第22話 真実
さわさわとした風が真織の髪を撫でた。
まどろみの中をさまよっていると、嗅ぎなれないいぐさの香りが鼻腔を揺らす。
縁側の掃き出し窓は空いて、そこにモンペ姿に農業用の麦わら帽子を被った老婆が、えっちらおっちらと平たく大きなざるを脇に抱えて、どっこいしょっと座って。
真織がゆっくりと布団から起き上がると、老婆はほほっと気が付いて笑った。
「起きたんけぇ?」
「……はい」
さわさわと木々が揺らめく音を聞きながら、季節の匂いが吹き抜ける。
どんなに記憶をたどっても、自分の置かされている状況を把握しきれない。それでも混乱がないのは、この場所があまりにも平凡で慣れ親しんだ“日常”だったからかもしれない。
「手伝ってくれんけぇ?」
言われるがままに、寝ぼけた頭で歩み寄る。
しわくちゃな手が、ポスポスとザルの横を叩くので、言われるがままにそこに腰かける。
縁側の踏み石が、ひんやりと真織の素足をくすぐった。
「この爪楊枝で、梅のヘタを取るんよ」
「……ここ?」
「そうそう……そこに刺して、うまいうまい」
ぷちっと取っては、次の梅に手を伸ばす。
慣れてくるころには無言で、穏やかなこの空間を静かに楽しむほどには、真織の心も凪いでいる。
「はぁ、ありがとねぇ。ババァ一人だと、この量は大変で」
「……何を作るの?」
「梅シロップ。量が多いから半分は梅干しかねぇ」
「今度、飲ませてね」
「はいよ」
そう言ってニコニコと答えながら、カゴをその場に残して立ち上がると、縁側の端にあった座敷箒を持って戻ってくる。
素足の汚れを払い落としながら真織が立ち上がると、穏やかな表情のまま真織に告げた。
「寝ていた布団、端に寄せてもらえるけ?」
次は掃除らしい。
真織の頬が自然と緩み、小さく頷き振り返る。自分の抜け殻のようになっていた布団を、簡易に整え畳みながら、指定された場所へと運ぶ。
ざっざっと、順序よく畳の目にそって箒を使う老婆の元へ向かうと、一度手を止めて真織を見た。
「これと同じのが、おひめさんの部屋の近くにある納戸にあるはずだから、持っといで」
初めて出てきた第三者の愛称に、真織は不思議な感覚に陥る。
真織はその“おひめさん”が誰を差すかわからないが、老婆は知っていて、真織も知っていると思っている。
ずっと違和感の中に居たのに、ようやくその琴線に触れた気がした。しかし、真織はそれ以上詳しくは聞かず、今一度箒のある場所を詳しく聞くと、言われた場所に足を運んだ。
廊下に出ると、サイドはガラス障子が並んでいた。廊下は歩くたびにギシギシと木が鳴き、ガラスが小さく震える。
最奥の左側、と言った。
けれどその最奥のガラス障子を目の前に、この広い日本家屋に似つかわしくない音が聞こえてくる。
規則正しい機械音は、よく医療現場で聞こえる音だ。
導かれるように真織の手が、機械音が聞こえる部屋へのガラス障子に手が伸びる。
思ったよりもすんなりと開いたその中に入っていくと、自然光だけが部屋を照らす。
天井の梁から吊るされたビニールのシートは、大きな医療用ベッドを囲っている。まるで無菌室を作るように。
医療に使われる機械に表示される心拍数は規則正しい。
点滴スタンドからのびる管が、ベッドの中央に横たわる人物に続いている。
しかし、太陽の光でビニールが乱反射しているため、人物の顔がうかがい知れない。
一歩一歩、歩み寄る度に心臓の鼓動が耳元に響く。
ビニールに触れ、その中に居た人は青白い顔のまま静かに目を閉じて、胸を上下させて呼吸をしている。
ただ、それだけで。
「……お、かあ、さん?」
幼い記憶がその面影を呼んだ。
ぐらりと真織の体が、その場に崩れ落ちる。
息が浅くなり、胸が苦しい。無意識に涙が零れる。
こみ上げてくる胃液が、食道を焦がす。
濁流のように流れてくる記憶。
――あの日、真織は静かにリビングで、おままごとをして遊んでいたと思う。
乱暴に開かれたドアと、複数聞こえた足音に顔を上げた。
一瞬の思考も許されぬまま体が強打し、真織の上に馬乗りになる男。
憎悪に満ちたその瞳と視線が合うと、怯える暇もなく男が鈍く光る刃物を振り上げた。
衝動は、想像した痛みではない。
自分の体に圧し掛かる重力が消えたかと思うと、刃物を持つ男の手を必死に抑え込む母の姿。
洗濯物を干すといってベランダに居たはずなのに。
逃げて、と母が叫んだ。
訳も分からず、母の元へ駆け寄ろうとした。
他に存在した黒づくめの男が、幼い真織を軽々と捕まえる。
次の瞬間、目の前に広がった赤い飛沫が真織の頬を温かく濡らした。
スローモーションのように母の体が崩れる。
刃物を持った男が、驚愕した顔で見つめる。
悲鳴が聞こえた。
それが自分の叫び声だと気が付いたのは、黒づくめの男から自分が救出された時。
外出していたはずの直弥が、真織を魔の手から救出した。
赤く染まった母を求めて泣き叫ぶ真織を必死に抱えて、その場から逃げるよう扉に向かう。
血に濡れた母を抱え込んでいたのは、刃物を手放した男。
吼えるように母の名を呼ぶその男の横顔が脳裏に焼き付いた。
そして――バラバラだった紐が、解け、まっすぐに繋がっていく感覚。
――全部、知っていたのに。ずっと知らなかった。
――そして。
「……思い出した?」
背後から聞こえた声は。緒凛の声に似ているようで、緒凛に似ず酷く冷淡だった。
せりあがる胃液を押し戻すように口に手を当てる。
指の間から浅い呼吸を繰り返しながら、ゆっくり見上げると。
刃物を持って真織を襲った男が。刃物に似た笑みを浮かべて真織を見下ろしていた。
あの時と同じ目で。




