第20話 告白
緒凛はソファから顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま」
こうやって緒凛が迎えてくれるのは二度目だ。
一度目は打診の時、二度目は今日。
皮肉にも感じる出来事に、真織の声は少しだけ緊張した。
最近の真織は、自身の事で頭がいっぱいになっていて、こうやって緒凛と会話できたのはいつぶりだろう。緒凛も忙しい人だ。今日だって真織の帰りを待ちながら、ソファで仕事用のタブレット端末を手から離さない。
「外出はどうだった?」
「うん。楽しく――は、なかったかな?」
たははっ、と。せっかくの外出だったのに、残念そうにした真織の声。
でも、多分、何かが変わっている。
理由は分からない。内容も知らない。
それでも、緒凛にはわかってしまう。
初めて秘書が、今日の報告業務を“言えない”と告げた。
場所も、誰と何をしていたのかも。
“言わない”のではなく“言えない”。
それは雇い主である緒凛より、上が動いている証拠だ。
理解したからこそ、秘書を問い詰めるようなことはしない。秘書の顔色が酷く怯えているようにも見える。
多分彼も何も知らない。けれど、同じく何かを察している。そんな気がする。
「疲れてる?」
「ううん」
微笑みながら真織が歩み寄ってくる。その笑顔に、ほんの少しだけ“遠さ”がある。
――置いていかれた、とは思わない。
でも、一人で決めたことがあるのは、確かだった。
タブレットをローテーブルに置いた緒凛が、少しだけ思案して真織を手招きする。
無言の命令に、真織は不思議そうな顔をしながら歩み寄る。
「ん」
そう言って緒凛が両手を広げて見せるものだから。
真織は一瞬、ほうけて、次の瞬間にはその両腕の中に飛び込んだ。
「ぐっ……ちょっと勢いが」
「ご、ごめん」
みぞおちに入れてしまったらしい。
多少苦しそうにはしたが、すぐに持ち直した緒凛は、真織を真正面から膝に抱えて、ポンポンっと軽く背中を撫でた。
「疲れたって言葉は悪い言葉じゃない」
「うん」
「頑張ったって証拠だ」
「……うん」
そう言って背中を撫でていた大きな手は頭に。
「疲れた?」
同じ質問をもう一度投げかければ。
「……うん」
緒凛の首に巻きつきながら、真織は小さく頷いて。
「すっごく、すっごく疲れた……心がギシギシ……ギッシギシ!」
「シャンプーしてない髪みたいに言うな」
「……知ってる? 食器洗剤で髪洗うと、めっちゃ悲惨なの」
流石に経験ないな、と緒凛は真織から来た予想外の変化球に、心の中でツッコミを入れる。
それでも真織にとって、こんなどうでもいい会話が心の栄養になるようで、ぎゅぅぎゅぅに抱きつきながらも、隙間なく話し出す。
「決意したけど、やっぱ重いんじゃ! って思うわけですよ!」
「そうか」
「こう、なんていうか、私、まだ十七歳ですけど?! ちょっと前まで貧乏生活してましたけどっ!?」
「そうだったな」
「環境変わって、こっちはそれに慣れるの必死なんだよぉおっ!」
「そうだな……まお、少し苦しいんだが」
「苦しめっ!」
ぎゅぅううっと、緒凛の首に回る真織の腕がわざと強くなる。
「一生庭の雑草に悩まされる人生を送りたいっ!」
「そうか」
「ずっと草むしりしていたいっ!」
「除草剤を使え」
「枇杷食べたいっ!」
「今度取り寄せる」
「借金返済終わってない!」
「真織のではないだろ」
「老後は老人ホームに入って、悠々自適に過ごすんだっ!!」
「俺も隣にいるならな」
「……入居費用お願い。頭金出すから」
「さり気に俺の出資が多い」
「ああああっ! やっぱめっちゃやだー!」
何かを決意したのはわかっている。
それが真織にとって、不本意で、不可抗力で、たとえ自分で選んだとしても、その中にある葛藤が拭いきれない。
そういうことを、ずっと経験してきた緒凛が言えることは。
「……やめとくか?」
腕の中で激しく暴れていた真織が、急に静かになった。腕の力も緩み、沈黙が続く。
ズズッと鼻をすするような音と共に、首筋に居る真織の顔が、ゆるゆると首を横に振った。
「……ううん――がんばる」
「……そうか」
そう言いながら、ポンポンっともう一度背中をさすると。
真織の腕の力が、ほんの少しだけ強張って。
「……まだ、言えないの」
「そうか」
「言ったら、たぶん……色々変わっちゃう」
苦悩を口にする真織に、緒凛は静かに尋ねる。
「変わるのは、怖いか?」
緒凛の何気ない質問に、真織の喉が鳴る。
「……怖いけど」
真織は、それ以上何も言わなくなったが。緒凛はゆっくり真織の背を撫でながら続きを待つ。
「自分が、選んだことだから」
――逃げたくない。
小さく、緒凛の耳元でつけ足された言葉に、緒凛は「そうか」と。
腕の力を緩めて、真織の体を起こすと、申し訳なさそうな真織の表情を至近距離で見つめて。
「今はそれでいい」
泣きだしそうな真織の頬に触れ、涙が溜まる目元を指の腹で拭いながら。
「一人で決めたなら――一緒に背負うのは、あとででいい」
そう言って、額を合わせて。
「ただ、戻ってくる場所は、ここにしておけ」
優しい緒凛の声色に。真織の胸が、きゅっと締まる。
「……ずるっ」
思うだけのつもりが、無意識に言葉になった。
優しく包み込んで。
真織の決意を、信じてくれている。
その全部が、嬉しくて。
どうしようもないほど――焦がれて。
「……緒凛」
名前を呼ぶ声が、少し震える。
「ん」
「……好き」
緒凛は、一瞬だけ目を見開いて――すぐ、困ったように笑った。
「空気を読まないな」
「意図的」
「悪くない」
そう言って、嬉しそうに笑う。
「俺も――好きだよ」
一瞬戸惑いを見せて、けれどちゃんと言葉に出してくる緒凛の優しさに触れて。
蕩けるような笑みと共に、涙が一つ。
真織の指が、緒凛のシャツをぎゅっと掴んだ。




