誰のための優しさ3
執務室のソファーにサラを座らせて、コハクは紅茶の準備に取りかかった。目の前には茶器一式がある。廊下に出て女官に湯の手配を頼もうかと思ったが、サラをこの部屋に一人で残したくなかった。
コハクはサラから見えないように注意を払い、水差しの中の水に魔力を送り込む。すぐに水は沸騰し、数秒後には右の脇腹に刺すような痛みを感じた。唇を噛んで痛みに耐えながら、コハクはサラと同じ手順で紅茶を淹れた。
「こちらをどうぞ」
サラに器を手渡す。
脇腹の痛みはすでに鈍いものに変わっていた。これならサラに悟られることはないだろう。
「ありがとうございます」
紅茶を口に含むと、サラの表情が緩んだ。
「美味しいです」
サラはコハクを見上げて微笑む。ようやく見ることができた笑顔にコハクは胸を撫で下ろした。
「貴女の真似をして紅茶を淹れたら、妹にも誉められました」
「…宰相さまは、何でもお出来になるのですね」
サラの笑顔に影が差す。
コハクはサラの隣に座った。体が触れないように、あえて距離をとる。
「私は、何でもできるふりをしているのですよ」
紅茶の器を両手で持ち、正面を見据えたままコハクは呟く。
「私は常に完璧でありたいと思っていました」
幼いときの記憶が甦る。床に広がった金色の海、見開かれた青い瞳。期待に応えることができなければ、そこにある光景が自分の末路となる。
あのときの恐怖は未だにコハクの心を蝕んでいる。
コハクは身震いをした。隣ではサラが心配そうに見上げている。
いつかサラには話したい。だが、もう少し時間がほしい。
コハクは器を机に置いた。
「私は周囲から完璧であることを求められ、それなりに応えてきたつもりです。ずっとうまくやってきたはずなのに…」
コハクはサラを見つめる。サラは目を逸らさなかった。その瞳に映る自分は、きっと情けない顔をしているのだろう。
自分の作り上げてきた虚像が崩れ落ちていく。
「貴女に出会ってから、うまくできないのです」
絞り出すような声で言うと、コハクはうなだれた。
「貴女の前では、私は完璧になれない。もっと貴女に必要とされる存在でありたいのに」
こんなに情けない姿を晒してしまって、きっとサラは幻滅したに違いない。しかし、一度話し出したら止められなかった。
「なぜこんなにうまくいかないのでしょう。貴女の方がよほど立派な…」
コハクは両手で顔を覆った。顔を見られるのが怖かった。
「宰相さま」
囁くようなサラの声がした。
衣擦れの音がして、膝に手が置かれた。
「わたしは、宰相さまが完璧でなくてもかまいません」
意外な言葉に、コハクは指の隙間からサラの様子を伺う。
「宰相さまに初めてお会いしたとき、正直、少し近寄りがたい方という印象をうけました。ですが、何回かお会いしているうちに、本当はとても優しい方だとわかりました」
サラの声は優しい。
「それから、お若いうちから宰相の職に就かれているという話を聞いて、実際にお仕事をされている姿も拝見いたしました。宰相さまはこの国にとって、なくてはならない大切なお方で、わたしも司祭として教会をまとめる立場になったのだから、いずれは宰相さまのようになりたいと思いました」
そこで一息ついて、サラは膝に置いた手を握りしめた。
「そして、勝手にこうあるべきだという偶像を作り上げていました」
サラの手がコハクの手に触れた。顔を覆っていた手の力が抜け、ぱたりと膝の上に落ちた。
サラの指先がコハクの頬を優しくなぞる。
「宰相さまは、ちゃんとここにいらっしゃるのに」
サラは憂いを帯びた瞳で、コハクを見つめる。
「勝手に決めつけて、ごめんなさい」
その瞳から、一筋の涙が流れた。
その瞬間、切ない思いが込み上げてきて、コハクは覆い被さるようにサラの体を抱き締めた。小さな体をたぐりよせ、ふたりの隙間が少しでも埋まるようにきつくきつく抱き締める。
サラは糸の切れた人形のようにされるがままになっていたが、やがて両手を伸ばしコハクの背中をそっと撫でた。
細い指が背中を這う感覚に、コハクの身体を痺れるような快感が駆けめぐる。このまま押し寄せる甘い快楽に溺れてしまいそうになる。
しかし、その波に流される前に、言うべきことがある。
「私は、貴女に嘘をついていました」
「えっ」
サラは弾かれたように顔を上げた。
「護衛なんてただの言い訳です。手を繋いだのは、私が貴女に触れたかったからです」
「本当…に?」
茶色の瞳がまばたきを繰り返す。
「ええ。私は誰とでも手を繋げるほど器用ではありません。ですが、貴女が逃げられないような状況を作って強要してしまったことを、本当に申し訳なく思っています」
やはり自分は卑怯だ。優しいサラはきっと許してくれるとわかっていてようやく言い出せる。
「謝らないでください。優しくしてくださって、わたしは本当に嬉しかったの…」
背中にまわされた手が、コハクを抱き締める。頭の芯が溶けてしまいそうなほど、気持ちがいい。
自然と腕に力が入る。
「んっ…」
サラが小さな呻き声を上げた。
コハクは慌てて体を離し、サラを抱き起こす。
「すみません。大丈夫ですか」
コハクの腕に抱かれたまま、サラは小さく頷いた。
「わたしのことも、許していただけますか?」
「許すもなにも、最初から貴女は何も悪くないです。私が貴女の前で虚勢を張っていただけですから」
「では、わたしも無理をしていましたから、同じですね」
そう言ってサラはくすくすと笑う。
どうやら、我々は無事に「仲直り」できたようだ。
指先で頬に触れてみると、サラは気持ち良さそうに目を細めた。
…今なら、ずっと胸に秘めてきたあの願いを口にできる。
「また、名前を呼んでくださいますか」
コハクの願いに、サラは柔らかい笑みを浮かべる。
「はい、コハクさま」
頬を染めて微笑むサラが可愛くて仕方がない。
コハクは、サラを抱き上げて自分の膝に座らせた。サラは潤んだ瞳でコハクを見つめる。
「わたしのことも、名前で呼んでください」
甘えたような口調で言われて、愛しさが増していく。コハクは小さな肩を抱き寄せて、耳元に顔を近づけた。
「サラ…」
ふたりだけに聞こえる大きさの声で囁くと、サラはぴくりと体を震わせて、コハクの胸に体を預けた。
「うれしい」
サラは消え入りそうな声で呟いた。コハクはその体を優しく抱き締める。
「貴女に話したいことがたくさんあるのです。きちんと整理をしてから必ずお話しますから、それまで待っていてくださいますか?」
「はい。いつまでもお待ちします」
心の奥の黒い塊が溶けていく。
「ようやくわかりました。私は貴女に必要とされたいのではなく、私が貴女を必要としているのです」
「コハクさま…」
視線が甘く絡み合い、引き寄せられるように唇が重なった。小さくて柔らかいサラの唇からは、甘い紅茶の香りがした。




