ここにいる理由
目を覚ますと、そこは見たことのない部屋だった。
大きな一枚板の机の向こうには天井まで続く棚があり、本がきれいに並べられている。一見、アレクの執務室と似ているが、こちらの方が圧倒的に物が少なかった。
サラは体を起こした。
体にかけられていた布を畳もうとして、手の傷が治っていることに気が付く。サラは指先で頬に触れ、顔の傷も消えていることを確認した。
アレクの執務室で倒れたことは、なんとなく覚えている。出血が多かったことと、思っていたよりも魔力を消費していたことが原因だろう。そして、気を失っている間に誰かが治癒魔法をかけてくれたのだ。
「また失敗か…」
自然と声が出た。未知の魔法であったし、石が壊れるように仕組まれていたのは仕方がなかったとしても、もう少し慎重に魔力を注いでいればあんなに派手に砕けることはなかった。アレクやコハクに怪我がなくて本当に良かった。
悪意のある魔法に直接触れたのは初めてだった。
サラが習ってきた魔法には、あのように他人を傷つけることだけを目的としたものはひとつもなかった。もちろん、どんな魔法も使い方次第だが、ステイシアでは魔法は人の役に立つために使うものだと繰り返し教えられた。攻撃魔法の使い方は、兵士のようにそれを必要とする職業に就いて、はじめて学習するものだったのだ。
しかし、これからは人の闇の部分から生まれた魔法についても知らなければならないだろう。
知れば対処ができる。それがやがて自分や周囲の人々を守ることに繋がっていくはずだ。
サラはため息をついた。
それにしても、あの黒曜石からはものすごい執念を感じた。コハクは心当たりがあるようだが、国王や宰相というのは普段からあのような禍々しいものと関わっているのだろうか。そして、自分もそこに加わっていくのだろうか。
サラは小さく身震いをした。
突然、背後で扉が開く音がした。振り向くと、水差しの乗った盆を持ったコハクが立っていた。サラに向けられる貼り付いたような笑みは相変わらず美しかった。
「気が付かれましたね」
「ここはどこですか?」
「私の執務室です」
コハクは水を注いだ器をサラに手渡した。少し口に含むと、水は思っていたよりも冷たかった。渇いた喉が潤っていく。
「騎士団の治癒師が治療したのですが、具合はいかがでしょうか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
サラは空になった器を返す。コハクはうっすらと微笑んだが、その目は少しも笑っていなかった。
迷惑なのだろうな、と思った。
「あの、陛下のお部屋は…」
「ご心配なく。すでに片付けてあります」
「…申し訳ありません」
「謝る必要はありません。それよりも、ファティマ司祭」
コハクの顔から笑みが消えた。
「私達をかばって怪我をされましたね」
「えっ」
「私達の前に壁を作ったから、自分の防御ができなかった。違いますか」
「…いいえ。仰る通りです」
口調は穏やかだが、感情のない顔が逆に怖かった。サラは膝にのせた布をきつく握りしめる。
「私も陛下も、自分の身は自分で守れます。貴女に守っていただく必要はありません」
コハクは抑揚のない声で言った。その目は恐ろしく冷ややかで、サラは何も答えられなくなった。
ずっと国の中心にいる人たちだ。自分を守る術を知っていて当然かもしれない。でも、コハクの言っていることは、あまりに理不尽だ。自分はそんな事は知らなかったのだから。
サラは悔しくて下を向いた。涙がこぼれるのを必死で我慢する。
長い沈黙の時間が流れた。
「少し言い過ぎました」
コハクは立ち上がった。
「私は貴女が目を覚ましたことを、陛下にご報告しなければなりません。もう少しここで休んでいてください」
サラは返事ができなかった。足音が遠ざかり、扉が閉まる音がして、ようやく息ができるようになった。
目眩がする。サラは再びソファーに横になった。
「どうすればよかったの…」
何が正解かわからない。はじめての経験だった。
つい先月まで、サラは魔法学校に通う普通の学生だった。普通と言っても、魔力を持つ人間は世の中にそんなに多くは存在しない。遺伝的な要素が強いらしいが、両親の記憶がないサラには親が魔法を使えたかどうかはわからない。
ステイシアでは、ある程度の魔力があると認められた者は年齢を問わず魔法学校に強制的に入学させられる。そこで五年をかけて正しい魔法の制御の仕方を身に付けて社会に戻される。
サラは十歳のとき、孤児院で大怪我をした男の子を助けようとして、魔法の力が覚醒した。その後の検査で強い魔力を持っていることがわかり、魔法学校に推薦された。学費や生活費はすべて国が負担してくれると聞いて、サラは喜んで入学した。勉強は楽しかったし、覚えた分だけ新しい魔法が使えるようになるのも嬉しかった。
卒業まで、あとわずかだった。たくさんの魔法を使いこなせるようになって、孤児院に戻って恩返しがしたい、そう思っていた。
それなのに…
「わたしはなぜ、ここにいるのでしょう」
その問いに答えるものは誰もいない。
あの夜、サラの枕元に現れた赤い光。サラの人生はそこから大きく変わってしまった。あの方は「きっと幸せになれる」と言っていたが、信じていいのだろうか。
司祭として人の役に立ちたいという気持ちに偽りはないし、そのための努力だって全然苦ではない。しかし、聖都に来てからは、うまくいかないことだらけだ。自分なりに頑張っているつもりだが、今日に至ってはコハクに迷惑をかけるどころか完全に怒らせてしまった。
悔しくて涙があふれてきた。こらえきれない嗚咽が漏れる。
「帰りたい…」
聖都に来て、はじめて口にした言葉だった。




