夢の始まり2
きれいに整理された台所は、大国の宰相の屋敷とは思えないくらいこじんまりとしていた。それでも孤児院の厨房よりは広くて、ふたりで使うのなら十分すぎる大きさだった。
「コハクさまは、お料理をなさるのですね」
「ただの趣味ですよ。気分転換になりますから」
ナイフで器用に野菜の皮を剥きながら、コハクは言う。
「貴女はずいぶん手慣れていらっしゃいますね」
「こちらに来るまではずっと自炊をしておりました」
「だから手際が良いのですね」
「自分が食べる分だけでしたから、大したものは作れませんが…」
サラが野菜を切る様子を、コハクは目を細めて見ている。
「またひとつ、貴女のことを知ることができて嬉しいです」
そんなに優しい目で見つめられたら、恥ずかしくてうまく手が動かなくなる。
…わたしも、あなたのことがもっと知りたいです。
心の中でなら言えるのに、どうしても口には出せなかった。コハクはすでに次の作業に移っている。
今は焦る必要はない。時間ならたくさんあるのだから。
「その奥の箱から、肉を出して解凍していただけますか」
指差された先には小さな木箱があった。蓋を開けると白い冷気が漏れだし、中には大量の氷と凍った赤身の肉が入っていた。
「魔法を使っても?」
「もちろんです」
袋に入れて水にさらしても良いのだが、魔法の方が手早く解凍できる。サラは魔法で肉に含まれる水分の温度を上げていく。肉は次第に柔らかくなり、少量の赤い液体がにじみ出てきた。
そのとき、サラの脳裏に何かがひらめいた。
「コハクさま、思い付いたことがあるのです。あちらに戻って魔法の構造式を作ってもよろしいですか」
「ええ。もちろんです」
コハクは驚いた様子だったが、笑顔で頷いてくれた。
サラは居間に戻り、思い付いた方法を実行するための構造式を考える。
どんな魔法をどの順に使えばいいか。サラは魔法の効果を紙に書き並べていく。強い魔法を解除するためには、いかに効率良く、対象と術者双方に負荷がかからないようにするかの段取りを考えなければならない。
サラは夢中で式を書き続けた。
「できた…」
とりあえず術は形になった。後は時間を置いてから改めて見直して、最後に必要な道具を揃えればよい。
「サラ」
気が付くとコハクが隣で微笑んでいた。どれくらいの時間が経ったのだろう。
「終わりましたか」
「はい。今日できるのはここまでです」
サラは本や筆記具を鞄にしまった。立ち上がって部屋を見渡すと、すでに食事の支度は終わっていた。
「ごめんなさい。夢中になってしまって…」
「一生懸命な姿も素敵でしたよ。つい見とれてしまいました」
コハクに促されて食卓に着き、向かい合って夕食をとる。
そういえば、コハクと一緒に食事をするのは初めてだった。趣味という割には、コハクの料理はとても手が込んでいた。野菜も肉も小さめに切ってあるのは、サラの小さな口に合わせてくれたに違いない。あっさりとした味付けで、これなら残さず食べられそうだ。
「美味しいです」
「良かった…。妹以外の方に召し上がっていただくのは初めてで、とても緊張しました」
素直な感想を述べると、コハクは柔らかく微笑んだ。
コハクは食事をする姿も美しかった。すべての所作が優雅なのは皇族として躾られてきたからだと、今更ながら納得した。
いつの間にか用意されていた湯に浸かり、コハクの上着を部屋着の代わりに身にまとう。
心配するようなことはしないと言われたが、コハクの匂いがする上着に包まれると,どうしてもそのことを考えてしまう。
いつかは…、あの人に…。
きっとコハクは大切にしてくれる。恐れることは何もない。あとは自分の気持ち次第だ。
居間に戻ると、ろうそくの灯りに照らされたコハクは難しそうな本を読んでいた。サラに気が付いて顔を上げる。
「なかなか背徳的な姿ですね」
「…どういうことでしょうか」
「いいえ、お気になさらなくて結構です」
サラはコハクの隣に座った。すぐに腰に手を回され引き寄せられる。
コハクの前開きの夜着の胸元が開き、白い肌がのぞいている。その陶器のように滑らかな肌に、サラは吸い寄せられるように指を這わせた。
「んっ」
コハクが吐息混じりの声をあげる。
「…貴女は私を誘っているのですか」
「ごめんなさい。あんまりきれいでしたから」
コハクは苦笑いを浮かべて立ち上がり、お茶を淹れて戻ってきた。サラが入浴している間、彼はお酒を飲んでいたようだ。透明な硝子の器に、葡萄酒と思われる赤い液体が注がれている。
急にコハクが大人びて見え、サラは恋人の年齢すら知らないことに気が付いた。
「今更…なのですが」
「何でしょう」
「コハクさまはおいくつですか?」
「二十二です。貴女より六歳上です」
「わたしは…、子どもっぽくはないですか?」
再び、自分はこの人に釣り合わないのではないかという不安が頭をよぎる。
「貴女は私が十六の頃より、ずっとしっかりしています。ですが、私は貴女に頼られるととても嬉しいので、たくさん甘えてくださいね」
コハクは薄い毛布をサラの肩にかけた。サラは安心してコハクの胸に寄り添う。ふたりで一枚の毛布にくるまって、話の続きがはじまった。
「私が城で暮らしはじめてから約一年後、コルテアで内乱があり、皇帝が暗殺されたという情報が入りました。私とアレク王子は真相を確かめるためコルテアに潜入しました」
「陛下までコルテアに行かれたのですか?」
「ええ。陛下には事情がありまして…」
なんとなく聞いてはいけない雰囲気を察して、サラは頷くことで話を打ち切った。コハクは軽く口角を上げてから、話を続けた。
「我々が到着したとき、城は血の海と化していました。二番目の兄が皇位継承権を剥奪されたことに逆上し、皇帝に反感を持つ貴族達と結託して皇帝を殺害したのです。しかし、それだけでは兄の復讐は終わらず、兄は城内の人間を手当たり次第に殺害して回ったのです」
「皇族以外も、ですか」
「ええ、二番目の兄は剣術こそ得意ではありませんでしたが、魔法の力は兄弟の中で一番と言われていました。しかし、気が弱く疑り深い性格でした」
コハクは硝子の器を手に取った。
「疑心暗鬼になった兄には、すべてが敵に見えたのでしょう。味方だった貴族達も皆殺しにし、城に火を放ちました。我々が城の中心にたどり着いたとき、彼は焼け焦げた玉座に座って奇声をあげていました。すでに彼の精神は崩壊していたのでしょう。私を見るなり、亡霊だと決めつけて魔法を放ってきました。私は仕方なく兄を…」
「コハクさま」
サラは結論を遮って首を振る。声に出した瞬間に、言葉は鋭い刃になる。当時コハクは十歳くらい。きっと辛い経験だっただろう。
コハクはサラの手を握った。
「父がほとんどの皇族を城内に押し込めていたのが仇となって、王家を継ぐ者はいなくなりました」
今、その資格を持っているのはコハクだけ。もちろん本人にその意志はない。
「その後、聖王国の騎士団が国内を制圧し、コルテアは聖王国の一部となったのです」
「それが、十二年前の出来事ですね」
「はい。私とヒスイはようやく安心して暮らすことができるようになりました。私はアレク王子と共に勉学に励み、ヒスイはいつのまにか騎士団に入り浸って剣術を学び始めました」
穏やかな眼差しが見ているのは、二度と戻らない遠い日の思い出だろう。
「それから半年後、マリア様が流行り病で亡くなりました」
サラはコハクの手を強く握った。
「マリア様は最期まで私の幸せを願ってくださいました。その恩に報いるために、私はこの国とアレク様にすべてを捧げる決意をしたのです。私の幸せはそこにあると信じて疑いませんでした」
コハクは赤い酒で唇を湿らせた。
「ですが、貴女に出会ってから考えが変わりました」




