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宰相閣下の宝物  作者: 半崎ゆま
本編
75/107

長い夜のはじまり

 コハクに手を引かれて屋敷の周りを散歩した後、二人で夕食の支度に取りかかる。今日は時間があるから、野菜や肉などを鍋で煮込み、余っていた材料で林檎のパイを作ることにした。サラは林檎を煮込んでいる間に粉とバターを混ぜる。


「この菓子はよく作られていたのですか?」

「はい。材料が少しで済むので、孤児院にいたときによく作りました。コハクさまのお口に合うかはわかりませんが、小さい子たちは喜んでくれました」

「私よりも先に貴女の料理を食べていたなんて、彼らが羨ましいです」

「昔のことですし、相手は子どもですから…」


 社交辞令にしては子どもっぽい口調でコハクは呟いた。なぜかその顔を直視しづらくて、サラは下を向いたまま、魔法で冷やした生地を練っていく。


「ねぇ、サラ」


 突然、コハクは甘えたような声で囁くと、サラを後ろから抱き締めた。


「貴女の話を聞かせてくださいませんか」

「わたしの話、ですか? 以前お話ししたと思いますが…」

「聖都に来る前の貴女の話です。貴女がどのような所で、どのような暮らしをしていたのか。話せる範囲でかまいませんから」

「あまり楽しい話ではありませんよ」

「私は貴女をもっと知りたいのです」


 サラは手を止めた。

 ステイシアでの暮らしは、お世辞にも楽しいものではなかった。それでも、あの日々があったからこそ、今ここに立っている。そう思えたのはコハクに出会えたからだ。

 頭の中で内容を整理してから、サラは話し始めた。


「わたしは、ステイシアの中でも特に寒い北のはずれの村で生まれました。小さい頃の記憶はないのですが、四歳の時、村が盗賊に襲われて、わたし以外の村人はみんな殺されてしまったそうです」


 生地をこねながら、サラは淡々と話す。コハクは驚いた顔でサラを見つめていた。


「なぜ、貴女だけが…」

「その日、わたしは高熱を出して、隣町の大きな治療院に運ばれていました。入院することが決まり、父は荷物を取りに村に戻って盗賊に襲われたようです。一向に戻らない父を心配して、様子を見に戻った母もそれきり…」

「それは、つらい思いをされたのですね」


 コハクが気の毒そうに言った。サラはとりあえず頷いてみる。

 熱が下がってから村の惨状を聞かされ、泣いたことは覚えている。しかし、四歳の時の記憶など、他には、ほとんど残っていない。今では両親の顔すら思い出せないのだ。


「わたしは首都の孤児院に引き取られました。そこで人より多い魔力を持っていることがわかり、魔法学校に入学することになりました。後から聞いた話では、わたしの村では魔力を持った子どもが多く生まれるので、よく人身売買目当ての盗賊に襲われていたそうです」

「私は、学校というものに通ったことがないのでよくわからないのですが、貴女はどんな学生だったのでしょう」

「地味で目立たない学生でしたよ。遊ぶお金もありませんし、ずっと勉強ばかりしていました。卒業したらお世話になった孤児院のために働くつもりでした。寮の部屋にノキアさまがいらっしゃってからのことは、以前お話しした通りです」


 言葉にすると、サラの十六年間はなんて中身の薄いものだったのだろう。自分で決断することもなく、人に流されるままに生きてきただけの人生だったと実感する。


「それだけです。ね、つまらない話でしょう」


 サラは自虐的に笑うしかなかった。サラにとって聖都に来る前の生活は、すでに遠い過去のものになっていたのだ。

 つまらない話に、コハクはがっかりしていないだろうか。それだけが気になった。


「いいえ。貴女のことを少しでも知ることができて私は嬉しいです」

「相変わらずお上手ですね」

「本心ですよ。今まで楽しいことがなかったと仰るのなら、これからの貴女の楽しい思い出には、いつも私が存在できる。こんなに幸せなことはありません」


 コハクは優しく笑った。それだけで気持ちが軽くなる。


 聖都に来てから、サラの人生は一変した。大変な思いもしたが、自分で決断して、自分の行動に責任をもつようになった。コハクに出会い、人を愛する意味を知った。


「わたし、聖都に来て良かった。あなたに会えて良かった」


 心からの言葉は、コハクにちゃんと届いたのだろうか。コハクは何も言わずに抱き締める腕に力を込めた。



 食事の後、風呂に入っていつもより念入りに体を洗った。


 水色のレースで縁取られた短いドレスのような寝巻きは、サラのとっておきだ。学生の時に町で見かけたのだが、子どもの頃に好きだった物語のお姫さまが着ていたドレスと、あまりにも似ていたのでどうしても欲しくなって買ったものだ。

 鏡に全身を映してみる。

 コハクに見せるには、少し子どもっぽいだろうか。でも、すぐに脱いでしまうし…。


 サラは慌てて首を振った。そんなことを考えてしまう自分が信じられない。


 これから、あの人と…。


 でも、考えるのをやめられない。風呂上がりの体は冷めるどころか、ますます熱くなっていく。


 サラは台所に寄り、冷たい水を飲んで気持ちを落ち着かせた。



「コハクさま。お風呂ありがとうございました」


 ソファーに座る後ろ姿に声をかけると、コハクは振り返って小さな声を上げた。


「よく似合っていますよ。想像していたよりも何倍も可愛らしいです」


 コハクは微笑んで、隣に座るように促した。サラがソファーに座ると、すぐに肩を抱かれた。

 小さな机には難しそうな書類が広げられていた。


「お仕事をなさっていたのですか」

「急ぎの書類がありましたので、少しだけ」

「それでしたら、わたしは向こうの部屋で本を…」


 ただでさえ忙しいコハクの邪魔になってはいけない。サラは立ち上がろうとして、強い力で引き戻される。


「もう終わりましたよ。それとも、今日はやめておきますか」


 コハクは申し訳なさそうに呟いた。立ち上がろうとしたことを勘違いされたようだ。

 サラは慌てて弁解する。


「違います。わたしはコハクさまがお忙しそうだから…」

「…私は貴女に無理をさせていませんか」

「そんなことはありません。少し…、怖いだけです」

「それなら…、いいのですが」


 コハクは両手でサラの顔を包み込む。熱で浮かされたように潤んでいる青い瞳から目が離せない。


「私のサラ…」


 まだ何もしていないのに、コハクの頬が上気していると感じるのは気のせいだろうか。

 工芸品のように美しい顔がすぐ目の前に迫ってきて、サラは自然と目を閉じた。


「愛しています」


 低い囁きとともに、柔らかく唇が重なった。甘くて苦い葡萄酒の味に、頭がくらくらする。

 強ばっていた体の力が抜けていく。


「私がどれだけ貴女を愛しているか、時間をかけて教えてあげましょう」


 こうして、長い長い夜が始まった。

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