夢の始まり3
「今なら、マリア様は私個人の幸せを願ってくださったのだとわかります。宰相として国を繁栄させることは私に課せられた使命であって、私自身はひとりの孤独な男でしかなかったのです」
「コハクさま…」
「貴女に出会って恋に落ちて、私は自分の弱さを知りました。完璧でありたかった私にとって、それは恥ずべきことだと思っていたのに、どうしても自分の気持ちを抑えることはできませんでした」
コハクはサラの頬に触れた。澄んだ青い瞳がサラを見つめる。
「私は今、とても幸せです。愛しい貴女が側にいて、私は自由に手を伸ばして触れることができる」
長い指が頬を滑る感触に、体がぴくりと跳ねる。
「…貴女は、幸せですか?」
濡れた瞳に憂いの影をちらつかせて、コハクが尋ねた。
サラがコハクと釣り合うのか不安になるのと同じように、彼も不安になることがあるのだろうか。
そんな彼は自分が側にいることが幸せだという。
では、わたしの幸せって何だろう…。
よくわからないなんて言ったら、きっとコハクは悲しむだろう。
サラは意識して笑顔を作った。
「もちろん幸せです。コハクさまは、わたしなんかにはもったいないくらい素敵な方ですから」
「貴女は…」
コハクはため息混じりに呟くと、カーテンを開けてろうそくの火を吹き消した。
今宵は新月のため、星の光だけが静かに部屋を照らしだす。
コハクは再びサラの隣に腰かけ、そっと胸元に抱き寄せた。
「…今はそれで十分です」
コハクの心臓の音が聞こえる。
それはゆっくりと、規則正しく、ふたりで過ごす時の流れを刻みこむかのようにサラを包み込む。
「どうか、私と共にあることが、貴女にとってのいちばんの幸せでありますように」
そう囁いたコハクの肩はずっと震えていた。切なくて胸が痛くなってくる。
どうして自分は幸せに浸りきれないのだろう。大好きな人に抱き絞められて嬉しくてたまらないのに。まだ、心のどこかに傷つかないための予防線を張ってしまっている。
暖かい腕の中で、サラはコハクの幸せを願った王妃に思いを馳せる。
星になった王妃の代わりにはなれないが、自分は彼に幸せになってほしい。自分が彼を幸せにしたい。でも、どうすれば…。
「本当に、大好きなのに…」
声にならない言葉は、闇に溶けた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。コハクは抱き締めていた腕をほどくと、ろうそくに灯をつけてカーテンを閉めた。
温かみのある光が眠気を誘い、サラは小さくあくびをする。慌てて口を押さえるが、コハクは嬉しそうに笑っていた。
「かわいい」
「…恥ずかしいです」
「もう深夜ですからね。寝室に行きましょうか」
「コハクさまは眠くないのですか」
「私は仕事柄、深夜まで起きていることも多いのです。ですからまだ平気ですよ」
「わたしは…」
サラはコハクの腕を掴んだ。
「せっかく一緒にいられるのに、寝るのがもったいなくて…」
「では、今夜はずっとこうしていましょう」
そう言ってコハクは微笑んだ。一枚の毛布にくるまって肩を寄せ合うと、暖かくてますます眠くなってきた。
「このまま朝まで、ずっと…」
そっと頬に口付けられる。
甘い葡萄酒の香りに、意識がふわふわと宙を漂う。もっと起きていたいのに、サラは自然と目を閉じていた。
気が付くと辺りはうっすらと明るくなっていた。微かに鳥のさえずりが聞こえる。
いつもの習慣で早く目が覚めてしまったようだ。
隣ではコハクが規則正しい寝息をたてている。
まつげが長い。形の良い唇は色素が薄く、朝日を反射する金色の髪は絹織物のように美しく顔の三分の一ほどを覆い隠していた。
サラはコハクを起こしてしまわないように細心の注意を払い、ソファーを抜け出した。顔を洗い、着替えて身だしなみを整える。寝不足だし、背中も少し痛い。それでもこんなに満たされた朝を迎えたのは初めてだった。
居間に戻り鞄から杖を取り出す。そして、音を立てないように注意して玄関から外に出た。
朝の森林特有の、少し水分を含んだ空気がサラを包む。風が吹くと木の葉が揺れ、遠くで鳥が鳴いた。
サラは両手で杖を持ち、朝の祈りを捧げる。
聖堂の荘厳さとは異なるが、自然の中での礼拝も気持ちが良いものだった。周囲の空気が清浄なるものに変わり、それがこの森いっぱいに広がって、さらに遠くへ、国中へ。そう意識しながらサラは祈る。
そのとき、サラは足首に鋭い痛みを感じた。
足元を見ると小さな黒い蛇がのたうちまわっている。この蛇に右の足首を噛まれたようだ。
種類を確認しようとしたとき、蛇の膨れ上がった赤い目に気が付いた。そこにははっきりと黒い紋様が刻まれていた。
やられた、と思った。
確か、この蛇の毒には体を麻痺させる効果があったはず…。
急に体が重くなった。
迂闊だった。敵は、周囲への注意が散漫になる祈りの時間を狙ったのだ。
「あっ」
身体中に重りをぶら下げられたような衝撃を感じ、サラは地面に崩れ落ちた。
体に力が入らない。あの扉の先にコハクがいるのに、どうしよう…、体が重くて動けない。
サラは力を振り絞って地面を這う。頬が地面に擦れてひりひりと痛んだ。それでも必死に手を伸ばす。
「コハクさま、コハクさま…」
精一杯呼び掛ける声は、木々のざわめきにかき消された。
サラがいなくなったらコハクはどう思うのだろう。
幸せだと言ってくれたのに。大切にしてくれたのに。
あんなに優しい人を信じきれず、素直になれなかったサラに罰があたったのかもしれない。
…もう二度とコハクに会えないのだろうか。
「たすけて…」
すでに体は動かない。目を閉じると、涙がこぼれた。
「コ…ハク…さま…」
再びまぶたを開く力すら、サラには残っていなかった。
「ごめん…なさ…い」
声にならない謝罪は、コハクには届かない。意識が闇に飲まれていく。
「ごめんなさい、サラ様…」
意識が途切れる寸前に、馴染みのある少女の声が聞こえたような気がした。




