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宰相閣下の宝物  作者: 半崎ゆま
本編
31/107

悪意の前兆

 警備の兵士から連絡を受け、コハクは城の外へ向かった。


 城は深い水堀と高い塀で囲まれており、泳いで渡ることは不可能だ。敷地に入るためには城の正面にかけられている橋を渡るしかない。その橋は厳重に警備されており、許可のない者の通行を決して許さない。

 コハクは警備の兵士に顔を見せてから早足で橋を渡る。


 たどり着いたのは西側の堀の外。深く水をたたえる堀の向こうには、兵士の宿舎が見える。


「見つけたのは何時ですか?」


 コハクは傍らの兵士に尋ねた。


「今朝の巡回時です。昨晩は異常がなかったと聞いております」

「わかりました。この件は他言無用です。よろしいですね」

「承知いたしました」


 兵士は型通りの敬礼をして去っていった。


 コハクは兵士の姿が見えなくなるのを待って、足下に広げられた大きな布を取り払う。

 そこには一匹の大蛇の死体が転がっていた。

 コハクは丸太のように太い蛇の胴体を足の爪先で裏返した。腹の部分に鋭利な刃物で付けられたような傷がついている。一見ただの模様にしか見えないそれは、かつてコルテアで使われていた暗号用の楔文字だった。コハクは記憶を頼りに解読する。


「我らの祖国を再建せよ」


 それがコルテア王家の復権を指すのは明白だった。


「くだらない」


 コハクは大蛇に布を被せ軽く指を鳴らした。

 猛烈な炎が一瞬にして大蛇を包み込み、すべては灰と化す。


「滅びた国を元の通りにしたところで、再び滅びるだけだというのに…」


 強い風が吹いた。舞い上がった灰が、周囲に広がる青の森へ消えていく。

 コハクは森の奥に視線を送った。微かに人の気配を感じる。


「過ぎた時は戻らない。そんな単純なことがわからないとは愚の骨頂ですね」


 コハクは森に潜む何者かに向けて言い放った。


 返事はない。


 突風が吹いて、砂埃が舞った。砂混じりの風がコハクの周りで渦を巻く。

 これは明らかに自然の風ではない。

 コハクはローブで顔を覆って砂を防ぐ。


「王家…血筋…途絶えない」


 風の音に混じって、低い女の声が聞こえてきた。


「…皇帝は…必ず戻ってくる」


 風に乗った声が、コハクに女が耳元で囁いているような錯覚を抱かせる。 


「くだらないことはやめなさい」


 コハクは不愉快極まりない感情を、一気に吐き出した。


 風が収まった。


 しばらく様子を見てからコハクがローブを外すと、すでに森の中の気配は消えていた。


 これはただの警告か。それとも大蛇を送り込もうとして失敗したのか。

 いずれにしろ魔道具に変化があれば、サラを呼んで見てもらえば理由は明らかになる。


 右の脇腹が痛みだした。もう少し周囲を調べたいが、時間切れのようだ。

 コハクは誰にも気付かれないよう、細心の注意を払って城に戻った。



 執務室の隣にある自室に戻り、鍵をかける。

 コハクは厚いカーテンを閉め、砂埃が付いたローブと上着を脱ぎ、籠に投げ入れた。


 部屋の隅には、大きな姿見が置いてある。

 コハクは痛む脇腹を押さえながら鏡の前に立った。薄暗い部屋を背景に、白い上半身が写し出される。押さえていた手を外すと、そこには血のように赤い模様があった。

 薔薇の花に複雑な記号が絡み合ったようなその模様は、焼けつくように熱く、不規則にえぐるような痛みをもたらしていた。


 コハクは水差しから器に水を注ぐと、一気に飲み干した。

 そのまま寝台に仰向けになり、ひたすら痛みが引くのを待つ。

 今日の仕事は午後からで、城下町を視察するアレクに随行することになっている。それまでに痛みは治まっているだろうし、蛇の件はその時に報告すればよいだろう。


 コハクは天井を見ながら考える。


 今日の蛇の死骸はコルテアの残党からの宣戦布告だ。

 しかもあの暗号文字は王家に近い者しか知らないものだった。それは今までの雑魚達とは違い、王家に近い人間が関わっているという証拠でもある。


「皇帝は戻ってくる…」


 その資格を有する者がどこにいるのか、彼らは完全に把握しているようだ。


 コハクは目を閉じる。

 居場所を知っているのはごく少数の人間だけだ。彼らが裏切るとは思えない。しかし、先程の声には聞き覚えがあった。

 記憶力の良いコハクは、一度見た物や読んだ物の内容はすべて覚えている。ところが、あの声の主だけはどうしても思い出すことができない。風の音が混ざったからかもしれない。


 周囲の人間をすべて疑うしかないだろう。城の兵士、女中、その他の城で働く人々、城に出入りする人々、それから…。


 コハクの脳裏にサラの姿が浮かんだ。彼女が彼らの仲間である可能性をアレクが口にしていた。


 脇腹の押し潰されるような痛みに、コハクは唇を噛む。


 彼女は絶対に違う。

 …いや、違うと思いたい。疑いたくないのだ。

 そもそも、自分がサラの声を聞き間違えるはずはないではないか。


 コハクは自身の汗ばんだ手のひらを見つめた。

 強く握ったら折れてしまいそうなほど細い指先、赤く染まった頬、そこに落ちる長いまつげが作る影。今でも鮮明に覚えている。


 城で見かけた日を除けば、最後に会ってからは二週間以上が経過している。ヒスイの話では、彼女は十日後に城に来ることになっている。今度は会ってくれるだろうか。


 コハクは額の脂汗を手首で拭った。脇腹の痛みは少しずつ引いてきたようだ。


 胸が痛い。


 赤い模様からは離れているのに、なぜこんなに痛いのだろう。

 見栄を張ってこんな思いをするのなら、聖水を受け取りに行く役目を妹に頼まなければよかった。でも、会いに行って本当に拒否されてしまったら…。


 コハクは冷静さを失っている自分にうんざりした。


 それでもコハクは目を閉じてサラを想う。


 あと十日は長すぎる。


「会いたい…」


 思わず本音がこぼれた。

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