小さな手
大きな音がしてコハクの意識は現実に引き戻された。
ろうそくの火が消えた寝室を月明かりが照らしている。
少し目眩のような感覚は残っているが、痛みはまったく感じなくなっていた。
「サラ」
返事はない。
上半身を起こした瞬間に目に飛び込んできたのは、床に倒れているサラの姿だった。あの日の姿が脳裏にちらついて、背筋が凍りつく。
投げ出されたサラの手に向かって、コハクは手を伸ばした。指先が触れ、コハクはその手を掴もうとする。
しかし、ぬるり、と嫌な感触がして指先は滑り落ちた。
これは、まさか…。
コハクは寝台から飛び降りて、サラの体を抱き起こした。
「サラ、サラ」
名前を呼びながら体を仰向けにする。サラは顔色こそ良くないが、穏やかな表情で気持ち良さそうに眠っていた。コハクは大きく息を吐いた。
そしてサラを寝台に横たえると、ろうそくに火を灯す。
明るくなった寝台の上で、コハクは言葉を失った。
サラの小さな手は、血で真っ赤に染まっていた。
送った魔力の分だけ反撃してくるという紋様は、サラの大量の魔力をそのまま反映して、この小さな手を切り裂き続けたのだ。
コハクは傷だらけの手を両手で包み込んだ。急いで治癒魔法をかける。
可哀想に、さぞかし痛かっただろう。愛しい恋人の手に傷や後遺症が残らないように、コハクは祈りを込めて魔力を送り続けた。
しばらくして魔力の流れが変わったことを感じ、魔法をかけるのをやめる。傷が残っていないかを確認するためには、こびりついた血をきれいに拭き取らなければならない。
コハクは明かりを持たずに台所まで走った。
そして、布巾を用意して湯が沸くのを待っていたとき、あることに気が付いた。
あれだけの魔法を使ったのに…。
コハクは洗面所に行き、明かりを点けた。
鏡の中に浮かび上がった上半身を観察する。
飛び散った血痕と、這うような赤い手形に胸が締め付けられる。そして、右の脇腹には何かで拭き取った跡が見られ…。
そこには、何もなかった。
「消えている…」
呪術の解除は成功していたのだ。
コハクの脳裏に、あの紋様にまつわる記憶が次々と浮かんできた。
呪術をかけられた日の事、ヒスイにかけられた秘術、アレクとコルテアに乗り込んだ時の事、マリアやノキアがかけてくれた言葉。そして、サラと出会った事。
サラは諦めかけていたコハクの呪いを解いてくれた。か弱いサラを自分が守りたいと思っていたのに、救われるのはいつも自分だった。
コハクは胸に残る小さな赤い手の痕に、自らの手を重ねた。
愛しくて胸が苦しくなる。早くサラに触れたくてたまらなくなった。
急いで台所に戻り、手早く自分の体を拭き、湯と布巾を持って寝室に戻る。
サラは安らかな寝息を立てていた。
その額に軽く口付けてから、コハクは濡らした布巾でサラの体を拭いていく。折れてしまいそうなほど細い手首、柔らかい手のひら、手の指一本一本まで丁寧に拭き清める。
傷が残っていないことを確認して、コハクは右手の甲に口付けた。
そのとき、サラの体がぴくりと動いた。
「サラ」
コハクは恋人の名前を呼ぶ。
長いまつげがゆっくりと動き、サラが目を覚ました。
「コハクさま」
サラはコハクを見て微笑むと、小さいがはっきりとした声で答えた。
コハクはサラの小さな体を抱き寄せた。
頭をなで、頬擦りをする。
「私のために、ありがとうございます」
「お体は大丈夫ですか?」
「ええ」
「痛い思いをさせて、ごめんなさい」
自分だって大怪我をしたのに、サラは申し訳なさそうに呟いた。
「もう忘れました」
コハクはサラの髪を撫でた。
「貴女の方こそ、痛かったでしょう」
「わたしは…」
サラは思い出したように自分の右手を見て、目を丸くした。
「まさか、コハクさまが…」
「貴女のおかげで魔法が使えましたよ」
その言葉を聞いたサラは、血相を変えてコハクの腕をすり抜けた。
「まだちゃんと確認していないのに」
サラはコハクの脇腹を指でなぞる。
「どこか痛いところはありますか?」
「いいえ」
「気持ち悪いとか」
「いいえ」
「熱っぽいとか、それから…」
「サラ」
コハクは呼び掛けに顔を上げたサラの唇を強引にふさぐ。長い長い口付けを交わすと、サラの体から力が抜けていった。
「私は大丈夫ですよ」
「本当に?」
「貴女のおかげです。呪いが解けて最初に貴女のための魔法を使うことができるなんて、私は幸せです」
「良かった…」
サラは柔らかく微笑んだ。この笑顔がコハクは好きだ。
コハクはもう一度サラを抱き締める。このままサラを自分のものにしてしまいたいと本能が囁くが、理性でそれを押し留めた。
時計を見ると、すでに日付は変わっていた。
「休みましょうか」
「わたし、着替えを居間に置いてきてしまいました」
「では、私の服を出しましょう」
サラが着替えている間に、コハクは水差しを取りに行く。寝室に戻ると、寝台の上で大きすぎる服を着て、恥ずかしそうに座っているサラの姿が目に入った。
なんて可愛らしい…。
コハクは、再び頭をもたげた欲望を冷たい水を飲んで押し流す。
サラを寝台に横たえたコハクは、自分も上着を羽織ってから隣で横になる。
「おいで」
そう言うと、サラは嬉しそうに微笑んで体を寄せた。優しく抱き寄せて体を密着させる。布越しでもわかるサラの体温がコハクを暖めていく。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
小さくて柔らかいサラの体を抱き締めながら、コハクはいつの間にか眠っていた。




