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第17話 覚醒

(さかき)、真織に勉強を教えてやれ」

「は?」


自分の雇い主である緒凛が唐突に命令した内容に、その反応をしたのは許してほしい。


「頼んだぞ」


と、その仕事を引き受けると伝えてもないのに、決定事項のように進んでいくことが不快だ。

しかし、不快なのは命令ではなく、相対することになる小娘の事を考えて、だ。


唐突に現れた小娘――真織。


父親の借金の担保として預かることになったが、なぜこんな小娘をプライベートな空間に迎え入れるのか。顔には出さないが至極不満であった。


忠誠を誓う黒澤緒凛という男は、おおよそ欠点が見当たらない完璧な人だ。


冷静沈着、眉目秀麗、合理主義で無駄がなく、若くして黒澤財閥の中枢を担う選ばれし者。


年下ではあるが、年下だからこそその優秀さに感服し、この人の傍に一生仕えようと思うくらいには心酔している。


秘書課の中で、第一秘書という名誉ある肩書きを貰った時には、天にも昇る気持ちだった。

に右腕であることを意識し、冷静さを見習い、その地位を盤石なものとしてきた。


ある時、とんだヘマをした。減給処分程度で済んだが、常に“完璧”である緒凛の経歴に影を落とした事に酷く落胆した。

黒澤からすると些細なことであったが、それでも中にはそのわずかなミスで揚げ足を取る者も存在する。申し訳なさで、もっと重い処分でもよかったのに、とさえ思いつつも身を引き締める思いだったはずが。


同時にこれくらいで済ませてくれたことに、ますます恩を返さなければ、という気持ちが焦りになった。


与えられたのは小娘――真織の監視。


黒澤兄弟に気に入られているようで、彼女をみんなが気に掛ける。


このポジションを得るまで、どれだけの苦労と労力を割いたか。それなのにこの小娘はやすやすと本家筋にすり寄る。


誰もを寄せ付けないカリスマ性こそ、黒澤家の本髄。


冷静を欠いて真織に詰め寄ったことで、あの方が感情的に自分を排除した。


知的で感情を表に出さないあの方が。小娘のために。


――絶望だった。


それから謹慎処分が下り、息の仕方を忘れたかのように亡霊となった。


ただ、あの方は見捨てなかった。


それなりに有能であることを買われて秘書をやってきただけあって、膨大な量の研修受け直しと謝罪。


そして小娘へも。


あの女はへらへらと笑って許したが、本心は何でこんな小娘に頭を下げなければいけないのかと苛立つ。しかし、あの方の元で働けるなら、小娘にさえ頭を下げる。プライドなどいらない。あの方への忠誠のみ。


いつからか――あの方の雰囲気が柔らかくなってきているのにも気づいた。


小娘の影響だとわかっているけれど、面白くはない。


あの方に人間味などいらない。


完璧であればそれでいい。


しかし、人としての魅力が増していくのもまた事実。


そんな時、小娘の家庭教師を命じられたのだ。プライベートな部分に携わることは喜びだが、小娘相手なら話は別だ。


しかし、流石に二回目のヘマは駄目だろうと、気持ちを押さえながらも渋々家庭教師をする事になった。


外部から専門職を雇えばいいものを、手近な者で済まる合理主義なところは、あの方らしい。


――想像以上に飲み込みが早い。


何でも元々は学年上位に入る成績だったと。確かに地頭は良いらしく、教える方も楽な生徒だ。


最初は遠慮がちだった小娘も、回を重ねるごとに会話が増えてくる。


頭の回転が速い。会話が面白いように飛び交う。必ず返答がある。思わぬ方向からの変化球にも対応する。


何より、わからないことをわからないと言える勇気はなかなかだ。


知らぬことを恥と思っていない者の知識欲は強い。


なるほど、あの方が一目置くだけのことはある。少しだけ小娘を認め始めたところで事件は起こる。


この邸宅はあの方のプライベートゾーンだ。


入れる者は選ばれし者であり、仕える身として誇りであり栄誉だ。


そんなプライベートな場所に、黒澤家の親族が訪問してきた。


遠縁も遠縁、分家の分家くらいではあるが、その能力を買われて、黒澤財閥グループ傘下の企業で頭角を現している。


故に勘違いしたのだろう。


己の能力があの方と対等、またはそれ以上と。傘下企業などたかが知れているのに。


おこがましくも己の無能な娘と、あの方へ婚姻の打診を持ってきたのだ。


そういう者が唐突に訪れた場合、対応するのは第一秘書である。


あの方から、親族関係は一切会わせるなと命令を受けていたため、小娘はリビングで待機だ。


が、応接室に通したはずの親族があの小娘を探してやってくる。


プライバシーもなくずかずかと土足で踏み込んできた事に怒りを覚える。しかし相手はあの方より格下でも、雇用関係からはこちらが格下だ。


下手に出ながらなんとか応接室に戻るよう伝えるもの、小娘の存在をどこからか聞きつけたソレらは無視して小娘の前に立つ。


「ほぉ? 貴様か。あの方の周りをうろちょろしてる小娘は」

「ぷっ! あっははっ! やだぁ! どんな子かと思ったら、ちんちくりんじゃない」

「コレであれば、気にせずともよかろう」

「もー、こんな子があの方の相手になるわけないじゃん! 心配して損したぁ」


クスクスと笑う親子に、苛立ちが募る。真織も突然の訪問と悪意に動揺するだけで、反論をしない。


――貴様らに何がわかる。


あの方が、どれだけこの小娘に心を砕いているか。


どれだけ心を寄せているか。


どれだけ大切にしているか。


貴様らにわかってたまるか。


煮えたぎる感情を表に出さず、にこやかに退室を進めるも、女は無駄に着飾った姿で近づいてくる。


「お前も大変ねぇ。こんな小娘の子守りなんてさせられて」

「はっはっはっ、あの方のお遊びに付き合わされるとは何とも哀れだ」

「それともお前に“その程度の能力しかない”と判断されたのかしら?」

「だったらうちで雇ってやるぞ。能無しならただ働きだがなっ」


肥えた腹を抱えて笑う男に。着飾るだけの空っぽな女に、吐き気がした。


脳が千切れそうなくらい限界を迎えた時だった――。


「――やめてください」


今まで沈黙を貫いてきた声が凛と響いた。


それほど大声ではない。切な願いでもない。なのになぜか、脳に焼き付く声色。


「なんだと! この小娘風情っ……が……?」


小娘のまっすぐな視線が、その二人を貫く。


空気が静かに引き寄せられる。


言葉を奪われる。


感情が乱される。


じり、っと女が小さく後ずさりをする。


つぅ、と男の額に汗が一つ流れる。


――なんだ、この感覚。


この言葉で言い表せない空気。


湧き上がりかけた動揺を、無理やり押し殺す。


ただ穏やかに微笑むだけの小娘に、この場が支配された瞬間。


――我に返ったのは誰が最初だったか。


親族はいつの間にか逃げ帰っていた。居合せた者は皆、不思議な感覚に顔を見合わせる。


「榊さん、大丈夫ですか?」


心配そうにのぞき込む小娘の姿に、動き始めた思考がようやく追いついてくる。


「あ、ああ」


途端、汗がとめどもなく噴き出る。


目の前の小娘が、急に化け物のように感じる。


違う。


こんな慈愛に満ちた感情を化け物と言うにはおかしい。


それしか表現方法が見当たらない。


親族にとっては“毒”で。


あれは確かに自分に向けられた“愛”だった。



 ◇◆◇



あの方が帰宅し、最初に行うのは業務連絡の確認だ。


業務連絡といっても、あの子が今日どんな風に過ごしたかを報告するだけのこと。


いつも通り着替えながら報告を聞こうと、袖のボタンをはずすものの、いつまでも黙り込む事に違和感を覚え。


「どうした?」


その声は、いつも通り冷静だった。


親族が訪問した事は事前連絡してある。

あの二人にはそれ相応の制裁があるだろうが、今はそれじゃない。


これは、報告すべきなのか。

それとも、触れてはならない感情なのか。


戸惑いの中から零れたのは、事実ではない――初めて見せた個人の感想。


「……あの子は、何者なんですか?」


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