第16話 暗流
黒澤家の内部が、わずかにざわつき始めていた。
誰かが何かを言ったわけではない。正式な通達も、招集もない。
それでも、人は空気で察する。
――当主の周囲が、動いている。
役員の入れ替え。
非公開の会合。
今まで止まっていた案件が、急に再検討に入る。
水面に落とされた一滴が、やがて波紋となって黒澤家全体を覆う。
大きなうねりはまだない。が、確実に何かが始まっている。それはまるで、長い眠りから覚める前の、獣の呼吸のよう。
親族の前にも滅多に姿を見せない黒澤家現当主――黒澤真人。
そこに存在するだけで、空気が一変する。圧力ではない。たおやかな重み。
風も、空気も、真人を支持する。
呼吸までもが、逆らうなと告げるように浅くなる。
その存在に人が集う。頭を垂れて、その静けさに心震わせる。
静の支配者がそこにある。
それが今、ゆっくりと動き出している。
――そしてもう一人。
“呼ばれていないはずなのに、常に近くにいる存在”。
黒澤絃。
黒澤財閥を大きく発展させた立役者――それが絃だ。
人の心を掌握し、心酔させ、時には容赦なく排他する。
親族間にも派閥はある。
人の真人、財の絃。
それぞれの思想の先頭にいる者を支持するのは当然のこと。だが、いくら財を成す力が優れていても、当主は真人だ。未だ影響力は衰えず、真人が黒と言えば黒になる。
直系であるにも関わらず、未だ真人から絃への世代交代は為されていない。
それがどういう意図なのか、水面下での議論は終わらない。
「最近、皆さん忙しそうですね」
パーティーを開いた親族の元に、絃は顔を出した。財閥グループ傘下の企業同士の交流会のようなもので、全てのトップに立つ絃が顔を見せれば、周囲は喜び、沸き上がる。
いつもと変わらない微笑みで、柔らかく、社交的で、非の打ちどころがない姿に、親族以外の者も心酔し、出会えた喜びに高揚する。
「当主が動かれておりますので」
「得体も知れぬ方です」
「しかし、未だに影響力はある」
「何を考えているか、是非拝聴させていただきたい」
「ええ、まったく」
誰かがそう返せば、絃は軽く頷く。
「ええ。黒澤は、そういう家ですから」
――その通りだ。
だからこそ、“次”が誰なのかという話題だけは、誰も口にしない。
それでも、絃には分かっていた。
暗に探られていることもわかっている。このパーティーの主催者は絃の派閥にいる。だからと言って味方ではない。
ここの連中はわかっていない。
真人を得体も知れないと言っている時点で、直接会ったことがないのだろう。その影響力がいかほどなのか、本当を知らない者達が口先だけで語り合う。
アレは“化け物”だ。
存在しているだけで、世界の重力が傾く。誰もそれに気づかないまま。
どれだけ財を成し、その財によって人を動かしても、アレに会うだけで心が折れる。
敵わないなど、口にするだけでおこがましい。
敵わないのではない――届かないのだ。どんなに手を伸ばしても。
「我々はただ、黒澤家の明るい未来のために」
そう言って絃がグラスを掲げれば、賛同するようにグラスが次々と掲げられる。
品のある、下品な笑いがそこかしこからささやく。
次のスケジュールをこなすために、早々にそこから立ち去るも、背中に感じるのは空気が、確実に変わっていること。
車に戻り、扉を閉めた瞬間、絃の表情から一切の感情が消えた。
バックミラーに映っているのは、長年“当主の右腕”として振る舞ってきた男。
――ふざけるな。
声にならない静かな怒り。
――席は、空いている?
――誰のために?
答えは、分かっている。
あの娘だ。
名前を思い浮かべただけで、内側から、焼けるような感情が込み上げる。
何も結果を成さないくせに、全てを掠め取ろうとする存在。
手を伸ばしても取り上げられ、その席に触れることさえ許されぬのに。
憎悪。焦燥。そして、どうしようもない恐怖。
――奪われる。
絃は、歯を食いしばった。
表に出すな。
顔に出すな。
悟らせるな。
ここで感情を見せた瞬間、自分は“負けた側”になる。
「……まだだ」
絃は、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
あの娘は、何も知らない。今はまだ。
血のことも。席の重さも。自分が、どれほど憎まれているかも。
それなら。
――壊すなら、座る前。
あの頭上に輝く王冠など、存在してはならない。
絃は、動き出した景色を遮る車窓を見た。鏡のように映る自分に、動揺の影はない。
「私は、黒澤の名を守るだけだ」
それは、誰に向けた言葉でもない。自分自身を縛るための、呪文。戒め。
あるいは命。
――貴方が黒澤を導くのです。それ以外の存在など許さないっ! 絶対に!
黒澤家に招き入れたあの女の叫び声が、脳裏に焼き付いている。
誰一人、気づかない。
この男が今、どれほど激しい憎悪を胸に押し込めているかを。
一族は、静かに動き出している。
その裏で、絃は“まだ何も起きていない顔”のまま、牙を研いでいた。




