第23話 愛執
息を殺すように、必死に呼吸を整える。
動揺はすでに見せている。だからせめて、怯えを見せぬようにと取り繕う。
生理現象のように涙は止まらない。
それでもその男は、目を細めると有無を言わさぬ口調で告げた。
「ここでは真理が見てる。場所を移そう」
まるで恋人のように母の名を呼ぶ男の姿に、真織はグッと息をのんだ。吐き気がする。
震える足を必死に起こして、ふらりとした足取りで男の後についていく。
木が軋む音が、やけに頭に響いた。
先程まで掃除していた部屋に向かって、男は廊下から老婆に声をかけた。
「マツさん」
「あれぇ? いつの間に、来とったん? 久しぶりやねぇ」
「うん、いつもありがとうね。おかげで助かってるよ」
「いいんよぉ。老後で暇なババァだもん。空気の入れ替えと簡単な掃除だけで、年金以外のお小遣いもくれるがだから、ありがたいちゃいね」
「そう言ってもらえてよかった。負担になったらいつでも言ってね。あと、今日の所はもういいよ。俺も来たし」
「そうけ? じゃあ、ここだけ終わらせて帰るちゃ。鍵頼むちゃね」
日常的で、当たり前のような会話。
それなのに、異物感が拭えない。
さっきまで親切にしてくれた老婆は、きっと何も知らない。
何も知らないままここにいる事に気が付いて、真織は顔を上げず、見られないよう顔をそむけた。
男の影に居る真織に気づいたらしい視線が、その様子をとらえたものの、何も言わずにまたザッザッと掃除を再開する音がする。
すっと表情を消した男が再び歩き出すと、少し曲がった先にあった客室。
整えられた床の間に、値段の検討が付かない骨董品が並ぶ。
床の間には美しい川の流れを遡る鯉の掛け軸。
松竹梅が浮き掘られて並んだ欄間は、素人目から見ても美しい。
男に続いて真織は部屋に足を踏み入れる。
素足にいぐさがチクリと刺さった気がした。
「改めて。黒澤絃です。緒凛がいつも世話になっているようで」
立ったまま振り返った男――絃は、合間を置かずに自己紹介する。真織は少しだけ目を伏せて、落ち着き始めた呼吸を、改めて整えるように一つ、吐く。
頬が乾いた涙で引きつった。
「思い出し、ました」
先程聞かれた答えを、今告げた。
絃は目を細めて口元に笑みを浮かべる。
少し動きを見せたのは手持ち無沙汰からか、それとも真織を油断させるためか。
古びた階段箪笥の上にあった陶器の花瓶を手に持って、眺めながら告げた。
「あの時は失敗した。お前を消せば真理は戻ってくると思っていた」
手の中でゆっくりと花瓶を回す。描かれた柄を指と目で確かめながら。
「今は消さない。真理が目を覚ました時、お前が居ないのは得策じゃない」
まるで真理が最初から所有物であるかのように、話し出す絃の違和感。多分、本人は気づいていない。
「おかあさ、は……母は、あなたにとって――なに?」
まっすぐな真織の疑問が絃に届く。
動きがピタリと止まる。じっくりと振り返る絃の瞳は、気持ち悪いほど幸悦として。
「あの人は――光であり、赦しであり……俺の唯一」
現実を見ているのに、見ていない目が真織を通り抜ける。
「あの人だけが、俺を赦す。あの人だけが、俺の世界」
それはまるで信仰のような――けれど所有物とする矛盾を。
狂気が大きく飲み込んでいく。
ふるり、と絃が震えた。
その狂気は静かに絃の思考を侵食し。
理性を侵食して、隠していた牙が剥き出しになっていく。
瞬間――真織の真横に風が通り過ぎた。
衝撃音と共に背後から破片が飛び散り、真織の頬に一筋の傷を作る。
手に持っていた陶器の花瓶を衝撃的に投げつけた。真織の顔面ぎりぎりを避けて、後ろのガラス障子が割れて足元に散らばる。
「……おまえが……お前が現れるまでっ!! その愛は俺だった!! その相手は俺だったはずだっ!! お前が全部奪った! たかが娘というだけでっ! あの人の腹から生まれたというだけでっ!! 無条件にっ! 貴様が俺から真理を奪った!!!」
理性を欠いた獣の叫喚。
その余韻が、割れたガラス片の上に落ちる。
真織は動かない。頬を伝う血が一筋流れる。
激動を受け止めるだけの土台が整っていない。
言葉が出ない。手足が震える。怒りか、悲しみか、罪悪感か――わからない。
ふーふーと興奮を抑えきれないまま、絃が隣にあった骨董の皿を持つ。
階段箪笥に叩きつけ、大きな破片を握りしめて真織に向ける。
「これ以上は奪わせないっ! お前のような小娘が奪っていいはずがないっ! 当主の席には座るなっ! お前はただ、地べたに這いつくばってっ! 泥水をすすって! 俺に一生頭を下げ続けろっ! 生まれてきた事を! 存在していることをっ!!」
握りしめられた陶片の切っ先が、真織に向けられる。
距離はある――それでも、息をするだけで喉が裂けそうな錯覚。
一歩も近づいていないのに、逃げ場がない。
絃の呼吸は荒い。怒りで目が血走っている。意志と意見が混濁し、絃本人も何を口走っているのかわかっているのだろうか。
耳に届く言葉が理解できない。感情が追い付かない。
喉の鳴る音がやけに耳に響く。
何か言わなければいけない気がするのに、何を言えばいいのかもわからない。
割れた障子から風が入り込み、畳の上の破片がわずかに鳴る。
絃の握る陶片が、わずかに震える。
長い、長い沈黙が走る。
「……ちっ」
呼吸を整えた絃が、吐き捨てるような舌打ちと共に陶片を床へ投げる。いぐさが軽く抉れても香り立つことはなかった。
「今日はもういい」
低い絃の声が耳元に届いた。怒りは消えていない。だが、矛先を失っている。
「俺の前に立つな」
絃の気配が、足音が遠ざかっていく。
足音が完全に消えたあとも、真織は立ち尽くしたままだった。
喉元にあったはずの陶片の冷たさが、まだ喉の奥に残っている気がして。。
息を吸うたび、胸の奥が浅く裂ける。
割れた障子から入り込む風が、血の匂いを運ぶ。
答えを探す力すら、まだ湧いてこない。
ただ、いぐさのささくれが足裏に刺さる痛みだけが、やけに現実だった。




