第29話 風転
黒澤の中は次期当主の発表を受けて、おおいに荒れていた。
発表から数日が経っても、黒澤の水面は静まりきらない。
中枢に近い者ほど揺れは小さく、外へ行くほど波は大きくなる。
ひそやかな安堵と、あの小娘がという疑念が、同じ水面に重なっていた。
その波立ちは、まだ当分止みそうにない。
その中で、真人の周囲だけが凪いでいる。
まるで最初から、何も変わっていないかのように。
庭の池を覗き込む真人の隣に、成美はしゃがみ込んで鯉の模様を追う。
腕を組みながら静かに佇む真人に、視線を向けぬまま成美は尋ねた。
「あの人、結局どうなったの?」
「蛙か?」
「井戸の中にいれたの、アンタの奥さんだろうに」
皮肉に笑う成美の言葉に、真人はしばらく答えなかった。
池の水面を見つめたまま、かすかに息を吐く。
「……そうだな」
それ以上、言葉は続かなかった。
いまさら何を言っても届かない。
その沈黙は、水底へと沈んでいった。
ふと、鯉の背びれが水面を揺らす。
小さな水の跳ねる音と共に、真人は口を開いた。
「アレは一旦、役から降ろす」
一旦、という言葉に成美は舌打ちしたくなるのを我慢した。
あの人――絃はあれでも優秀だ。血では争えなかったが、財を成すことに関しては右に出る者はいない。采配が美しく、冷酷で、合理的。
簡単に手放すことはしないと思っていたが、やはり甘い、と成美は思う。
「黒澤の中で起きたことだ。法は介入させん」
理解はできるが納得までは出来ない。
幼い真織の命を狙った男を、また上層部に据える未来が成美には見えない。
今は牙を抜かれたが、いつ生え変わるかもわからないのに。
苛立った雰囲気を零した成美に、真人はふと視線を向け、意外そうに尋ねた。
「……なんだ、聞いてないのか?」
「は?」
誰から何を? と疑問を浮かばせながら立ち上がると、真人は珍しく素の表情で告げた。
「再研修を受けさせる」
「……はぁ? 研修の受け直しって、そんなんでアイツが――」
「誰が仕事だと言った」
詰め寄ろうとした成美の言葉を遮り、真人が呆れたように言う。
それから視線を池にやると。
珍しく――本当に珍しく、真人が口元をニヤリとさせ、悪い目をして。
「お前の親に預ける」
沈黙が庭を支配する。
成美は言葉を失った。
視線をゆっくりと真人へ向ける。
思考が追いつくまで、わずかな間があった。
そして理解した途端――
「ぶあっははっははははっ!!!!」
腹を抱えて大爆笑した。
「やっべぇっ!! 超天才!!! 初めてアンタを尊敬したわっ!!!」
それを見て、真人も人間味のある笑みを浮かべて、ククッと口元でつられたように笑う。
あのクソやかましくも愛のある夫婦に、放り込まれる絃の姿を考えるだけで、ごはんが何倍でも食べられる。
井戸の外は、きっと地獄だ。
「俺も帰ろ! 絶対見に行こ! 間近で指さして爆笑してやろう!」
久々に見つけた遊び相手に、成美が無邪気に笑うと、真人はほどほどに、と言いかけて口を閉ざし。
「写真を撮ってこい。引き延ばして本家に飾る」
「ぶあっはははっ!!! えげつなっ!!!」
静かな庭に、新しい風が吹いた。
◇◆◇
新しい風は、真織の元へ決意を運んできた。
夜のリビングは、ひどく静かだ。
明日には、この邸宅を出る。名残惜しむ気持ちが、静かに夜に溶けていく。
緒凛と真織の奇妙な共同生活は、ひとまず終わる。
立場が変われば、居場所も変わる。
真織は本家に迎えられる。
直弥の元へは戻らない――戻れない。
若き次期当主と、古くから続く組織を支えてきた直弥。
その関係を面白がる者も、騒ぎ立てる者もいるだろう。
すでに勘づいている者もいる。
宣言に過ぎないと高を括る者もいる。
まだ席に座っていないと、引きずりおろせると信じている者も。
それは決まって外側の人間だ。
思惑は、水面下で動き始めている。
それでも、休学していた学校への復学と、頻度が減れど直弥への面会は守られる。
それが、真織に許された“今”だった。
「え?」
私物を片付けていた真織は、ふと投げかけられた緒凛の言葉を聞き返した。
私物とは言っても、ほとんどは、ここにきてから緒凛が揃えてくれたものだ。必要最低限だけ荷造りしている。
本家でも用意してもらえるだろうが、その選択は貧乏性が染みついた真織に難しい。
使用人が作業を手伝おうとしてくれたが、なんだか名残惜しくて自分でやると言った。
そんな中で仕事から帰ってきた緒凛が着替えを済ませ、真織の元にやってきて開口一番に伝えた内容を、緒凛はもう一度告げた。
「直弥さんに、ちゃんと挨拶したいと思っている」
「……埋められるよ?」
「洒落にならん」
止めてくれ、と緒凛は手で目元を覆う。あり得るから怖いのだ。
直弥は、二人の始まりを知る唯一の大人だ。
真織に歩み寄り、両手を握りしめて正面に立つと、自然な表情のまま。
「俺が、だ」
手から伝わる温もりが真剣で、気恥ずかしさから真織は一瞬視線を逸らす。
けれどすぐに緒凛を見て嬉しそうに頷いて。
真織が決意したように。
緒凛の決意が近くに寄り添ったことが、ひどく嬉しかった。
当主の仕事は、人を動かすことだ。
財を動かす席は、また別にある。
絃の退任後、その椅子をめぐる選定はすでに始まっている。
その候補の一人に、緒凛の名も挙がっている。
だが――人の頂と、財の頂は同じではない。
並び立つことはあっても、重なることはない。
真織の持つ天秤は、私情を乗せるものではない。
その席に緒凛が座らなくても構わない、と。
それでも――緒凛は自ら選んだのだ。
人の頂に立つ者の、隣に立つことを。
黒澤として。
緒凛として。
「この手を握る権利を、俺に与えて欲しい」
乞うように。
決意のように。
緒凛がギュっと握りしめる手に、真織も優しく力を込めて。
静かに緒凛の胸元に額を寄せて、自然と目を閉じれば。
「……黒澤じゃないお父さんが一番厄介だよ。頑張って」
「……尽力する」
そう言ってクスクスと二人の笑みが溶け合った。




