宴の夜2
「そういえば、今日は兄に会ったの?」
それは、今のサラにとって一番触れてほしくない話題だった。
「いいえ…。お忙しいでしょうし、わたしはこれでお暇します」
「せっかくだから会ってあげて。きっと喜ぶから」
サラは最後に見たコハクの冷たい瞳を思い出す。
「そんなこと…、ないと思います」
「どうして? 兄のことが嫌いになったの?」
「それは違います。わたしは…」
一体どうしたいのだろう。
コハクのことを知るほどに、自分はここにいてはいけない人間だと思ってしまう。肩書きで人を見てはいけないが、それでもコハクの隣には宰相閣下に相応しい女性が並ぶべきだと思う。
サラは自分の手を眺めた。細すぎる指には、日々の薬草摘みでついた小さな傷が生々しく残り、指先は薬品の影響で荒れていた。
こんな手では、あの人に触れる資格はない。
「…もう疲れました」
気が付くと、そう呟いていた。ヒスイが血相を変えてサラの肩を掴む。
「どうしたの? 兄に何かひどいこと言われたの?」
「いいえ。コハクさまは何も仰いません」
そう、コハクは何も言わない。
だから自分がコハクにとって何なのかがわからない。勇気のないサラは、自分から尋ねることもできない。
…もう潮時か。
そう思ったら気持ちが軽くなってきた。
「わたしは司祭としても未熟ですし、体も丈夫ではありません。いつもコハクさまにご心配やご迷惑をかけてばかりです」
「そんなこと、兄は少しも気にしていないわ」
「コハクさまがあまりにもお優しいから、わたしは身の程知らずな想いを抱きそうになりました。ですが、コハクさまのことを知れば知るほど、わたしには手の届かない遠い世界の人だと思い知って…」
「その話、兄にはしたの?」
「いいえ。わたしの想いなど、わずらわしいだけでしょう。幸い、コハクさまの周りには素敵な女性がたくさんいらっしゃるようです。きっと相応しい方が見つかります」
「あなたはそれでいいの?」
ヒスイは泣きそうな顔でサラに問いかける。まるで、コハクが悲しんでいるようで胸が痛い。
「コハクさまが幸せになってくだされば…」
「嘘つかないで。兄が身分とか気にしないこと、わかっているでしょう」
問いつめる眼光の鋭さまで同じなんて…。
「…はい」
「あなたは本当はどう思っているの?」
「わたしは、わたしは…」
こらえていた涙があふれだした。
「もう苦しいのです。住む世界が違いすぎることももちろんですが、わたしもコハクさまも、お互いに何かを隠していて、それを伝えたらすべてを失ってしまいそうで、怖くてたまらなくて…」
「その隠し事って、兄のこと…、なのよね」
「…はい」
答えた瞬間、柔らかく抱き締められた。
「ありがとう。そこまで兄のことを大切に思ってくれて」
「ヒスイさま…」
金属の鎧の匂いに混じって、華やかな香水の匂いが微かに香る。
「兄だってあなたのことを…、でも、これは私が言うことではないわね」
ヒスイはサラの肩に手を置いた。
「サラさん、もう一度兄と話した方がいいわ」
「わたしは何も話すことはありません」
「じゃあ、せめて話を聞いてあげて」
「ですが…」
「お願いだから、兄様を見捨てないで」
ヒスイはコハクとよく似た眼差しでサラを見つめる。それだけで胸が苦しくなってくる。
「大丈夫です。お仕事はきちんとしますから」
「そうじゃなくて…」
そのとき、大広間に続く扉が開き、一人の兵士がヒスイのもとに駆け寄った。
「団長、お話が」
「今取り込み中よ」
「ですが、外の警備から…」
ヒスイが兵士の応対をしている間に、サラはここから立ち去ることにする。
「そろそろ帰ります」
「待って、今兄を呼んでくるから」
「結構です。あの程度のことで勘違いしてごめんなさい、とサラが申していたと、宰相さまにお伝えください」
遠くからヒスイの声が聞こえたが、サラはそれを無視してその場を後にした。
長い廊下を早足で歩き、出口に向かう。まだ乗り合い馬車は走っているだろうか。
明かりが消えた馬車の待合所には誰もいなかった。歓迎会の警備のため、一般人の利用する馬車は早い時間に打ち切られていたのだ。
今さら貸し切り馬車を手配するわけにもいかない。どうせ歩いて帰るしかないのだから、サラは待合室の長椅子で休んでから出発することにした。
開け放たれた窓からは城の明かりが見える。さっきヒスイと話をしたバルコニーもはっきりと目視できた。
あんなに心配してくれるなんて、ありがたいことだ。コハクとの関係がなくなっても、ヒスイとは今まで通りに話せればいいなと思う。
コハクとは、もう普通には話せないだろう。それがとても寂しくて悲しかった。
しかし、これでよかったのだ。今は悲しくてつらいけれど、時が過ぎれば胸の痛みが薄れていくことをサラは知っている。
遠くで梟の鳴き声がした。それが途絶えた瞬間、耳が痛くなるほどの静寂が辺りを支配する。
本当に、ひとりになってしまった。
それを自覚した瞬間、再び涙があふれだす。
「コハクさま…」
悪意ある魔法の余韻を恐れ、突き放したのは自分の方だ。冷たい瞳が揺らいだ瞬間、彼を傷つけたことがわかった。やはり自分なんて彼に相応しくないと思ったし、身分や外見のこともそれを裏付けた。
好きにならなければよかった。
誰もいない小屋の中で、サラは声を上げて泣いた。




