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宰相閣下の宝物  作者: 半崎ゆま
本編
73/107

小さな手

 大きな音がしてコハクの意識は現実に引き戻された。

 ろうそくの火が消えた寝室を月明かりが照らしている。

 少し目眩のような感覚は残っているが、痛みはまったく感じなくなっていた。


「サラ」


 返事はない。

 上半身を起こした瞬間に目に飛び込んできたのは、床に倒れているサラの姿だった。あの日の姿が脳裏にちらついて、背筋が凍りつく。

 投げ出されたサラの手に向かって、コハクは手を伸ばした。指先が触れ、コハクはその手を掴もうとする。

 しかし、ぬるり、と嫌な感触がして指先は滑り落ちた。


 これは、まさか…。


 コハクは寝台から飛び降りて、サラの体を抱き起こした。


「サラ、サラ」


 名前を呼びながら体を仰向けにする。サラは顔色こそ良くないが、穏やかな表情で気持ち良さそうに眠っていた。コハクは大きく息を吐いた。

 そしてサラを寝台に横たえると、ろうそくに火を灯す。


 明るくなった寝台の上で、コハクは言葉を失った。

 サラの小さな手は、血で真っ赤に染まっていた。

 送った魔力の分だけ反撃してくるという紋様は、サラの大量の魔力をそのまま反映して、この小さな手を切り裂き続けたのだ。

 コハクは傷だらけの手を両手で包み込んだ。急いで治癒魔法をかける。

 可哀想に、さぞかし痛かっただろう。愛しい恋人の手に傷や後遺症が残らないように、コハクは祈りを込めて魔力を送り続けた。


 しばらくして魔力の流れが変わったことを感じ、魔法をかけるのをやめる。傷が残っていないかを確認するためには、こびりついた血をきれいに拭き取らなければならない。

 コハクは明かりを持たずに台所まで走った。

 そして、布巾を用意して湯が沸くのを待っていたとき、あることに気が付いた。


 あれだけの魔法を使ったのに…。


 コハクは洗面所に行き、明かりを点けた。

 鏡の中に浮かび上がった上半身を観察する。

 飛び散った血痕と、這うような赤い手形に胸が締め付けられる。そして、右の脇腹には何かで拭き取った跡が見られ…。


 そこには、何もなかった。


「消えている…」


 呪術の解除は成功していたのだ。


 コハクの脳裏に、あの紋様にまつわる記憶が次々と浮かんできた。

 呪術をかけられた日の事、ヒスイにかけられた秘術、アレクとコルテアに乗り込んだ時の事、マリアやノキアがかけてくれた言葉。そして、サラと出会った事。

 サラは諦めかけていたコハクの呪いを解いてくれた。か弱いサラを自分が守りたいと思っていたのに、救われるのはいつも自分だった。


 コハクは胸に残る小さな赤い手の痕に、自らの手を重ねた。

 愛しくて胸が苦しくなる。早くサラに触れたくてたまらなくなった。


 急いで台所に戻り、手早く自分の体を拭き、湯と布巾を持って寝室に戻る。


 サラは安らかな寝息を立てていた。

 その額に軽く口付けてから、コハクは濡らした布巾でサラの体を拭いていく。折れてしまいそうなほど細い手首、柔らかい手のひら、手の指一本一本まで丁寧に拭き清める。

 傷が残っていないことを確認して、コハクは右手の甲に口付けた。

 そのとき、サラの体がぴくりと動いた。


「サラ」


 コハクは恋人の名前を呼ぶ。

 長いまつげがゆっくりと動き、サラが目を覚ました。


「コハクさま」


 サラはコハクを見て微笑むと、小さいがはっきりとした声で答えた。

 コハクはサラの小さな体を抱き寄せた。

 頭をなで、頬擦りをする。


「私のために、ありがとうございます」

「お体は大丈夫ですか?」

「ええ」

「痛い思いをさせて、ごめんなさい」


 自分だって大怪我をしたのに、サラは申し訳なさそうに呟いた。


「もう忘れました」


 コハクはサラの髪を撫でた。


「貴女の方こそ、痛かったでしょう」

「わたしは…」


 サラは思い出したように自分の右手を見て、目を丸くした。


「まさか、コハクさまが…」

「貴女のおかげで魔法が使えましたよ」


 その言葉を聞いたサラは、血相を変えてコハクの腕をすり抜けた。


「まだちゃんと確認していないのに」


 サラはコハクの脇腹を指でなぞる。


「どこか痛いところはありますか?」

「いいえ」

「気持ち悪いとか」

「いいえ」

「熱っぽいとか、それから…」

「サラ」


 コハクは呼び掛けに顔を上げたサラの唇を強引にふさぐ。長い長い口付けを交わすと、サラの体から力が抜けていった。


「私は大丈夫ですよ」

「本当に?」

「貴女のおかげです。呪いが解けて最初に貴女のための魔法を使うことができるなんて、私は幸せです」

「良かった…」


 サラは柔らかく微笑んだ。この笑顔がコハクは好きだ。

 コハクはもう一度サラを抱き締める。このままサラを自分のものにしてしまいたいと本能が囁くが、理性でそれを押し留めた。

 時計を見ると、すでに日付は変わっていた。


「休みましょうか」

「わたし、着替えを居間に置いてきてしまいました」

「では、私の服を出しましょう」


 サラが着替えている間に、コハクは水差しを取りに行く。寝室に戻ると、寝台の上で大きすぎる服を着て、恥ずかしそうに座っているサラの姿が目に入った。


 なんて可愛らしい…。


 コハクは、再び頭をもたげた欲望を冷たい水を飲んで押し流す。


 サラを寝台に横たえたコハクは、自分も上着を羽織ってから隣で横になる。


「おいで」


 そう言うと、サラは嬉しそうに微笑んで体を寄せた。優しく抱き寄せて体を密着させる。布越しでもわかるサラの体温がコハクを暖めていく。


「おやすみ」

「おやすみなさい」


 小さくて柔らかいサラの体を抱き締めながら、コハクはいつの間にか眠っていた。

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