氷の女王1
「サラさん、きれいだったわねー」
ヒスイは屋根のない馬車から飛び降りた。
「ええ。とても」
車輪の周りを確認しながらコハクは答える。
謁見の間での任命式の後、ヒスイとコハクは騎士団の詰所でサラが乗る馬車の点検をしていた。本来なら兵士達に任せるところだが、自分の目で確かめた方が安心できる。今頃サラは客間でお披露目に向けての準備をしているはずだ。
「異常なし」
ヒスイは白馬の首を撫でた。結局、馬車や馬に細工された形跡は見つからなかった。
コハクは外していたローブを身につけながら、先程見たサラの姿を思い出していた。
濃紺のドレスに散りばめられた数多の小さな輝石は、冬の澄みきった夜空に輝く星々のようだった。サラが冬の妖精のように儚く思えて、強すぎる夏の日差しの中では溶けて消えてしまうのではないかとあらぬ心配までしてしまった。
「さっきのはベリルへの挑発なの?」
ヒスイもローブを纏いながら尋ねる。
「そのつもりはなかったのですが、挑発していると思っているかもしれませんね」
公の場で宰相の仮面を外すのは初めてだった。
馬車から降りてきたサラがとても心細そうに見えたから、できるだけ優しくしてあげたいと思った。怖い顔のまま恋人を見るなんて、今のコハクにできるわけがない。
それとサラがあまりにも綺麗だったから、周囲の人々に彼女は自分のものだと見せつけたくなった。宰相のお気に入りの少女に余計な手出しをするほど、命知らずな連中ではないと信じたい。
おそらくベリルは、鳥を使ってコハク達の様子を観察しているだろう。どう思ったかなど、コハクの預かり知らぬことだ。
「騎士団の連中も大騒ぎだったわよ。司祭様かわいいとか、宰相閣下が笑ったところを初めて見たとか」
「サラが可愛いという意見には同意しますが、私のことはずいぶんな言われようですね」
「そうね。自覚なかった?」
自分は何を言われても構わないが、サラの可愛らしさに気付かれるのは困る。サラは優しいから、強引に迫られたら無下に断ることはできないだろう。
もっと牽制してけば良かった。胸の辺りがもやもやする。
「コハクさま、ヒスイさま」
そのとき、扉が開く音がして、コハクにとって一番大切な人の声が響いた。
振り向くと、セシルに連れられたサラがゆっくりと歩いてくるところだった。
サラはコハクの前まで来て、恥ずかしそうに頬を染める。
「思っていたよりも準備に時間がかかってしまいました。遅くなってごめんなさい」
「ちょうど馬車の点検が終わったところですよ。貴女の方こそ時間は大丈夫ですか」
「はい。まだ一刻ほどあります」
コハクはいつものように頭を撫でようとするが、きれいに整えられた髪とそこに飾られた花に気付いて手を下ろす。
衣服を整えたヒスイは細剣を手に取った。
「兄様、私達は警備の確認に行ってくるわ。ここには誰も入らないように言ってあるから」
コハクはヒスイの後に続こうとしたセシルを呼び止めた。
「サラを連れてきてくれてありがとうございます。敵の気配はありませんでしたか?」
「それは感じませんでしたが、廊下で司祭様をお待ちしているとき、何人もの貴族の知り合いが司祭様の恋人の有無を尋ねてきました」
「…それで何と答えたのですか」
「とても仲の良い恋人がいると言っておきました」
「本当にありがとうございます」
セシルは人の良さそうな笑みを浮かべて、扉の向こうに消えていった。
辺りに静けさが戻ってくる。
サラがコハクを見上げている。つややかな唇はほんのりと赤く、薄い水色に塗られたまぶたは、まばたきのたびにきらきらと輝いた。
見慣れない化粧のせいか、いつもよりサラが大人びて見える。
「今すぐ抱き締めたいのに、この服では貴女の肌に傷をつけてしまいそうですね」
コハクはたくさんの飾りが付いた礼服を見下ろして、ため息をついた。
「ですが、とても素敵です」
「ありがとうございます」
「今日はいろいろな人にお会いしましたが…、あの…」
「どうしました?」
「やっぱりコハクさまがいちばん格好いいなって…」
真っ赤な顔で、サラは呟いた。
先程のセシルの話を聞いて、きっと彼女なりに気を使ってくれたのだろう。
それにしても、なんて可愛いのだろう。
コハクはサラの額に軽く口付けた。サラはくすぐったそうに首をすくめてはにかんだ。
「貴女にそう言ってもらえるのが、一番嬉しいですよ」
次は唇を重ねようとして、片手で阻まれる。
「口紅がついてしまいます」
「構いません」
「だめです…、んっ」
化粧を崩さないように、そっと触れるだけの口付けを交わす。それだけでコハクの心は十分に満たされる。
「もうっ、誰かに気付かれても知りません」
「望むところです」
口調の割には怒っている様子はない。
コハクは抱きしめる代わりに小さな肩に手を乗せる。サラの細い手がコハクの頬を撫で、髪に触れた。
ふいに扉を叩く音がした。
コハクはサラと離れ、手の甲で唇を拭う。
「どのような用件でしょうか」
警戒心を露にして答えると、返ってきたのは知らない女の声だった。
「騎士団長様から、司祭様に果実水をお持ちするように仰せつかりました」
「わかりました。どうぞ」
コハクの返事に、見覚えのない女中が入ってきた。今日は星祭りのために臨時で雇われた人も多いので不思議はない。
女中は、小さな机の上に硝子の水差しに入った透明な液体と、それを注ぐための器を置いた。
「それに、毒が入れてあるのですね」
立ち去ろうとする女中の背中に、コハクが声をかける。
女はゆっくりと振り返った。
「仰ってる意味がわかりません」
「では、あなたが飲んでみてください」
「宰相閣下、ご冗談が過ぎますわ」
高らかに笑う女の目は少しも笑っていない。コハクは自分の予想が当たっていたことを確信する。
「ヒスイはここに誰も入らないようにしたと言っていましたよ。もう少し確認すべきでしたね」
「きっと気が変わられたのでしょう」
「まだわかりませんか。あなたは罠にかかったのですよ」
女の目が大きく見開かれた。
「セシルがサラを連れ出したのも、ヒスイとセシルが席を外したのも、城のどこかに潜んでいるあなたを誘い出すためです」
「…何ですって」
「あなたのことですから、私の目の前でサラを殺すことに執念を燃やしていると考えました。それも、できるだけむごいやり方でね」
サラがコハクのローブを掴んだ。コハクは安心させるようにサラの肩を抱いた。
「ですから、あえて二人きりの状況を作ったのですよ」
「くそっ」
女はそう吐き捨てると、水差しを足下に叩きつけた。念のためコハクはローブでサラを包む。
女は割れた硝子の破片を手に取ると、自らの額に滑らせた。少しも血が出ることはなく、女はその切り込みに爪を立てる。果物の皮を剥くように皮膚をめくると、そばかすのある頬があらわになった。
やはり新しい顔を手に入れていたか。
また一人、犠牲者が増えてしまった。
「…殺してやる」
低い声でベリルは言った。




