妹の心配
「ばっかじゃないの」
執務室にヒスイの声が響いた。
「せっかく二人で帰る機会があったのに、何もしないで帰ってきたなんて信じられない。兄様の意気地無し」
「私には必要のないことです」
「せめて次の約束くらい取り付けてきなさいよ」
「何を約束するというのですか」
「だーかーらー、次に会う約束よ」
「まぁまぁヒスイ様、落ち着いてください」
セシルになだめられたヒスイは渋々席に着くと、ふてくされた顔で焼き菓子を食べて紅茶を飲む。
「…うん、美味しい」
ヒスイが食べている菓子は、先日サラと出掛けたときに買ったものだ。彼女にはサラを教会まで送ったという話しかしていない。街に行ったこと、ましてや調子に乗って手まで握ってしまったことを話したら、何を言われるか考えただけで恐ろしい。
「私は、彼女が早く聖都の暮らしと司祭の立場に慣れるよう、手助けができればと思っています。もちろん、頼られたいという気持ちはありますが、それを彼女に強要する気はありません」
「兄様はそれでいいの?」
「彼女が幸せになるのなら、それでいいのです」
それは自分に言い聞かせるような言い方だった。
コハクは机の上に大きな地図を広げた。
サラの当面の目標は、一人前の司祭になるということだ。そのために慣れない土地で懸命に努力している。その足枷にはなりたくないし、弱味につけこむようなこともしたくない。
だからコハクは彼女を支えていく立場になろうと思った。それは男女の関係である必要はない。
見返りは求めない。でも、時々でいいからあのかわいらしい笑顔を見ることができれば、きっとコハクの心は満たされるはずだ。
ただ、いつか彼女が自信を持って司祭と名乗れるようになったとき、一番近くにいるのは自分であってほしい、そんなささやかな願いを胸に抱くことくらいは許されるだろう。
これが、あの日の帰り道に出した結論だった。
コハクは赤い筆記具を取り出した。
「では、報告をはじめましょう」
ヒスイは不服そうに、セシルはいつもと変わらぬ様子で、それぞれが調査した結果を報告しあった。しかし、新しい情報は一つもなく、コルテアの残党は何の動きも見せていないようだった。
「かえって不気味ね」
ヒスイが言った。あの気味の悪い虫の死骸も、新しいものは見つかっていないという。
「警備は強化したけど、正直完全に防げているかはわからないわ。サラさんの言ってた暗示をかけられた刺客ってのを送られたら見つけようがないもの」
「あれは、現実的ではない可能性の一つです。今のところ気にする必要はありません」
「…兄様、何か隠してるでしょ」
ヒスイはコハクを睨み付けた。しかしコハクは動じない。
「はい。ですが、まだ話せません」
コハクは表情を変えずに答える。
「確固たる証拠を掴んだら、お話ししますよ」
ヒスイは唇を噛んで睨み続けていたが、やがて諦めたように小さくため息をついた。
「もういいわ。兄様のことは信用してるもの」
「ありがとうございます」
ヒスイは赤い唇を歪め、髪をかきあげた。
「私達は城内と城周辺の警戒を続けるわ。街はどうするの?」
「向こうは我々が動き出したことに完全に気づいています。巡回する兵士を増やして目立つ動きを封じましょう。そして、どういった動きに出るか様子を見ます」
「兵士にはどう伝えればいい?」
「城下に不穏な連中が集っているので警戒を強化する、と」
「わかったわ。それなら不自然ではないわね」
コハクは立ち上がり、窓から見える城下町に思いを馳せる。
十年前の前国王の早すぎる逝去。それは同時に新国王の早すぎる即位を意味していた。
アレクは混乱に乗じて王家を簒奪しようとする一部の貴族に命を狙われ、コハクは謀略をめぐらせて罠に嵌めた犯人たちを次々に粛清または追放していった。
そうして十年が過ぎ、成長したアレクの治める国はようやく落ち着きを取り戻した。
しかし、あの時権力を失った貴族の中には、未だに王家に対する恨みが根深く残っている者がいる。彼らは街の不満分子を集めては、一矢報いようと画策する。コハクは街に諜報員を放ち、それらを見つけ次第叩き潰していた。
そのような連中と手を組まれたら厄介だ。アレクに万が一の事があれば、この国の王家の血筋は途絶えてしまう。奴等の目的から考えると、今回の狙いはアレクではないと思うのだが…。
コルテアの皇位継承権をもつ者の居場所は、いずれ知られるとは思っていた。問題は、誰がそれを確認したかということだ。
他に生き延びた皇族がいるとしたら…。
「兄様、そろそろ行くわ」
ヒスイが立ち上がった。
「あの…。一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
黙って兄妹のやり取りを聞いていたセシルが手を挙げた。コハクは目で了承の意を伝える。
「先日、騎士団の詰所で司祭様を見かけた兵士達がおりまして、紹介してほしいと言われているのですが、いかがいたし」
「断ってください」
最後まで聞くことなくコハクは即答する。ヒスイは声を上げて笑った。
「兄様、時間は有限よ。もたもたしているうちに誰かに取られても知らないからね」
「…余計なお世話です」
そんなこと、言われなくてもわかっている。わからないのは自分の本心だけだ。




