おでかけ
いつものように朝の祈りを捧げ、午前中は治療院の患者を見て回る。
あの日、大怪我をして入院した人たちは順調に回復していき、昨日最後のひとりが退院した。皆、サラのことは普通の神官だと思っているようだった。サラもあえて司祭だとは名乗らなかった。
口々に礼を言って退院する姿に少しだけ胸が傷んだ。
サラのせいで大怪我を負ったと知ったら、彼らはどう思うのだろう。
「サラ様、お時間です」
ニーナに呼ばれたサラは、自室に戻り白衣を脱いで私服に着替えた。ニーナが髪を結ってくれる間に、サラはコハクからもらった首飾りをつける。はじめは苦労していた首の後ろの金具にも慣れ、今では数秒で着脱できるようになった。
小さな鞄に荷物を詰め、白い日傘を手に取る。
「かわいい日傘ですね。これも宰相様が?」
「ええ」
「サラ様、愛されてますねぇ」
からかうようにニーナが言う。
教会の中で二人の関係を知っているのは神官長とニーナだけだ。ニーナは「宰相様がサラ様を好きなことはすぐにわかったが、サラ様の気持ちがわからなかった」と言っていた。
そんなに自分は感情がわかりにくいのだろうか。
これでは、宰相の顔をしているときのコハクと同じだ。
今日は隠れて出掛ける必要がないので、正面玄関に向かう。
すれ違う女の子たちが妙にざわついていると思ったら、原因は玄関で待っているヒスイだった。きれいな栗毛の馬の手綱を握り、男性が着るような服に身を包んだヒスイは、まるで物語に出てくる男装の麗人のようだ。
「お待たせして申し訳ありません」
「来たばかりよ。サラさん、馬は平気?」
「初めて乗ります」
「私の馬は大人しいから安心して。でも、真後ろにだけは立たないでね」
軽い身のこなしで馬にまたがったヒスイは、軽々とサラを引き上げた。サラはヒスイの後ろで、柔らかい鞍の上に横座りする。
「思っていたより高いですね」
「慣れると気持ちがいいものよ。しっかりつかまっていてね」
「はい」
サラはヒスイの腰に手を回した。同じ女性とは思えない、引き締まった体つきに驚く。
「サラ様、お姫様みたい」
見送りに来たニーナが声を上げた。
「お気をつけて」
「ありがとう。行ってきます」
ヒスイが馬を走らせた。想像以上の速さに、振り返る余裕はサラにはなかった。
青の森の中、街へと続く道を馬は駆けていく。風が頬を撫で、気温よりも体感は涼しい。
しばらくしてヒスイは速度を落とし、馬の速さは早足程度になった。
ヒスイは振り向いてサラに笑いかけた。
「今日は葡萄のお菓子の店に行くからね。その後に行きたいところがあったら言ってね」
「はい。とても楽しみです」
コハク以外と出掛けるのは初めてだから、素直に楽しみだ。
「兄が心配していたわ。街であなたをひとりにしたら、すぐに声をかけられるから注意しろですって」
「一回だけですよ」
「それだけあなたのことが可愛くて仕方がないのよ」
大切にされていることはよくわかっている。
だからサラもコハクに余計な心配をかけないように気を付けなければ。
「ところで、ニーナの様子はどう?」
「以前と変わらず、一生懸命わたしの世話をしてくれています」
「家族のことは話したの?」
「はい。しばらく落ち込んでいましたが自分が治癒師の家系だとわかって、前よりも勉強に力を入れるようになりました」
「そうね。流れる血は変えられないのだから、利用するに越したことはないわね」
ヒスイは軽く言って笑う。
しかし、この兄妹が経験してきた事を知っているサラには、とても重い言葉に感じられた。
「ねえ、サラさん」
「はい」
一段階低い声で呼びかけられ、サラは顔を上げる。
「兄のことを好きになってくれてありがとう」
ふいにかけられた言葉に、サラはどう答えていいかわからなくなった。
「コハクさまのことを好きな女の子はたくさんいます」
「兄が好きになった人が、兄を好きになってくれたことが重要なの」
ヒスイは馬を歩かせる。木漏れ日がきらきらと輝いていた。
「兄はあなたに出会って変わったわ。些細なことで喜んだり悩んだり落ち込んだり。前はあんなに喜怒哀楽を見せる人ではなかったもの」
「わたしの前では、いつも穏やかでいらっしゃいます」
「好きな子の前では格好つけたいのよ」
「コハクさまにも同じことを言われました」
十分すぎるくらい格好いいのにと、サラはいつも思っている。
「小さい頃から兄は完璧だった。私はそんな兄を尊敬していたし、頼りにもしていた。兄の苦労も知らずにね」
ヒスイは自虐的に笑った。
「私ね、聖都に来るまでの記憶がないの」
「えっ?」
「死んだ母のことも、父親だという皇帝のことも、何も覚えていないのよ」
暗示をかけられていた間のことか。あの術に記憶がなくなる要素はないが、自己防衛のために無意識のうちに封じ込めているのかもしれない。
「私も大人になって、兄が抱えてきたものを聞いてから、ようやく対等に話せるようになったわ。でも、あなたは最初から兄と対等の立場に立っていたの。それがとても不思議だった」
「ヒスイさま…」
「だから、あなたが兄を好きになってくれてすごく良かったわ。これで兄は救われると思ったの」
「…わたしはコハクさまに甘えてばかりで、いつも助けていただいています。コハクさまのために何かしたいと思うのに、何もできません」
サラの助けなど、何でもひとりでこなすコハクには必要ないのではないかと思う。
「サラさんはそのままでいいのよ。あなたといるときの兄はすごく幸せそうだもの」
「わたしには自信がありません。今でも、わたしよりもコハクさまを幸せにできる人がいるのではないかと疑ってしまいます」
「それは絶対にないわ。私が保証する」
街の入り口が見えてきた。
「あの、ヒスイさま」
「どうしたの?」
「わたし、買いたいものがあるのです。一緒に選んでくださいませんか?」
ヒスイは首をかしげながらも頷いてくれた。
夕方、ヒスイはコハクの別邸まで送ってくれた。玄関の扉を叩くと、普段着のコハクが迎えてくれる。
「おかえりなさい。楽しかったですか?」
自然な手つきでサラの荷物を受け取り、コハクは微笑んだ。
おかえり、という言葉がとても嬉しい。
「ヒスイさまと葡萄のお菓子を食べました。すごく美味しかったです」
そう言って見上げると、コハクは目を細めてサラの頭を撫でた。
「それは良かったですね。ヒスイ、ありがとうございます」
自分のことでコハクがお礼を言うのは不思議な感じがする。
「私も楽しかったわ。また行きましょうね」
「はいっ」
「それから、兄様。これは頼まれていたものよ」
ヒスイは大きな袋をコハクに渡すと、帰り支度を始めた。
「夕食はどうするのですか?」
「この後、セシルと約束があるの。食事をしてから、星祭りに向けて街を下見するのよ」
「…もうすぐですね」
今週は何もなかった。あの人は星祭りの日を狙っているのだろう。
「来週の今頃は、ちょうど儀式をしている時間かしら」
「はい」
「次に会えるのは当日ね。お互いがんばりましょ」
「はい。今日はありがとうございました」
サラはコハクに肩を抱かれたまま、頭を下げた。顔を上げると、ヒスイは兄とよく似た美しい笑みを浮かべていた。




