悩める宰相
馬車は城の外堀にかかった橋を抜け、深い森に入っていった。
もちろん乗り合いの馬車ではなく、コハクが手配したのは、貴族や要人が非公式に出かけるための馬車だった。外見は質素な普通の馬車だが、内側は豪華な作りになっている。
隣に座っているサラは、落ち着かない様子で窓の外を見ていた。もしかしたら目を合わせないようにしているのかもしれない。
その頬は少しやつれているように見えた。
あの後、雨はいつまでも降り続き、残りの魔道具の設置は諦めざるを得なかった。サラは傘を持って迎えに来た見習いの少女に付き添われて帰っていった。
「また、すぐに伺います」
青白い顔に浮かんだ弱々しい微笑みが、やけに印象的だった。
その夜、コハクはいつもより早く床についたのだが、体が熱くてなかなか寝付くことができなかった。
目を閉じると雨に濡れたサラの姿が浮かんでくる。しっとりと濡れた髪と冷えた頬を思い出して、彼女の方こそ風邪をひいてしまわないかと心配になった。
あまりにも眠れないのでサラに貰った紅茶を飲んでみたが、明け方まで効果は表れなかった。それでも風邪をひくことがなかったのは、やはり魔法をかけた紅茶のおかげだろうか。
サラが熱を出して来られなくなったと連絡があったのは、その日の昼頃だった。
それから一週間が過ぎた今日、サラはようやく登城し、残りの魔道具を交換した。その帰路につく馬車の中で、コハクは落ち着かない時間を過ごしていた。
「あの…」
小さな声が聞こえた。
「本当に一人で帰れますから…」
馬車乗り場でのやり取りと同じ言葉をサラは繰り返した。
「ご迷惑ですか?」
「そうではありません。ただ、宰相さまはとてもお忙しいのに、わたしのためにお時間をさいていただくなんて申し訳なくて…」
「それならお気になさらないでください。ちょうど妹に頼まれている買い物があるのです。そのついでだと思っていただければ」
半分は本当で、半分は嘘だった。
今回の登城から、万が一に備えて帰路はコハクが送ることになっていた。怖がらせてはいけないので訳は話さなかったのだが、まさか断られるとは思わなかった。念のため、とヒスイが提案した本気とも冗談とも区別がつかない言い訳を利用するはめになるは…。
サラは黙ってコハクの顔を見つめていたが、やがて観念したかのように頷いた。
「宰相さまは、誘うのがお上手ですね」
顔を上げたサラは、柔らかい笑みを浮かべていた。本当に嫌がられてはいないようで、コハクは胸を撫で下ろす。
「宰相さま、お願いがあるのですが」
穏やかな表情のままで、サラが切り出した。
「私にできることでしたら」
「わたしのことは、公式な場所以外では、名前で呼んでくださいませんか」
一瞬、何を言っているのか理解が追いつかなかった。
「ファティマ司祭、ではなく?」
「はい。サラとお呼びください」
「よろしいのですか」
なぜか声が上ずった。
「わたしは、まだ任命式を済ませていませんし、宰相さまに呼んでいただけるような、一人前の司祭ではありませんから」
「…ああ、そういう意味で」
少し落胆したことは、顔に出なかっただろうか。
「わかりました」
答えながら外を見ると、馬車は教会と街への分岐にさしかかるところだった。
サラは嬉しそうに微笑んでいる。
もう少しだけ、話がしたいと思った。
「私からも一つお願いがあります」
「何でしょうか」
「これから、私と街に行ってくださいませんか」
「え?」
驚いたサラの声で、自分があり得ない提案をしてしまったことに気が付いた。
でも、あの分岐では街に向かうしかなかったのだ。何か考えなければ。何か理由は…。
「…まだ明るいですし、お疲れでなければ妹に頼まれた買い物に一緒に来ていただけると助かります。若い女性の店に一人で入るのは勇気がいりまして…」
「そういう事情でしたら、お供させていただきます」
これも半分は本当だ。コハクの苦し紛れの言い訳をサラは嫌な顔ひとつせずに了承してくれた。
優しいサラが断れないような状況を作った自分は、なんて卑怯な男なのだろう。
馬車は森を抜け、街道を走っていた。
サラは物珍しそうに外の景色を見ている。
街が近づいてきた。
勢いで街に誘ってしまったが、頼まれた店の後はどこに行けばいいのだろう。いつものコハクなら、どんな場合でも事前に綿密な計画を立ててから行動に移すのに、サラのことになると自分でも予測できない行動をとってしまう。
馬車は町外れの停車場に停まった。ここからは歩いて目的地へ向かわなければならない。
コハクは外套を頭から被り、細い黒縁の眼鏡をかけた。
その姿をサラが不思議そうに見上げている。
「私だと気付かれると色々と面倒なのですよ」
「ああ、そうですよね…」
暗殺者などは返り討ちにすればよい。それよりも面倒なのは街の女性達だ。少し前にも陛下のお使い中に見つかって大騒ぎになってしまった。
「ですから、ここでは私のことも名前で呼んでください」
当然の提案をしたのに、サラはすごい早さで首を振る。
「そんな、わたしなんかが名前をお呼びするなんて」
「ヒスイは大丈夫なのに?」
「それは…、ヒスイさまがそう仰ったから…」
「私は駄目ですか」
「そうではありませんが、でも…」
少し意地悪な言い方をしてしまった。
サラは耳まで真っ赤にしてコハクを見上げた。コハクはできるだけ冷静を装って見つめ返す。どうしてそんなに恥じらうのかが不思議だった。
桜色の小さな唇が震えている。潤んだ瞳がまばたきを繰り返す。
しばらくして、サラはようやく口を開いた。
「…コハクさま…」
その声を聞いた瞬間、悩んでいた気持ちが吹き飛んだ。
同情だとか、自分の幸せなどはどうでもいい。この少女が喜んでくれること、笑顔になってくれることがしたい。
コハクは自分に素直になることに決めた。
「名前で呼ばれるのって案外嬉しいものですね」
コハクはサラの手を取った。サラは弾かれたように顔を上げた。
「はぐれないように」
これも、半分は本当のこと。嘘はついていない。
指先に力を入れると、サラは頬を染めてそっと握り返してくれた。
「まずは妹に頼まれた買い物に付き合っていただけますか?」
「はい。喜んで」
ヒスイからは街で流行っている菓子を買ってくるように言われている。まずはこの用事を片付けないと、本当に命が危ない。
目指す店は大通りにある。ここからはそんなに遠くはない。用事を済ませてもまだ時間はあるはずだ。
サラが喜びそうな場所はどこだろう。コハクは城下町の地図を思い浮かべた。




