誰のための優しさ2
「宰相さま。こちらにお越しいただけますか」
振り返ったサラがコハクを呼んだ。
コハクは胸の気持ち悪さを抱えたまま、サラの元に向かう。動揺を悟られないように、大きく深呼吸をしてから隣に座った。
サラはコハクを一瞥することもなく、手のひらに乗せた魔道具を凝視していた。
「こちらをご覧下さい」
指差された所を見ると、結晶の一部が赤く変色している。
「それから、ここ」
次に示された場所も、一ヶ所目よりは薄いが黒く変色していた。
「最後はここです」
今度は、サラが指差す所に変化はないように見えた。コハクは首をひねる。
「申し訳ありません。私にはわかりかねます」
「そうですよね。すごく色が薄いから」
「貴女にはわかるのですか?」
「わたしは魔法で調べています。宰相さまにおわかりいただけるように、何か方法は…」
彼女は、なんとしてもコハクに色の変化を見せたいようだ。結晶の角度を変えてみたり、顔に近づけたり離したりと試行錯誤を繰り返した。眉間にしわを寄せてあれこれ考えているサラは、薬草の店で見た研究者のような姿を思い出させる。
目が合うことはないが、どうやら作業に没頭するあまり、ずっと他人行儀に接してきたことを忘れているようだ。
コハクはサラの本質が変わっていないことを嬉しく思うのと同時に、どうしようもなく寂しくなってきた。
そして、サラが白い紙を背後に置いたとき、ようやくコハクにも色の変化がわかった。
「見えました。うっすらと黒くなっていますね」
「はいっ」
サラは安心したように頷いた。
「三ヶ所に変化があるので、結界は三回攻撃を受けています。黒い色は物理的な攻撃を、赤は魔法で攻撃されたことを示します。色の濃さは攻撃の強さを表しています」
「物理的な攻撃は、城の周りで見つかった生き物によるものでしょう。この結界の強度を試したのでしょうか。次は別の手段をとるかもしれませんね」
「では、結晶を浄化して、魔力を多めに注入しておきます」
サラは鞄から杖を取り出すと、先についた薄紫色の部分を結晶にあてて目を閉じた。青白い光がサラを包み込み、杖を伝って結晶に流れ込む。色が変化した部分からは煙のようなものが吹き出し、結晶は元の透明な状態に戻った。
サラが魔法を使う姿は相変わらず神秘的で、胸が締め付けられるように苦しくなる。
サラは魔道具を祠に戻し、すぐ隣にいるコハクを見て微笑んだ。
「終わりました。これでもう大丈夫です」
目が合った直後、サラは「あっ」と小さな声を上げると、気まずそうに目を逸らした。慌てて鞄を掴み、立ち上がる。
「失礼します」
「待ってください」
コハクはサラの手首を掴んで引き寄せる。
「離してっ、離してくださいっ」
折れそうなほど細い手首を、これ以上強く掴みたくないのに、サラは必死に振り払おうとする。しかし、非力なサラがコハクに敵うわけがない。
「貴女と話がしたいのです。少しだけお時間をください」
叫ぶようにコハクが言うと、サラは抵抗するのをやめて、ゆっくりと顔を上げた。
サラは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
それでもようやく目が合ったことが嬉しくて…。
コハクは吸い込まれるようにサラの瞳を見つめてしまう。
「やっと、私を見てくださいましたね」
かすれた声で呟く。
「…申し訳、ありません」
しばらく見つめ合った後、サラはようやく口を開いた。
「わたし、宰相さまに謝らなければならないことがあるのです」
サラの瞳が涙で潤んでいる。
心当たりはない。むしろ謝ることがあるのはコハクの方なのだが。
「でも、どうお声がけすればいいのかわからないし、もう許していただけないかもしれないって思ったら、とても怖くなって」
サラの瞳から涙が一粒、こぼれ落ちた。
「目が合うのも怖くて、宰相さまのお顔を見ることができなくなって、そうしたら、無視をしているみたいになってしまって」
涙は、堰を切ったように流れ出した。
「もう、どうしたらいいかわからなくなって」
サラは泣きじゃくった。
「本当に、ごめんなさい」
ぽろぽろと涙を流しながら、サラはコハクに頭を下げる。
コハクは初めて見るサラの姿に呆然としていた。謝るべきなのは、傷つけたのはこちらなのに、なぜサラが謝っている?
「ごめんなさい、宰相さま」
泣きながらサラは謝り続ける。それは普段のしっかりした姿とは真逆の、小さな子どものような姿だった。
「わたしのこと、嫌いにならないで」
サラはしゃくりあげながら言葉を紡ぐ。
…嫌われたら、側にいられない。
コハクはその言葉にはっとした。
反射的にサラの体を抱き寄せる。
「もういいです」
コハクの腕の中でも、サラは涙を流して「ごめんなさい」と繰り返す。コハクの言葉など届いていないようだった。
「もういいですから」
強く抱き締めると、ようやくサラは謝るのをやめた。小さな肩が震えている。
初めて抱き締めたサラの体は、強く抱いたら壊れてしまいそうなほど華奢で、背中も肩もすべてが小さかった。それでもコハクは腕の力を弱めなかった。
誰もいない宿舎の裏に、サラがすすり泣く声だけが響く。
コハクはサラが落ち着くまで、ずっと抱き締めて頭を撫でていた。
「嫌われたくないのは、私も同じです」
泣き声が収まった頃合いで、そっと囁く。
サラは泣き腫らした目でコハクを見上げた。茶色の瞳が涙に濡れて、紅茶の雫のように見えた。
「宰相さまも…、ですか」
「ええ。貴女にだけは嫌われたくない」
「では、わたしは宰相さまに嫌われていないのですか?」
「そんなこと…、絶対にありえません」
「よかった…」
サラの瞳から再び涙がこぼれ落ちた。
「場所を変えましょう。私の部屋でお話ししませんか」
サラが頷いたので、コハクは自分のローブを脱いでサラに被せた。ローブはサラの頭から足首までを覆い隠す。
執務室は遠くないが、こんなにも愛おしいサラの姿を他の誰にも見せたくなかった。




