届いた。
『私もそう思います』
それ以上、会話は続かなかった。
健太はスマートフォンを置いた。
*
三月十二日、土曜日。
ドリーム・エース・ナインの練習日。
グラウンドには、田村、森川、石田、中村、山本、藤井、小林、松田、岡本、西村、井上、そして健太の十二人が集まっていた。
練習前、田村が全員を集めた。
「ちょっと話がある」
全員が田村を見る。
「今年はチームの活動を少し見直そうと思う」
「何や、急に」
森川が尋ねた。
「仕事や家庭の都合で、参加できない日が増えてきたやろ。今後は練習日を調整して、無理なく続けられるようにしたい」
西村がうなずいた。
「確かに、最近は休日の予定も増えてきたからな」
石田も続けた。
「家族との時間も大事にしたいしな」
健太は、その言葉に少し引っかかった。
家族との時間。
彼らには、家庭や恋人、仕事以外にも大切にするものが増えている。
自分には何があるだろう。
野球と仕事。
そして、まだ実現していない恋愛への期待。
田村が続けた。
「チームを長く続けるためにも、全員が無理をしないことが大事や」
健太はうなずいた。
「俺も賛成や」
*
午後四時。
練習が終わり、健太は藤井と二人で道具を片づけていた。
「最近、仕事も忙しそうやな」
「ちょっとミスして怒られたわ」
「そうか。まあ、誰でもミスはあるけど、同じことを繰り返さんようにせなな」
「分かってる」
藤井はグラウンドを見渡した。
「俺らも、もう若くないしな」
「まだ三十代やぞ」
「そうやけど、二十代の頃とは違うやろ」
健太は笑った。
「確かにな」
「恋愛も仕事も野球も、全部うまくいくとは限らん。優先順位を考えながらやっていかなあかんな」
健太は、その言葉を聞いていた。
今まで自分は、彼女ができれば人生が変わると思っていた。
しかし、恋愛だけに時間を使っても、仕事の問題は解決しない。
自分の生活を整えることも必要だった。
*
三月十三日、日曜日。
午後七時。
美咲からメッセージが届いた。
『今度、もしよければ食事でもどうですか?』
健太は画面を見たまま固まった。
自分から誘おうか迷っていた相手から、食事の誘いが届いたのだ。
胸が高鳴る。
何度も文章を読み返した。
しかし、すぐに浮かれすぎないようにした。
これは食事の誘いであって、交際の申し込みではない。
健太は少し考えてから返信した。
『ぜひ。都合のいい日があれば教えてください』
送信した後、健太は深く息を吐いた。
久しぶりに、誰かと二人で食事に行くことになりそうだった。
ただし、まだ何も始まっていない。
相手のことを知り、自分のことも知ってもらう。
その一歩を踏み出すだけだ。
健太はスマートフォンを机に置いた。
そして、翌日の仕事に備えて早めに眠ることにした。
恋愛だけに浮かれて、また仕事で失敗するわけにはいかない。
三十六歳の春。
健太の生活に、少しずつ新しい変化が生まれ始めていた。




