檸檬の夢1
全3話の短編です
夏の終わりの朝、いつもよりも早くサラは目を覚ました。
すぐ横からコハクの規則正しい寝息が聞こえてくる。視界の端に見える彼の寝顔をもう少し近くで眺めようと、サラはコハクの腕の中で体の向きを変えてみる。
静かに、ゆっくりと、寝台を揺らさないように。
「…んっ」
形の良い眉が微かに動いたので、サラは慌てて動きを止め、息を潜めた。
「サラ…」
甘い囁きが聞こえ、顔を上げると、柔らかく微笑むコハクと目があった。
…今日も失敗だ。
サラは心の中でため息をついた。
「起こしてしまってごめんなさい」
申し訳なくて目を逸らす。
「条件反射のようなものですから、お気になさらないでください」
「でも…」
「ちょうど起きようと思っていた時間ですね」
諭すようにコハクは言った。
いつもよりだいぶ早いけど…、と思ったが反論はしない。
緩んでいた腕が包み込むようにサラを抱き締め直す。長い足を絡められると、もう身動きはできない。
きっとコハクは自分よりも体温が高いのだろう。直接触れる肌は硝子越しの冬の日差しのように暖かかった。
「だから悲しい顔をしないでください」
優しい声で囁かれ、額に口付けられる。大切にされていることはよくわかっている。サラはコハクの鎖骨に口付けを返した。
ふたりで眠るようになってかなりの日数が経つが、サラはコハクが熟睡している姿を見たことがない。
彼は宰相という立場上、有事の際に気が付けるように、警戒して眠るのが癖になっているという。そのため、サラの寝返りや目を覚ます気配だけで起きてしまうのだ。
その事実を知ったサラは別の寝台で眠ることを提案したが、それは絶対に嫌だと拒否された。今は週末だけのことだから問題ないのかもしれないが、いずれ毎日のこととなると、いつかコハクが体を壊してしまうのではないかと心配でならない。
それが気がかりで、一緒に暮らすという話題を避けていることにコハクは気付いているのだろうか。
次の週末には、またここに来る予定だ。サラは、何か良い方法がないか考えることにした。
「よく眠れる方法ですか?」
教会に戻ったサラは、早速ニーナに尋ねてみた。
「ええ。何か知りませんか?」
「難しいですね。あたし、時間がくると眠たくなるので」
ニーナは申し訳なさそうに答えた。
特定の仕事がないサラと違い、他の神官は、毎日同じ時刻にほぼ同じ仕事をしている。そのため、自然と規則正しい生活を送ることになる。
不規則な生活のコハクには当てはまらないだろう。
「でも、いっぱい勉強したり力仕事をして疲れた日はいつもよりよく眠れますよ」
取り繕うようにニーナは付け足した。
「疲れた日か…」
確かにその通りだ。
しかし、残念ながらコハクを疲れさせる方法などサラには思い付かなかった。一日中動いても、長時間仕事をしてほぼ徹夜になっても、彼はいつも涼しい顔で微笑んでいる。
「ありがとうございます。参考にします」
「どういたしまして…って、サラ様、眠れないのですか?」
「いいえ。ちょっといろいろありまして…」
さすがに未成年の少女に、恋人と眠る話をするのは気が引けた。サラは笑って誤魔化し、自室に戻った。
翌日、サラは騎士団の治癒師に魔法の手ほどきをするため、城内にある詰所に来ていた。実際に魔法を見せてもらい、改良するところを指摘したり、薬品と併用して魔力の消費を抑える方法を助言するのが今日の仕事だ。
任命式を経て正式な司祭となったサラのことは、城に関わる大多数の人間に知られているようだ。通行証があっても入り口で留め置かれることがなくなったのは助かるが、あまりにも仰々しく扱われすぎて少し居心地が悪い。
「それはね、サラさんが司祭だっていうのもあるんだけど、それに加えて兄様のお気に入りっていうのが拍車をかけているのよ」
小さく切られた梨を口に運びながらヒスイが言った。
「任命式の出迎え方が普通じゃなかったから」
「あの宰相閣下が、ご機嫌な笑顔で司祭様を出迎えていたと大騒ぎでしたね」
セシルが小さなナイフで梨を切り、それをヒスイが次々に口に運んでいく。自分の分はいいのかな、とサラは心配になるが、セシルがあまりにも幸せそうな顔でヒスイの姿を眺めているから、きっと大丈夫なのだろう。
サラは自分の前に置かれた梨を一口かじった。冷えた梨はみずみずしくてとても甘かった。
この場にコハクがいないことが、少し寂しくなった。
彼は国王と共に郊外の視察に出掛けている。戻ってくるのは三日後だ。だから、今のうちに色々と準備をしようと思ったのだ。
「それで、相談って?」
ヒスイが尋ねる。
サラは顔を上げた。
「…なるほどね」
一通り聞き終えたヒスイは、立ち上がるとサラの正面に立ち、いきなり抱きついてきた。
「ヒスイさま、どうなさったのですか?」
「だって、あんまりかわいい事を言うんだもの」
ヒスイはサラの頭を何度も撫でる。金色の髪から漂う花のような香りに頭がくらくらしてきた。
「やっぱり兄様にはもったいないわ。私のお嫁さんになって」
「そ、それは…、ちょっと…」
「ヒスイ様、ご冗談が過ぎます。司祭様がお困りですよ」
たしなめるようなセシルの声に、ヒスイは頬を膨らませた。
「はいはい。わかってまーす」
わざとらしく返事をして、ヒスイは長椅子に座り足を組む。
「兄様は普通じゃないし、本人がそれでいいと言っているなら、あんまり気にしなくていいんじゃない?」
「ですが…、何もしないよりはいいかと」
「そうねぇ…、不眠症には薬草を使うことが多いけど、病気ってわけではないのよね」
確かに、治療院に相談に来る人に薬草を調合することはある。
サラは、はじめてコハクに贈った紅茶のことを思い出した。あれは、香りはよいが薬効のない花びらを混ぜた紅茶だったが、今度はちゃんと効果のある薬草を混ぜるのはどうだろうか。
「私はぐっすり寝たいときに香を焚くこともあるけど、男の人には向かないかもね」
「あれは結構匂いが残りますからね」
なぜヒスイが眠るときの習慣をセシルが知っているのか。
ふと思い付いた疑問の答えは、おそらくサラの想像した通りで合っているはずだが、あえて気が付かないふりをする。
「やっぱり薬草を使ってみます」
「そうね。得意なことをした方がいいわ」
ヒスイは満足そうに頷いた。
「司祭様」
「はい」
帰り支度をはじめたサラにセシルが声をかけた。
「成功をお祈りいたします」
「ありがとうございます」
「宰相閣下は、司祭様が自分のことを一生懸命考えてくれたことを、いちばん嬉しく思われるはずです」
そう言ってセシルは人の良さそうな笑みを浮かべた。この人に励まされると、何だかうまくいきそうな気がするから不思議だ。
うまくいってもいかなくても、コハクは喜んでくれるはず。
少しだけ、気分が軽くなった。




