氷の女王2
ベリルは今度は硝子の器を地面に投げつけ、同時に風を起こした。硝子の破片が渦を巻いて飛んでくる。
コハクはローブでサラを包んだが、自分の顔までは庇いきれなかった。案の定、頬に鋭い痛みが走った。
「やめましょう。もうコルテアは元に戻りません」
意味のないことだとわかっているが、いちおうコハクは呼び掛けてみた。
「あんな国、もうどうでもいいわ」
帰ってきたのは予想通りの答え。
「では、なぜ我々を襲うのですか?」
「その女を消すためよ」
「消して、どうするのですか」
「その女さえいなくなれば…」
ベリルは赤い唇を歪ませた。不自然に見開かれた瞳から狂気が伝わってくる。
「私があなたのものになることは、決してありません」
「やってみないとわからないわ」
「わかりますよ。私の心も体も、すべてサラのものです。あなたが入る余地など少しもありません」
ベリルの顔が蒼白になっていく。コハクの言葉に含まれた本当の意味を理解したようだ。
ぶるぶると震える指が、もう一つの硝子の器を投げつけた。破片が跳ね返るのと同時に小さな竜巻が起きる。
「二人とも殺してやる」
低い声が響いた。コハクはサラを強く抱き締める。
威力を増した風が荒れ狂い、コハクの手や頬に傷をつけていく。それでも彼女に傷をつけられるよりは何倍もましだと思った。
程なくして風は収まった。
コハクはゆっくりと目を開けた。ベリルは肩で息をしている。かなり無理をしたようだ。
ローブには無数の傷がついているが、サラと彼女の衣装は無傷だった。良かったと心の底から安堵する。
「コハクさま、傷が…」
サラはコハクを見上げて目を潤ませた。細い指が頬をすべり、手の甲を撫でる。暖かい魔力の流れを感じ、サラが治癒魔法を使ってくれたことがわかった。
「他にお怪我をされたところはありませんか」
コハクが首を振ると、サラは肩にかかるローブを外した。
かつん、と靴の踵が鳴った。
「どうしてコハクさまにお怪我をさせたのですか」
初めて聞く、いつもより低い声だった。
再び、靴が鳴る。
その瞬間、周囲の気温が一気に下がったような気がした。
凛とした気配を身に纏い、サラは前に進む。普段の穏やかな笑顔は消え失せ、冷めた瞳がまっすぐにベリルを見つめていた。
ベリルは憎しみのこもった目でサラを睨み付ける。
「好きな人を傷つけるなんて、わたしにはできません」
「皇子が他人のものになるのを見るくらいなら、いっそ殺してしまった方がいいじゃない」
「あなたはコハクさまを手にかけると言うのですね」
一瞬ベリルは言い淀んだが、やがて何かを決意したかのように勢いよく顔を上げた。
「皇子も、お前も、殺してやる」
「…わかりました」
サラは落ち着き払った声で言うと、右手を前に突き出した。そのまま手首をひねって、指先をベリルの足下に向ける。
そこには、割れた水差しに入っていた水が小さな水溜まりを作っていた。にわかに、その水がぶくぶくと泡立ちはじめる。
サラが指先を上に向けると、そこから白い水蒸気が立ち上ぼり、ベリルの体を包みはじめた。
その水には、おそらく毒が入っている。
「コハクさまを傷つけるなんて許しません」
冷ややかな声で言い放ち、サラは指先をまっすぐにベリルの顔に向けた。毒の水蒸気がベリルの頭部にまとわりつく。ベリルは口を押さえてそれを吸い込まないようにしながら、片手で小さな風を起こして水蒸気を吹き飛ばそうとする。
「無駄です」
サラは左手を振った。風が消えた。
ベリルは何度も風を起こすが、サラはいとも簡単にそれを消していく。
その様子を見ていたコハクは、サラが右手と左手で異なる魔法を使っていることに気が付いた。普通、魔法は頭の中の想像を魔力に込めて送り出すものだ。同時に二つの技を使う魔導師など見たことがない。
思っているよりずっと強いと言っていた、これがサラの切り札だったのだ。
思い込みでなく、周囲の気温は確実に下がっていた。
水蒸気がより濃くなってベリルに絡み付く。
「ぐっ」
ベリルが声を上げて膝をついた。耐えきれず毒の水蒸気を吸い込んだようだ。ベリルは喉を押さえて床に転がった。口の端から泡を吹いてのたうち回っている。
サラはそれを冷めた目で見下ろしていた。冬の夜空のような濃紺のドレスを着て佇む姿に、サラの「氷の姫」という呼び名を思い出す。しかし今のサラは、姫というよりも女王と呼ぶ方がふさわしいような、高潔な雰囲気を漂わせていた。
「さようなら」
それはコハクが初めて見る冷酷なサラの姿だった。
唐突に、このままではいけないと思った。
「そこまでです」
コハクはサラを後ろから抱き締めた。しかしサラは魔力を送るのをやめない。
「貴女は手を汚してはいけません」
今度は耳元で囁くと、小さな体がぴくりと跳ねた。
サラはゆっくりと手を下ろした。
「貴女の手は、人々を癒すためのものです」
振り返ったサラは泣きだしそうな顔をしていた。ようやく自分が何をしたのか理解したようだ。
「わたしのために、ありがとうございます」
二人だけに聞こえる大きさの声で言うと、サラは控えめに微笑んだ。コハクは立ち上がったベリルに向き合う。
「諦めて司法によって裁かれなさい」
「うるさい」
「あなたとサラでは格が違います。あなたは決してサラには勝てません」
「うるさいうるさいうるさい」
ベリルは狂ったように叫びだした。風が吹き、室内のものを巻き上げる。コハクがサラを庇った隙に、ベリルはその中を駆け抜けて馬車の入ってきた道から外に出ていった。
「待ちなさい」
コハクも追いかけて外に出るが、すでにベリルの姿は消えていた。仕方なく室内に戻る。
サラは椅子に座ってぼんやりと宙を見つめていた。
「あの人は?」
「逃げられました。相変わらず逃げ足だけは早いですね」
何かを言いたそうなサラの隣に座り、目で続きを催促する。
「わたし…、コハクさまのお怪我を見たら、我慢できなくなって、とんでもないことを…」
「私のことを大切に思うから怒ってくださったのでしょう。嬉しかったですよ」
コハクはサラの肩を抱いて引き寄せる。サラはコハクを見上げた。茶色の瞳が不安そうに揺れている。
「コハクさまは、わたしが怖くないのですか?」
「それは、ベリルを殺そうとしたことですか。それとも、二つの魔法を同時に使ったことですか」
「…両方です」
「正直驚きましたが、私はどんな貴女も愛していますから」
サラの強大な魔力は、使い方ひとつで簡単に人を殺めることができる。しかし、それがコハクのためだったとしても、そのような事態が起これば、優しいサラの心はすぐに壊れてしまうだろう。
守らなければ。サラも、自分自身も。
もう二度とサラの中の冷たい炎が燃え上がることのないように。
コハクはサラの頬にそっと口付けた。
「儀式の後、教会の裏口までお迎えにあがります。その時にはすべて終わっていますから、貴女は安心して儀式に集中してください」
「はい」
もう一度強く抱き締めると、腕の中のサラは頬を染めて頷いた。




