長い夜のはじまり
コハクに手を引かれて屋敷の周りを散歩した後、二人で夕食の支度に取りかかる。今日は時間があるから、野菜や肉などを鍋で煮込み、余っていた材料で林檎のパイを作ることにした。サラは林檎を煮込んでいる間に粉とバターを混ぜる。
「この菓子はよく作られていたのですか?」
「はい。材料が少しで済むので、孤児院にいたときによく作りました。コハクさまのお口に合うかはわかりませんが、小さい子たちは喜んでくれました」
「私よりも先に貴女の料理を食べていたなんて、彼らが羨ましいです」
「昔のことですし、相手は子どもですから…」
社交辞令にしては子どもっぽい口調でコハクは呟いた。なぜかその顔を直視しづらくて、サラは下を向いたまま、魔法で冷やした生地を練っていく。
「ねぇ、サラ」
突然、コハクは甘えたような声で囁くと、サラを後ろから抱き締めた。
「貴女の話を聞かせてくださいませんか」
「わたしの話、ですか? 以前お話ししたと思いますが…」
「聖都に来る前の貴女の話です。貴女がどのような所で、どのような暮らしをしていたのか。話せる範囲でかまいませんから」
「あまり楽しい話ではありませんよ」
「私は貴女をもっと知りたいのです」
サラは手を止めた。
ステイシアでの暮らしは、お世辞にも楽しいものではなかった。それでも、あの日々があったからこそ、今ここに立っている。そう思えたのはコハクに出会えたからだ。
頭の中で内容を整理してから、サラは話し始めた。
「わたしは、ステイシアの中でも特に寒い北のはずれの村で生まれました。小さい頃の記憶はないのですが、四歳の時、村が盗賊に襲われて、わたし以外の村人はみんな殺されてしまったそうです」
生地をこねながら、サラは淡々と話す。コハクは驚いた顔でサラを見つめていた。
「なぜ、貴女だけが…」
「その日、わたしは高熱を出して、隣町の大きな治療院に運ばれていました。入院することが決まり、父は荷物を取りに村に戻って盗賊に襲われたようです。一向に戻らない父を心配して、様子を見に戻った母もそれきり…」
「それは、つらい思いをされたのですね」
コハクが気の毒そうに言った。サラはとりあえず頷いてみる。
熱が下がってから村の惨状を聞かされ、泣いたことは覚えている。しかし、四歳の時の記憶など、他には、ほとんど残っていない。今では両親の顔すら思い出せないのだ。
「わたしは首都の孤児院に引き取られました。そこで人より多い魔力を持っていることがわかり、魔法学校に入学することになりました。後から聞いた話では、わたしの村では魔力を持った子どもが多く生まれるので、よく人身売買目当ての盗賊に襲われていたそうです」
「私は、学校というものに通ったことがないのでよくわからないのですが、貴女はどんな学生だったのでしょう」
「地味で目立たない学生でしたよ。遊ぶお金もありませんし、ずっと勉強ばかりしていました。卒業したらお世話になった孤児院のために働くつもりでした。寮の部屋にノキアさまがいらっしゃってからのことは、以前お話しした通りです」
言葉にすると、サラの十六年間はなんて中身の薄いものだったのだろう。自分で決断することもなく、人に流されるままに生きてきただけの人生だったと実感する。
「それだけです。ね、つまらない話でしょう」
サラは自虐的に笑うしかなかった。サラにとって聖都に来る前の生活は、すでに遠い過去のものになっていたのだ。
つまらない話に、コハクはがっかりしていないだろうか。それだけが気になった。
「いいえ。貴女のことを少しでも知ることができて私は嬉しいです」
「相変わらずお上手ですね」
「本心ですよ。今まで楽しいことがなかったと仰るのなら、これからの貴女の楽しい思い出には、いつも私が存在できる。こんなに幸せなことはありません」
コハクは優しく笑った。それだけで気持ちが軽くなる。
聖都に来てから、サラの人生は一変した。大変な思いもしたが、自分で決断して、自分の行動に責任をもつようになった。コハクに出会い、人を愛する意味を知った。
「わたし、聖都に来て良かった。あなたに会えて良かった」
心からの言葉は、コハクにちゃんと届いたのだろうか。コハクは何も言わずに抱き締める腕に力を込めた。
食事の後、風呂に入っていつもより念入りに体を洗った。
水色のレースで縁取られた短いドレスのような寝巻きは、サラのとっておきだ。学生の時に町で見かけたのだが、子どもの頃に好きだった物語のお姫さまが着ていたドレスと、あまりにも似ていたのでどうしても欲しくなって買ったものだ。
鏡に全身を映してみる。
コハクに見せるには、少し子どもっぽいだろうか。でも、すぐに脱いでしまうし…。
サラは慌てて首を振った。そんなことを考えてしまう自分が信じられない。
これから、あの人と…。
でも、考えるのをやめられない。風呂上がりの体は冷めるどころか、ますます熱くなっていく。
サラは台所に寄り、冷たい水を飲んで気持ちを落ち着かせた。
「コハクさま。お風呂ありがとうございました」
ソファーに座る後ろ姿に声をかけると、コハクは振り返って小さな声を上げた。
「よく似合っていますよ。想像していたよりも何倍も可愛らしいです」
コハクは微笑んで、隣に座るように促した。サラがソファーに座ると、すぐに肩を抱かれた。
小さな机には難しそうな書類が広げられていた。
「お仕事をなさっていたのですか」
「急ぎの書類がありましたので、少しだけ」
「それでしたら、わたしは向こうの部屋で本を…」
ただでさえ忙しいコハクの邪魔になってはいけない。サラは立ち上がろうとして、強い力で引き戻される。
「もう終わりましたよ。それとも、今日はやめておきますか」
コハクは申し訳なさそうに呟いた。立ち上がろうとしたことを勘違いされたようだ。
サラは慌てて弁解する。
「違います。わたしはコハクさまがお忙しそうだから…」
「…私は貴女に無理をさせていませんか」
「そんなことはありません。少し…、怖いだけです」
「それなら…、いいのですが」
コハクは両手でサラの顔を包み込む。熱で浮かされたように潤んでいる青い瞳から目が離せない。
「私のサラ…」
まだ何もしていないのに、コハクの頬が上気していると感じるのは気のせいだろうか。
工芸品のように美しい顔がすぐ目の前に迫ってきて、サラは自然と目を閉じた。
「愛しています」
低い囁きとともに、柔らかく唇が重なった。甘くて苦い葡萄酒の味に、頭がくらくらする。
強ばっていた体の力が抜けていく。
「私がどれだけ貴女を愛しているか、時間をかけて教えてあげましょう」
こうして、長い長い夜が始まった。




