呪術の解除
夜、サラは寝室でコハクが戻ってくるのを待っていた。
大きな寝台の脇に置かれた小さな机の上には、五種類の薬が置いてある。痛覚を麻痺させる飲み薬と感染症を防ぐ飲み薬、消毒薬、皮膚の表面に塗って感覚を鈍くさせる薬、それから、すべて終わった後に体力を回復させるための飲み薬。
サラは窓を開けて夜空を仰ぎ見る。
薬を調合している間に、コハクが作ってくれた夕食の魚料理はとても美味しかった。魚は薄味で柔らかく煮込んであって、まだ内蔵が弱っているサラを思って作られたことがすぐにわかった。お礼を言うと、彼は「毎日だって作りますよ」と笑っていた。
毎日か…。毎日一緒にいられたらきっと幸せだろうな…。
いつかそんな日が訪れることを夢見て、サラは欠けた月に魔法の成功を祈る。星になってこちらを見守っているマリアやノキアにも力を貸してくれるように願う。
後ろで扉が開く音がした。
「夜風に当たると風邪をひきますよ」
風呂から戻ってきたコハクがサラの肩を抱く。柔らかい石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
サラは窓とカーテンを閉めた。ろうそくの明かりだけが室内を照らしている。
コハクはサラの頬に軽く口付けた。
「では、お願いします」
「はい」
サラはコハクに二種類の飲み薬を渡す。苦いはずの薬を眉ひとつ動かさずに飲み干し、コハクは上着を脱いだ。
鍛えられた上半身は彫刻のように美しく引き締まっている。しかし、白い肌に点々と残っている古い傷跡が、彼の過酷な半生を物語っていた。
「目眩のような感じがしてきました」
「薬が効いてきましたね。横になってください」
サラはコハクの背中を手で支え、寝台に横たわらせる。
「サラ」
コハクが手を伸ばした。サラは求められるままに唇を重ねる。
「貴女にすべてお任せします」
そう言ってコハクは目を閉じた。
サラは寝台の横に置いた椅子に座り、コハクの腹部に薬を擦り込んだ。大きく深呼吸をして、精神を統一する。
「はじめます」
腹部にあてた指先に意識を集中させ体内の様子を思い描く。そして狙いを定めて一気に魔力を送り込む。
「くっ…」
声にならない悲鳴を上げて、コハクの体が大きく跳ねた。コハクは苦悶に満ちた表情で寝具を掴み、必死に痛みに耐えているようだった。
サラはあえて目を逸らす。余所見をしているくらいなら、早く呪術を解除した方がいい。泣きたい気持ちを押さえながら魔法をかけ続けた。時折聞こえる引き付けのような呼吸音が、彼の意識があることを伝えてくれる。
患部の凍結が終わった。サラはコハクの様子を伺う。
コハクは目を見開いて荒い呼吸を繰り返していた。額には玉のような汗が浮かんでいる。一刻も早く終わらせなければ。
サラは患部が溶けないように、急いで呪術の解除に取りかかる。
右手だけを紋様にあて、魔力を送り込む。すぐに鞭で打ったような音がして、手のひらに鋭い痛みが走った。それでも魔力を送り続けると、まるで小さなかまいたちが暴れているかのように、サラの肘から下に無数の切り傷ができていった。大きく裂けた傷から血があふれだし、コハクの腹部に滴り落ちる。
サラは唇を噛んで痛みをこらえながら、魔法をかけ続けた。
どれくらいの時間が経ったのかはわからないが、徐々にサラを切り裂く魔法の風の威力が収まり、回数も減ってきた。あと少しで隔離された血液による魔力の供給が終わり、紋様は消滅する。
もう手の痛みは感じなくなっていた。終わりが見えて安心しかけたそのとき、ひときわ大きな音が響き、サラの手首から血が吹き出した。
それが、最後だった。
薄暗い寝室に響くのは、喘ぐようなコハクの呼吸音だけ。
顔を覗きこむと、コハクは心配するなとでも言うように口角を上げた。
「もうすぐ終わります」
そう告げてから、サラはコハクの腹部についた自らの血痕を拭き取った。
赤い紋様は跡形もなく消えていた。
サラは手首に布巾を強く巻いて止血をすると、息つく間もなく治癒魔法にとりかかる。
視界がかすむのは出血によるものか、それとも魔力の残りが少ないからか。それでもありったけの魔力を送り込み、凍傷のようになっている患部の組織を修復して、血液の流れを元通りにする。
コハクの表情が穏やかなものに変わった。もう大丈夫だ。
最後にサラは体力を回復させる薬を手に取ろうとしたが、利き手である右手はうまく動かない。サラは左手で瓶を持ち、口に咥えてふたを開ける。
「コハクさま、これを…」
瓶をコハクの口にあてがうが、意識が朦朧としているコハクの唇からは薬がこぼれてしまう。
「確かあのときは…」
コハクに助けてもらったときのおぼろげな記憶を頼りに、サラは薬を口に含むと、半開きになっているコハクの唇に自分の唇を重ねる。こぼれないように気を付けて少しずつ薬を流していくと、コハクの白い喉が動いた。
「サラ…」
コハクが目を開けた。これでもう大丈夫だ。
安心して緊張の糸が切れたのか、体から力が抜け椅子から転げ落ちた。冷たい床で顔だけを動かすと、寝台から伸ばされたコハクの手が見える。その手に触れたくて赤く染まった右手を精一杯伸ばす。
指先が触れた。
それだけで幸せな気持ちに包まれて、サラの意識はそこで途切れた。




