第100話 恋愛経験ゼロの告白
二〇二二年三月五日、土曜日。
健太は、木村から誘われた食事会に参加するため、大阪市内の居酒屋へ向かっていた。
今回の参加者は八人。
木村夫婦、健太、そして以前知り合った女性たちに加え、新しい参加者が一人いるらしい。
「今日はどんな人が来るんやろ」
健太は歩きながらつぶやいた。
以前なら、女性が参加すると聞くだけで期待していた。
しかし、最近は少し考え方が変わっていた。
誰かと知り合うことは嬉しい。
けれど、最初から恋愛の可能性ばかり探す必要はない。
まずは相手を知る。
そして、自分のことも知ってもらう。
それで十分だと思っていた。
*
午後六時半。
居酒屋に到着すると、木村が入口で待っていた。
「大野さん、こんばんは」
「こんばんは」
「今日は新しい人を紹介しますね」
木村の隣には、黒いセーターを着た女性が立っていた。
「こちら、三浦美咲さんです」
「三浦です。よろしくお願いします」
「大野です。よろしくお願いします」
三浦美咲、三十五歳。
落ち着いた雰囲気で、話し方には少し芯の強さが感じられた。
仕事は営業事務。
休日は映画鑑賞や読書を楽しんでいるという。
席に着くと、健太は美咲と向かい合う形になった。
「大野さんは、木村さんと同じ会社なんですか?」
「はい。現場関係の仕事をしています」
「現場ですか。大変そうですね」
「まあ、忙しい時期もあります」
「休日は何をされているんですか?」
「草野球ですね。昔から野球をやっていて」
「野球が好きなんですね」
「そうですね」
美咲は自然に会話を続けた。
健太は、相手の質問に答えながら、自分からも質問を返した。
映画の話になると、二人の好みが少し似ていることが分かった。
*
午後七時半。
話題は、結婚や恋愛のことに移った。
「皆さん、結婚願望ってありますか?」
美咲が尋ねた。
木村の妻が答える。
「私は結婚してよかったと思いますよ。もちろん大変なこともありますけど」
「そうですよね」
美咲はうなずいた。
「私は結婚したい気持ちはあります。でも、無理に結婚するくらいなら、一人でもいいかなと思っています」
「相手選びは慎重になるよな」
木村が言った。
美咲は笑った。
「一緒に生活するわけですからね。好きという気持ちだけでは難しいと思います」
健太は、その言葉を聞きながらうなずいた。
以前、姉の真紀にも似たようなことを言われた。
恋愛と結婚は、同じではない。
好きになった相手と生活を築くには、価値観や責任感も必要になる。
「大野さんはどうですか?」
美咲が尋ねた。
「俺も結婚したい気持ちはあります」
「今は彼女がいるんですか?」
「いません」
「そうなんですね」
健太は少し迷った。
自分の恋愛経験について、どこまで話すべきだろう。
隠しても、いずれ分かることだ。
「実は、今まで一度も付き合ったことがないんです」
美咲の表情が少し変わった。
「そうなんですか?」
「はい。恋愛経験はほとんどありません」
「それは、どうしてですか?」
健太は少し考えた。
「自分から行動できなかったこともありますし、女性との接し方が分からなかったんだと思います」
美咲は、すぐに何かを言うことはなかった。
「そうなんですね」
それだけだった。
健太は、少し拍子抜けした。
もっと驚かれると思っていた。
*
午後八時。
食事会が終わりに近づいた頃、美咲が健太に尋ねた。
「大野さんは、恋愛経験がないことを気にしていますか?」
「気にしていますね。年齢も年齢ですし」
「でも、経験がないこと自体は悪いことじゃないと思います」
健太は顔を上げた。
「そうですか?」
「はい。ただ、経験がないことを理由に、相手に全部教えてもらおうとするのは違うと思います」
「なるほど」
「相手も一人の人間ですから。お互いに考えたり、話し合ったりできる関係がいいですよね」
健太は、その言葉を聞いていた。
美咲の話は、決して厳しいものではなかった。
しかし、甘やかすような言葉でもなかった。
「確かにそうですね」
「大野さんは、これから恋愛をしてみたいと思っているんですか?」
「はい。誰かと一緒に過ごせるようになりたいです」
「それなら、焦らずに自分から動いてみることですね」
美咲は笑った。
*
午後九時。
店を出ると、参加者たちは駅へ向かった。
健太は美咲と並んで歩いていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。いろいろ話せて楽しかったです」
「また皆さんで集まることがあれば、よろしくお願いします」
「はい」
健太は一瞬迷った。
連絡先を聞くべきか。
しかし、彼女が自分に興味を持っているかどうかは分からない。
「三浦さん、もしよければ連絡先を交換してもらえませんか?」
美咲は少し考えた。
「もちろんです」
二人は連絡先を交換した。
健太の胸が高鳴った。
ただし、それは恋愛が始まったという意味ではない。
お互いに、もう少し話してみるための入口ができただけだった。
*
三月六日、日曜日。
健太は姉の真紀に、前日の食事会について話した。
「新しい女性と連絡先を交換できたんや」
「よかったやん」
「でも、まだ何も分からん」
「それでいいんじゃない?」
健太は笑った。
「今度は焦らんようにするわ」
真紀はうなずいた。
「相手のことを知る前に、彼女になってもらうことばかり考えたらあかんよ」
「分かってる」
その夜、健太のスマートフォンに美咲からメッセージが届いた。
『昨日はありがとうございました。映画のお話、また聞かせてください』
健太は何度か文章を考えた後、返信した。
『こちらこそありがとうございました。ぜひ、またお話ししましょう』
送信ボタンを押す。
画面には、短いメッセージが表示された。
健太はスマートフォンを置き、静かに息を吐いた。
三十六歳。
恋愛経験ゼロ。
それでも、誰かと知り合うことはできる。
ただ、これから先に待っているのは、簡単な成功ではない。
相手を知ること。
自分を知ってもらうこと。
そして、相手の答えを受け止めること。
健太の新しい挑戦が、また始まろうとしていた。




