夢の始まり1
何かあると気が付いたきっかけは、あの日、戸惑いと幸福の中で微かに感じた違和感だった。
「コハクさまの執務室で、初めて抱き締めていただいたとき、ここから魔法の力を感じました」
「直前に軽い魔法を使ったからでしょうね」
「だから、そこまで強くなかったのですね」
弱い力だったが、それは間違いなく後ろ暗い分野の魔法で、優しいコハクがそのような魔法を使うとは思いたくなかった。だから信じるために真実を知らなければならないと思った。
「わたしはその魔法が何か知りたかったのです。ですから、コハクさまに内緒で魔道具を作りました」
鞄から二つの赤い鉱石を取り出して、コハクに差し出す。
「これは、わたしが呪術を分析した結果と、ノキアさまの研究書の内容を組み合わせて作成したものです」
「あのとき見せてくださったのは、こちらですね」
コハクは紅玉を手に取る。
「いただいた標本を分析したところ、呪術を使う魔導師は三人いました。そのうちの一人は紋様に血液を含ませています」
「魔力の増幅に血液が有効なのは皇族の血が濃い者だけで、秘術を使えるのも皇族だけです。ですから、あの国は血筋を重視するのです」
コハクにかけられた呪術は、彼自身の魔力と血液で強化され、半永久的に効果を発揮することができるということか。
「こちらの紅玉はコルテアの操作術に反応するように、こちらの柘榴石は血液による魔力の増幅に反応するように作りました」
コハクはもう一つの石を手に取った。
「私がニーナさんの暗示の解除に魔法を使ったから、こちらが反応したのですね」
「はい、コハクさまを欺くようなことをして申し訳ありません」
あのときコハクが魔法を使ったのは明らかだったが、血液による増幅が起きていたのは魔法そのものではなく、ほぼ同時に発動した腹部の紋様だった。そして、あの場に漂っていた悪意の痕跡も紋様から発せられたものだった。
これですべてが繋がった。
しかし、好きな人を信じることができないばかりか、裏でこそこそと魔道具まで作っておいて、結局何の成果も得られないなんて…。自分で自分にうんざりする。
サラはコハクの顔を直視できなかった。
「私は貴女のそういうところも好きですよ」
思いがけない言葉に顔を上げると、コハクは優しく微笑んでいた。
「貴女はそのままでいいのです」
そう言ってサラの頭を撫でる。
「ずっとお一人で悩んでいたのですね。よくわからない魔法を使う私を信じられなかったのは当然のことです。それが司祭としても正しい判断でしょう」
「…ありがとうございます」
「そんな冷静な貴女も素敵ですが、普段の可愛らしい姿を知っているのは、私だけでありたいものですね」
コハクはサラの髪を一房取り、口付けた。
甘い言葉と、許してもらえたという安心感に、サラは胸を撫で下ろす。
「この件に関して、他に隠していることはありません。何かありましたら、次から必ずお話しします」
「…貴女が話したいと思うことだけでいいのですよ」
コハクは立ち上がり、部屋の灯りをつけた。
気が付けばすでに日は落ちていた。
「暗くなりましたね。教会までお送りしましょう」
コハクはソファーから立ち上がり、扉に向かった。外套掛けのローブを手に取ると、サラに背を向けて身支度を始める。
サラも帰り支度をしようと鞄に手を伸ばす。
唐突に、その手が止まった。
まだ、ここにいたい、と思った。
「話の続きはまた次の機会に」
…嫌だ。離れたくない。
「待ってください」
サラは立ち上がった。ローブを手にしたコハクが振り返る。
「どうしましたか?」
「まだ…」
青い瞳がサラを見つめている。
「帰りたくない…です」
「えっ?」
「もっと一緒にいたい…」
あのとき言えなかったわがままを、サラはようやく口にする。
コハクは驚いたように目を見開いた後、困ったような顔をして笑った。
「私も、同じ事を考えていました」
コハクはサラの頭を優しく撫でると、ローブを元の位置に戻した。
「貴女との別れ際はいつも寂しくて、どうやって引き留めようかとずっと考えていました。…これからは我慢しなくてもいいのですね」
コハクは穏やかに微笑み、サラを優しく抱き締めた。
「私も貴女を帰したくない。側にいてください」
頭上から囁くような声が降ってくる。暖かい胸から聞こえてくる心臓の鼓動は、サラが頷いた瞬間に心なしか早くなった気がした。
「教会には便りを送ります。私のところに泊まるとお伝えしてもよろしいですか?」
泊まるという言葉に、ふわふわと漂っていたサラの意識が現実に戻る。男性の家に泊まるということは、つまり…。
無意識に体が強ばった。
「安心してください。貴女が心配するようなことはしませんよ」
そんな不安を見透かしたのか、コハクは低い声で囁いた。
「貴女の心の準備ができるまで、私はいつまでも待ちます」
そう言って髪を撫でる手はとても優しくて、本当に大切にされているのだと実感する。
そう遠くない未来に「そのとき」は訪れるような気がした。
しばらくして、コハクは教会に連絡するため、二階に上がっていった。
居間に残ったサラは鞄から黒い表紙の本を取り出した。先程見たコハクの腹部の紋様を分析し、解除の方法を探る。
指に巻かれた包帯が目に入った。
あの紋様は送った魔力の量に比例した威力で、刃物のような風で攻撃してくる。呪いを解除するためには大量の魔力を送り込む必要があり、この程度の怪我で済むとは到底思えない。
ノキアの研究は、その対処のところで行き詰まっていた。
魔力を送る以外に紋様を取り払う方法はあるだろうか。しかし、紋様が刻まれた部分の皮膚を切り取っても意味はないだろう。あの紋様は木の根のように血液を吸い上げて作動している。血液が供給される限り新しい紋様を形成することは、コハクの話からも想像できた。魔力を送りながら血液を止める方法なんてあるのだろうか。
「お待たせしました」
コハクが二階から降りてきた。手には白い布を持っている。
「教会に連絡をしておきました。話の続きの前に夕食を作りますね」
「コハクさまがお作りになられるのですか」
「ええ。お口に合うかどうかわかりませんが」
「そんな恐れ多いことできません。わたしが作ります」
サラは血相を変えて立ち上がった。黒い本が床に落ちる。
コハクはそれを拾い上げ、サラに手渡す。そのとき指に巻かれた包帯に目を止めたのがわかった。
「これくらいの怪我、大したことありませんから」
「…では、こうしましょう」
取り繕うように言うと、コハクは諦めたように呟いた。
コハクは包帯をほどいた。
ぱっくりと口を開けた傷口に、赤黒い塊が点々とついている。その傷口をコハクは愛おしむように長い指で撫でた。その部分が熱を持ち、次第に傷がふさがっていく。
「だめです。魔法は…」
手を引いたときには、すでに傷は治っていた。コハクは何食わぬ顔で微笑んでいる。
「この程度の魔法でしたら、それほど痛みはないのですよ」
「ごめんなさい、わたしがわがままを言ったから」
「いいえ。初めからこうしていれば良かったのです」
どうしてコハクはこんなに優しくしてくれるのだろう。
彼が注いでくれる愛情と同じだけの熱量を持って、自分は彼に接することができるのだろうか。
「…コハクさまは、お優しいのですね」
「そう言ってくださるのは貴女だけです」
暖かい腕に抱き締められる。
「このまま時が止まればいいのに…」
コハクが耳元で囁いた。
熱くなりきれない自分でもいいのか、尋ねる勇気はなかった。




