雨やどり
部屋を出ると、コハクはまた宰相の顔に戻っていた。金色の髪をなびかせて歩くコハクは、陶器の人形のように涼しい顔をしていて、彼がローブの下に複数の魔道具を隠し持っているとは誰も思わないだろう。
サラは目立たないようにコハクの後ろを歩いていた。意識しなくても、どうしてもコハクの左手を見つめてしまう。
…大きくて温かい手だった。
触れられただけで恐怖がすべて消え去り、何があっても助けてもらえるという安心感が広がった。
当然、そんなものはサラの勘違いだとわかっている。それでも本当に嬉しかったし、また手を繋ぎたいとさえ思ってしまった。
しかし、そんな望みが分不相応なものであることはわかっている。
だから、芽生えかけた感情は胸の奥にしまっておこう。
雲の上の人たちとは、立っている場所が違うのだから…。
「空模様が怪しくなってきましたね」
一つ目の祠の前で、コハクが言った。
教会を出るときには雲一つない青空だったのに、今は厚い灰色の雲に覆われていた。
「急いで終わらせます」
今回は古い魔道具を新しいものと交換するだけだから、さほど時間はかからないし、魔力も必要としない。手早く作業をすれば、雨が降りだす前にすべて終わらせることができるだろう。
すぐに作業は終わり、急いで二つ目の祠へ向かう。
一度城内に戻り、長い廊下でコハクの後を追いかけていると、初めて城に来た日のことを思い出した。今の状況はあのときと酷似しているが、一つだけ異なる点がある。
それは、コハクが何度も振り返ってサラの様子を気にかけてくれること。嬉しい半面、気を使わせて申し訳ないな、と思う。
人通りの多い通路に出た瞬間、彼の雰囲気が変わったような気がした。
コハクの存在に気付いた人々は、端に寄って道をあける。彼が面前を通ると、兵士たちは姿勢を正して敬礼し、女性たちは優雅に礼をする。そこにあるのは、尊敬と畏怖、憧れといった複雑な感情。
それらをすべて打ち消すような静かな足取りで、コハクは悠然と歩いていく。
誰も近づいてはならない。
身体中で主張しているようで、サラは思わず立ち止まってしまった。
「どうしましたか?」
「いいえ、何でもありません」
コハクが振り向いたので、サラは慌てて後を追う。
道をあけていた人々がサラを怪訝な目で見ている。この小娘は何者だろう。そう思っているに違いない。まるで値踏みされているようで、いたたまれない気持ちになった。
「誰も貴女が司祭だと知らないからですよ」
二個目の祠の前で、コハクが言った。サラの居心地の悪さを察していたのだろう。
「さしずめ、新しい女中を案内しているようにでも見えたのでしょう」
「…そうですね」
「私は無駄に目立ちますからね。急いでいたので仕方なくあの通路を通ったのですが、次は遠回りでも人通りが少ない道を選びます」
「お気遣いいただいて申し訳ありません」
人々は、新しい司祭が来たことは噂として聞いているが、サラの顔までは知らない。サラが司祭として最初に人前に出るのは、夏の終わりにある星祭りという儀式の場だ。それまでにもっと司祭らしくならなければならない。
でも、司祭らしくなるって、どういうことだろう…。
せめて青い神官服を着ていれば、サラが仕事で来ているとわかるだろが、それでは隠れて魔道具を設置する意味が半減してしまう。
見上げると、先程よりも黒い雲が増えていた。
三つ目の祠に向かうため、コハクの後を追って厩舎の間を通り抜ける。コハクは城内には戻らず、あえて城の外周を通ることを選択したようだ。雨が近いからか、馬はすでに建物内に繋がれていて、世話をする人の姿はまばらだった。
また、気を使わせてしまった。
周囲の視線など気にしなければいいのに、それができない自分が情けない。
ぼんやりと考え事をしていたサラは、建物の角を曲がってすぐのところに立っていた女性に気付かずに、正面からぶつかってしまった。
「ごめんなさい、わたし、考え事をしていて…」
「いいえ。こちらこそ、よそ見をしていました」
サラが謝ると、女性は自分が悪いわけでもないのに頭を下げた。
「お二人とも、お怪我はありませんか」
コハクの問いかけに女性は微笑んで頷く。赤い口紅と、口元の黒子が印象的な、きれいな人だった。
その人は、髪をきれいに結い上げて、襟や袖に白い飾りがついた黒いドレスのような服を着ていた。城で見かける他の女性たちも同じような服を着ていたので、これが支給された作業服なのだろう。
女性は一礼して立ち去った。
サラは自分のドレスの裾を摘まんでみた。
ステイシアから持ってきた若草色のドレスは、魔法学校に入学したときに仕立てたものだ。サラにしては上等な服なのだが、あの作業服よりも地味であることは確かだ。
怪しまれても仕方がないな、と思う。
「大丈夫ですか?」
コハクの声にサラは顔を上げる。
「はい、わたしの不注意です」
「狭い通路でしたから、私もお声がけすればよかったのです。それにしても、なぜあんなところに女中が…」
コハクは口元に手をあてて考えるそぶりを見せた。その物憂げな姿は絵のように美しい。よほど自分に自信がある女性でなければ、彼の隣に立つことは難しいだろう。
サラは胸の奥にしまった感情にそっと鍵をかける。
ぽつり。
頬に水滴が落ちた。
「雨が…」
コハクも気付いたようだ。
「あちらの建物まで行きましょう」
ひさしのない厩舎の間を走って、屋根のある建物に向かう。雨は勢いを増して、すぐに本降りになった。軒下までたいした距離ではなかったのに、髪も服もかなり濡れてしまった。
「思っていたよりも早く降ってしまいましたね」
額の水滴を手の甲で拭いながら、コハクが言った。金色の髪についた雨粒が、水晶のように輝いている。
なんてきれいなんだろう…。
サラは濡れた髪を拭くことも忘れて、思わず見とれてしまった。
…ぽたり、ぽたり。
毛先から落ちた水滴が、手巾を持ったままの腕に落ちる。
小さなくしゃみが出た。
コハクは驚いたような顔でサラを見下ろした。長い腕がゆっくりと伸びてきて、サラの手から手巾を取り上げる。
「このままでは、風邪をひいてしまいますよ」
低い声で囁きながら、コハクはサラの髪を拭いていく。時折触れるコハクの手が暖かくて気持ち良くて、サラはぼんやりと立ち尽くしてしまう。
また、小さなくしゃみが出た。
その直後、コハクは「あっ」と小さな声を上げると、自分の着ていたローブを脱いでサラの肩にかけた。ローブに残っているコハクの体温が、サラの体をゆっくりと暖めていく。
「はじめからこうしていればよかったですね」
コハクが呟いた。サラはどう答えていいかわからなくて返事ができない。
それを否定と肯定、どちらと捉えたのか、コハクは困ったような顔で笑った。
「気が効かなくて申し訳ありません」
「そんなことありません」
今度はすぐに否定できた。それでもコハクは浮かない顔で首を振る。
「事実ですから。それに、貴女には先程のことも謝らなければなりません」
「何のことでしょうか」
「貴女の了承を得ずに手を握ってしまったことです」
「あっ、あれは…」
サラは右手に視線を移した。ローブに隠れていたし、彼がどのように触れていたかは見えなかった。でも…。
「わたしは…、嬉しかったです」
コハクの目が見開かれた。
「わたしのことを気にかけてくださったのですから」
「…はい」
「急なことで驚きましたが、本当に、嬉しかった…」
最後は恥ずかしくて言葉にならなかった。うまく伝わっただろうか。サラは下を向いたまま、コハクの反応を待った。
「貴女に不快な思いをさせてしまったかと心配していました」
「それは、絶対にありません…」
「良かった…」
コハクの声が雨音に紛れて消えた。彼は今どんな顔をしているのだろう。それを見る勇気は、サラにはない。
体は冷えているのに、胸のあたりだけがふわふわと暖かかくなった。




