第28話 戴冠
襖の向こうで、ざわめきが低く渦巻いている。
それとは正反対の空気が、前室に静かに漂う。
傍に控える使用人はその空気にうまく溶け込み、今から黒澤の時代を変える二人があいまみえる。
深い鉄紺の色紋付。五つ紋。重厚な西陣織の帯が、静かに光を呑む。
髪は乱れぬ程度に後ろにまとめ。化粧も薄く顔色が冴えるように施され。
鏡の前にいる真織の背に、真人の声が落ちた。
「緊張しているか?」
「……ちょっとね」
嘘ではない。指先が、わずかに冷たい。
しかし、唇に浮かべる薄い笑みは自分を守る盾となる。
真人が一歩近づく。
鏡越しに真織の顔をまっすぐに見つめる。
「気が付いているはずだ――黒澤の血の特性を」
真織は答えず、視線だけが、鏡越しに真人を射抜く。
分かっている。
場の空気が変わる瞬間。
真人は空気を静で支配する。
真織は――それを、もう何度か経験している。
「今日は遠慮するな」
当主としての真人の目が、鋭さを増す。
真人の周囲で、静が動く。
そして、低く。
「――お前の覚悟を見せてやれ」
その言葉に、真織はそっと自分の胸元に手を当てる。
当主の空気をものともせず。
真人の視線が外れた途端、空気が戻ってくる。
「叩き潰すな。量れ」
「――はい」
それだけ言って、真人は襖へ向かった。
真織は一瞬だけ目を閉じる。
未熟だという事を知っている。
しかし、周囲の大人が真織を導く。
――真人なら、どう告げる。
――成美なら、どう笑う。
――緒凛なら、どう言葉を選ぶ。
――直弥なら、どう愛する。
襖が、開く。
大広間。
畳の海。正座する親族たち。
真人が踏み入った途端、ざわめきが沈黙へと移行する。
静かに頭を下げ、許されるのを待つ。
畳を歩く足音が、二つ。
中央上座に真人。
その隣に、真織。
司会進行を務める、真人の秘書が一同の姿勢を正すよう伝える。
頭を上げ、上座にある二つの存在を見て、動揺はあっても、ざわめきは起こせない。
最前列には絃と黒澤兄弟がいるが、真織は視線を一切そちらに向けない。
ここに一本の線をしっかりと引き、上座にいる意味を態度に刻み付ける。
絃は目を閉じている。
緒凛は、目を逸らさない。
人が大勢いるとは思えないほど静寂な空気の中、真人が重く口を開いた。
「本日、ここに次期当主を定める」
凛と、研ぎ澄まされた音が聞こえた気がした。
「黒澤家直系の孫、真織を後継とする」
ふと、空気が緩んだ。
ワザとだ。
ざわめきが広がる。動揺も共に。
「直系だと?」
「そんな話、聞いていない」
波紋のように広がりを見せる中、黒澤兄弟達も動揺して隣に並ぶ絃と緒凛を見た。
「凛兄――知ってたの?」
兄弟達の問いに、緒凛は無言を貫いた。
絃は――目を閉じたまま、動かない。
秘書が一歩出る。
「血縁の証明は確認済み。後見人は――」
説明が続く。
しかし、ざわめきは消えない。
やがて、一人の親族が声を上げた。
「未成年ではないか」
「ご本人の言葉は?」
静寂が落ちる。
真織は、まだ一言も発していない。
ゆっくりと、顔を上げる。
真人と、ほんの一瞬だけ目が合う。
頷きはない。
だが、了承はあった。
真織が、微笑む。
ほんのわずか。
その瞬間。
ざわめきが、止まる。
誰も命じていない。
誰も怒鳴っていない。
だが、場の空気が塗り替えられる。
息を呑む音すら消える。
知っている――これは、黒澤の血だ。
親族の全てが、何の前触れもなく理解する。
当主とは、経済を回すわけではない。
ただ円滑に、大きくなりすぎた黒澤の中を。
――量れ。
真人の声が、頭の奥で響く。
真織は、静かに小さく頭を下げ。全てを見渡して。
「未熟者ではございますが――」
――真人が、告げるように。
「退く気はございません」
広間の温度が下がる。
視線が、突き刺さる。
だが、逸らさない。
――成美が、笑うように。
「皆様の力を、正しく量る者として」
――緒凛が、言葉を選ぶように。
「黒澤の天秤を、お預かりいたします」
完全な沈黙。
反論は、ある。
不満も、ある。
だが。
誰も、立ち上がれない。
立ち上がることが、愚かに思える。
なぜだかは分からない。
ただ、
今、逆らうのは違う。
そう思わせてしまう。
最前列。
目を閉じたままの絃の指先が、わずかに震える。
緒凛は、真織から目を離さない。
真人が、ゆっくりと問う。
「異議はあるか」
返答は、ない。
畳の上に、決定が落ちた。
時代が、静かに傾いた。
その中心で、真織はまっすぐに座っている。
だが。確かに、分かっている。
――直弥が、愛するように。
黒澤は真織の手に。




