第24話 動乱
朝の光は、何事もなかったかのように、ガラス障子の割れ目から差し込んでいた。
割れた陶片も、抉れたいぐさのささくれも、そのまま。
真織は、夜の形を残したまま、座り込んでいた。
廊下をきしませる足音がやってくる。ゆっくりと、ときおり引きずるように。
やがて、ほうきとちりとりを抱えた昨日の老婆が現れた。
「あれまぁ、今回も派手にやったねぇ」
まるで雨上がりの庭でも眺めるような声音だった。
廊下に飛び散った破片を箒で集める。ジャリ、とガラスが木目を削る。
何も問わず、しゃがみ込み、破片を集めはじめる。
真織はのそりと体を起こした。足裏に刺さるいぐさの痛みが、遅れて現実を連れてくる。
無言で陶片を拾うと、広げた新聞紙を指さして、そこに置くよう指示をしてくれる。
日常の延長のように、慣れた手つきで次々と部屋が整っていく。破片が残るガラス障子は、流石に手に余るようで「業者かねぇ」と困ったようにぼやいて。
カチャリと陶が小さくぶつかる音が響いた。
「喧嘩でもしたんけ?」
「……どうなんでしょう」
絃と真織の関係を、どこまで知っているのかはわからない。
知らないふりをしているのか、本当に知らないのか。
ただ、見てきた年月の分だけ、見ないことを選ぶ術も知っている。
老婆は何も問わない。
破片を丁寧に集めながら、くすりと笑う。
大切なものを扱うように――いや、自分が傷つかぬように、ゆっくりと。
「あの人はねぇ、こうしないと不安なんだろうね」
「不安?」
「八つ当りだね」
カラカラと笑う老婆の声に、そんなかわいいものだろうか、と真織は思う。
割れたガラス障子を見上げる。
「あの人はきっと、怒り方を教わらなかったんだねぇ」
よっこいしょ、と立ち上がり、また箒を動かす。
「可哀想にねぇ」
胸の奥に、何かが静かに落ちる。
怪物ではない――怒り方を知らないだけ。
それなら――緒凛はどうやって、あんなふうに笑うようになったのだろう。
十五は。夢兎は。茅は。蝶は。
一緒に食卓を囲った、あの温もりは。
異様であっても、異質ではなかった。
同じ家で育っても、同じ育てられ方をしていても、ああはならなかった。
「……そっか」
それだけが、ようやく口からこぼれた。
◇◆◇
緒凛は動いていた。
プライベートな空間とはいえ、黒澤家の内部で起こった事と考えるとあまりに、不自然なほど、何も痕跡が残っていないまま、真織が姿を消したのだ。
以前、真織が連れ去れた時と比にならないほど、黒澤内部が揺れている。
端末を片手に、短く指示を飛ばす。
何の手掛かりも掴めていない事が、緒凛の内心を酷く焦らせる。
パタパタと廊下を小走りでやってきたのは蝶だ。
「なんか、俺のところまで連絡きたけど。凛兄、大丈夫?」
わざわざ様子を見に来てくれたらしい。
「十五と夢兎が動いてる。心配するな」
「茅兄さんも学校の知り合いに聞いてみるって。大ごとにしない方がいいなら止めるよ?」
一瞬だけ、緒凛は目を閉じる。躊躇はある。
けれど、黒澤をもってしても、一切の情報がなさすぎる。
縋るような思いで真織の友人関係を洗いなおすのも、必要なのかもしれない。
「……いや、助かるよ。ありがと」
蝶がほっと息を吐く。
「何か、俺にできること、ある?」
緒凛は無意識にその頭をぽんと撫でた。
「ありがとう。真織が帰ってきたら、最近の流行でも教えてやってくれ」
「ふふ、なにそれ。わかった」
蝶は帰宅の選択をした。また何かあったら連絡をしてほしいと言い残して。
周囲がバタバタとする中、プライベート端末の着信音が鳴る。
この番号を知る者は、限られている。ディスプレイに表示された名前を見て、一瞬の思案後に出た。
「夢兎」
『シゲさんから。……当主が動いてる』
緒凛の目がわずかに細くなる。成美と夢兎が繋がっているのは何となくわかっていた。
今回の動きから、成美は“こちら側”で動いている。
アレは蝙蝠だ。
いつ裏切るかもわからないため、情報は参考程度に留めておく。
「そうか」
『でも』
と、言い淀む。
『探しているのは彼女じゃない』
意外な話の展開に、緒凛は一瞬言葉を詰まらせた。それを察した電話口が、言葉を続ける。
『凛兄――“聖域”って聞いたことある?』
「いや……? 黒澤の中にあるのか?」
初めて聞く言葉に、緒凛は静かに聞き返す。
黒澤財閥は魑魅魍魎の巣窟だ。
いくら中枢にいると言っても、全てを知るわけではない。
場所も嘘も、いくらだって存在する。
『当主でも、掴めていない。ずっと探している場所が“聖域”』
「……そこに、何がある?」
『わからない……でも一つだけわかっている』
――そこの管理者が“父さん”なんだって。
今回の首謀者が、突然浮き彫りになった。
電話を切って、全ての事を反芻する。
知ることを繋ぎ合わせると、がんじがらめだった真実が、解けて羽化していく。
父がどんな人かを知っている。
当主がどんな人かを知っている。
ただそれだけで、真織が置かれている状況を理解する。
呼吸が止まった。
目元を手で覆い、深く、深く、息を吐く。
「君は――たった一人で、黒澤と戦っていたのか」
本来であれば、家出のひとつやふたつで揺らぐ家ではない。
けれど今回は違う。
動いているのだ。
“父”が。
そしてその背後で、“当主”もまた動いている。
当主が動けば、家が動く。
家が動けば、事は事件になる。
だが――それとは別に、もう一人の父が動いていた。
ずっと真織を守り続けてきた男が、また――。




