第21話 亀裂
黒澤絃にとって黒澤という苗字は呪いだった。
孤児だった絃を黒澤に招き入れたのは、すでに壊れた女だ。
真人の伴侶でありながら、その重圧に――真人の唯一の愚行に耐えかねて、黒澤を呪う存在となった。
――黒澤を導くのはお前よ。
――他の誰にも委ねるな。
――お前があの席に座るのだ。
――あの“穢れた血”を黒澤に迎え入れることは許さない。
――お前の“穢れた血”の方が、ずぅうぅっっとマシ。
ケラケラとした笑い声と一緒に、幼い頃から刷り込まれ続けた言葉。
決して認められなかった。
それでも黒澤の為に有れと、言葉の呪いで縛り付けられ。妥協を許されなかった。
血反吐を吐き、泥水をすすり、犠牲を重ねてたどり着いた今の地位。
――まだ、届かない。
当主に対面するだけで、お前は未熟だと言わんばかりの、あの視線が大嫌いだ。
拳を握る。
爪が掌に食い込む感覚で、ようやく自分がまだ生きていると確認する。
絃は、ずっと知っていた。
真織が“ただの駒”ではないことも、絃にとって最大の障害物となることも。
そして――もう、引き返せない段階に入った。
――ゴホゴホッと、血の入り混じる荒い息の音に我に返る。
目の前には両腕を部下二人に拘束され、地面に膝をつき、ワイシャツに血痕を散らした男の姿がある。
いつもは自分で手出しをしない。
でも今回ばかりは、この苛立ちを直接ぶつけなければ気が狂いそうになって。
絃の拳がじんじんと痛む。
その拳を振るった相手の名を、絃は静かに呼ぶ。
「……木嶋」
頬を腫れ上がらせた成美は、引きつりそうな腹部と頬の痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと顔をあげる。
青い瞳が絃を射抜く。
――気に入らない。
本音の舌打ちを零し、すぐに笑みをうかべる。
力なく頭が下がり始めた成美の顎を、革靴のつま先で持ち上げた。
「無能」
成美の口の端から血が滲む。
「半端者」
「紛い物」
「不良品」
「期待外れ」
淡々と絃が並べる単語に、成美は口角をあげた。
「なに? 自己紹介?」
途端、成美の顔が地面にのめり込んだ。
遠慮なく踏みつぶされ、頭の上で革靴がギシリと鳴る。
黒澤は簡単に壊れない。
だから、その一端を踏みつぶす。踏みしめた感触だけが、僅かな安堵を与える。
足を退ければ、成美の顔は地面に沈んだまま、またゴホゴホと苦しそうな息を吐いた。
「なぜ、排除しない」
成美の手にかかれば簡単な仕事のはずだった。
コレは、黒澤財閥の“狗”であり、“強み”であり、“弱点”だ。
この男の首に輪をかけていたはずが、いつの間にか外れていたらしい。
無感情のまま見下す絃に、成美はググッと曇った笑い声をあげて。
「守りが、固すぎるだけだっつーの……」
「お前が動けば問題なかったはずだ」
そうだ、問題なかったはずだ。
それなのに、こちらの意思通りに動いているようで、かく乱させるようなことばかり――。
「……いつからだ?」
唐突にたどり着いた真実に、絃が固い声色で尋ねる。
「……なぁにが?」
「いつから裏切っていた」
確信めいた絃の言葉に、成美はタハッと血を零しながら笑った。
「気づくのおせぇわ」
「貴様……ッ」
激高して成美の髪を引っ張り、拘束されている限界まで顔を挙げさせると。
未だに折れない成美がニィッと笑って。
「いつからって? ――最初からに決まってんだろ」
渾身の打撃が成美を襲った。
部下達が支えきれないほどの衝撃に、拘束が解けても成美は起き上がれないまま意識を朦朧とさせる。
歯が折れそうなほど噛みしめた絃は、背を向けて静かにスマホを取り出した。
登録のない番号は保険だ。
決して使うことはないと思っていたのに、現実は絃が思っているより残酷な方向へ進んでいる。
コールが二回鳴ったところで相手が出た。
「――動け」
声は、驚くほど冷静だった。
『対象は?』
「真織」
一切の飾りも、言い訳もない。
「黒澤真織」
背後で通話の内容を聞いていた成美だったが、意識を保ち続けるのは限界が近い。
とうとう動かすか。
が、それを止める術はない。流石に全身に受けた痛みが辛すぎる。
それでも絃をここまで動かすことに成功した自分の功績を褒めたいと、意識を手放す直前、成美は血の味を飲み込みながら、心の奥で笑った。
――がぶっ
何かが、牙を立てた。




