第四話 氾濫する第二幕
着地は、着地ではなかった。
身体がどこかへ投げ出され、次の瞬間にはもう別の重力に拾われている。
足元はアスファルトだった。
だが雨が降っている。
しかも右半分だけだ。左側は乾いた夕暮れの光に照らされ、もっと左では雪が舞っていた。
俺は膝をつき、吐きそうになる呼吸を押し戻した。
見上げる。
都市だった。
ただし、都市として成立してはいない。
高架道路の下に港があり、その港の向こうに大学病院の白い棟が立ち、その屋上を暴徒が走っている。
横断歩道の先では結婚式場の車寄せが火を噴き、さらにその先で古い商店街の七夕飾りが風もないのに揺れている。
看板の文字は場所ごとに違う時代の字体で、信号機は青のまま点滅し、空には夜明けと夕焼けと雷雲が同時に浮かんでいた。
全部が途中だった。
誰かが逃げている途中。
誰かが告白しかけている途中。
誰かが裏切られた直後。
誰かが死ぬ三分前。
誰かが引き返せなくなったあとの顔。
始まりがなく、終わりもない。
ただ「もうすでに何かが起きてしまった」密度だけが、街全体に充満している。
「……これが、第二幕か」
俺が呟くと、すぐそばで有栖零が起き上がった。
「ううん」
彼女は顔色の悪いまま立ち上がる。
「第二幕が壊れて、あふれてる状態」
その言い方のほうが、むしろ悪かった。
数メートル先で、真舟澪も着地していた。
ひとりだ。固定院の部下たちの姿は見えない。彼女のコートは肩口が裂け、右の頬に血が一筋走っている。
それでも立ち上がる動作には無駄がない。
真舟は一瞬で状況を把握した目をして、こちらを見た。
「最悪だ」
第一声がそれだった。
「同感」
俺が返す。
「あなたのせいよ」
有栖零が言う。
「半分くらいは認める」
「半分で済むと思ってる時点で甘い」
真舟はそれには答えず、周囲を素早く見回した。
彼女の目つきがさっきまでと違う。
監査執行官の顔ではない。
自分もまた場に巻き込まれた実務者の顔だ。
「聞いて」
真舟が低く言った。
「ここでは、説明より先に規則だけ共有する。
一つ。誰かに名前を呼ばれても、すぐに返事をしない。
二つ。理由のわからない罪悪感に従わない。
三つ。“間に合った”“遅かった”“約束した”という言葉には特に気をつける」
「何だそれは」
「第二幕の典型台詞。
応答すると役に固定される」
その直後だった。
交差点の向こうから、若い女が走ってきた。
白いブラウス。濡れた髪。
どこにでもいそうな会社員の顔だが、その顔には今この瞬間の誰かに会うために生まれてきたみたいな切迫があった。
彼女は、一直線に俺を見た。
「榊くん!」
心臓が跳ねる。
知らない顔だ。
なのに、その呼び方には微妙な親しさが混じっている。会社の後輩にも、大学時代の知り合いにも聞こえる、曖昧に親密な声。
「やっと来てくれた……! 私、もうどうしたらいいか――」
「答えるな」
真舟が鋭く言う。
俺は口を閉じた。
女は俺の沈黙を一瞬だけ見つめ、それから表情を変えた。
失望でも怒りでもない。
この場面ではこちらが相手役ではなかったと理解した顔だった。
女は視線を少し横へずらす。
背後の瓦礫を乗り越えて走ってきた黒服の男――真舟の部下の一人が、反射的に叫ぶ。
「君、危ない! こっちへ!」
それで終わりだった。
女の顔がぱっと明るくなる。
「来てくれたんだ……!」
次の瞬間、男の輪郭がぶれた。
黒い戦術装備がスーツへ変わる。ヘルメットが濡れた前髪になり、肩章が通勤鞄のストラップへ変わる。
男は驚いた顔をしたまま、女へ手を伸ばす。
そして二人の周囲だけ、雨の質が変わった。
都会の通り雨から、もっと古い恋愛ドラマの雨へ。
「まずい」
真舟が短く吐き捨てる。
女と男の背後で、突然大型トラックが横転した。
いや、横転すべきタイミングへ話が接続されたのだ。
女が悲鳴を上げる。男が彼女を庇う。ガラスが飛ぶ。
その三秒間だけ、あの一角は完全にべつの物語へ固定された。
「助けられないのか」
俺が言う。
「今は無理」
真舟の声には硬い諦めがある。
「もう“彼”じゃない。あの場面の、必要な男になった」
俺は歯を食いしばった。
胸糞が悪い。
だが、この場所では胸糞の悪さすら役割の呼び水になりかねない。
「行くよ」
有栖零が俺の袖を引く。
「長く止まると、街のほうがこっちに筋を貼ってくる」
「行き先は」
真舟が先に答えた。
「幕間塔。
第二幕の流量を一時的に落とす中継塔がある。そこまで行けば、最低限の会話はできる」
「固定院の施設か」
「今はそんな区分に意味がない」
たしかにそうだった。
ここでは、制度も敵味方も、全部「途中で何かを続けている顔」をしている。
俺たちは走り出した。
*
都市は、走るほどおかしくなった。
片側では火災、片側では卒業式、頭上では戦闘ヘリ、地上ではベビーカーを押す老人。
無関係なはずの場面が、すべて「これからもっと大きなことが起きる」熱だけで接続されている。
暴徒の投げた瓶が、途中で花束に変わる。
教会の鐘が、空襲警報のリズムで鳴る。
見知らぬ男が路地裏から飛び出し、俺の胸ぐらを掴んだ。
「お前、なんで今さら戻ってきた」
目が血走っている。
顔に見覚えはない。
だが彼の問いには、俺が答えてしまいたくなる種類の責任が込められていた。
「離せ」
「戻るならもっと早く――」
次の瞬間、有栖零が男の手首を捻り、足を払った。
男は倒れ、コンクリートにぶつかった途端、別の誰かの輪郭へ変わる。中年だった顔が若い女の横顔になり、そのまま路面へ溶けるように消えた。
「言ったでしょ」
有栖零が息を切らしながら言う。
「理由のわからない罪悪感に従っちゃ駄目」
俺は舌打ちした。
「お前は慣れすぎてる」
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
前方の高架が崩れる。
いや、崩壊そのものより、崩壊を目撃するべき登場人物たちがそこへ集められていく感じがあった。
真舟が左へ切る。
「こっち!」
彼女の判断は正確だった。
直後、高架の崩落に巻き込まれるはずだった通行人たちが、こちらを素通りして別の横断歩道へ吸い寄せられていく。
この街では、人も瓦礫も感情も、すべてが「もっとも劇的な位置」へ勝手に再配置される。
「第二幕って、こんなに雑なのか」
俺が言うと、真舟が走りながら答える。
「雑なんじゃない。
中盤は、人間がいちばん自分を物語だと信じる区間なの。
だから一番、感染しやすい」
その言い方に、俺は少しだけ驚いた。
真舟がそんな比喩を使うとは思わなかった。
「意外そうな顔をしないで」
彼女は前を見たまま言う。
「固定院にいたって、本くらい読む」
「どんな本を」
「人が壊れずに読み終えられる種類の本よ」
「最低だな」
「知ってる」
そこへ、突然銃声。
右手のアーケード上部。
三階相当のガラス回廊から、誰かがこちらを撃っている。
真舟の部下ではない。
武器の形式が古い。火薬式だ。
弾丸が標識を砕き、破片が散る。
「誰だ!」
俺が叫ぶ。
「第二幕に置いていかれた敵役」
真舟が答えた。
「主筋が崩れると、彼らも行き場を失う!」
行き場を失った敵役。
その発想はあまりにひどくて、少しだけ笑いそうになった。
だが現実に弾は飛んでくる。
俺は車の残骸へ滑り込み、位相拳銃を抜く。
ガラス回廊の向こうに、長髪の男が立っていた。古い軍服のようなコート。右目に黒い眼帯。
顔には、こちらを殺すためだけに何話もかけて成熟した憎悪がある。
だが俺はそいつを知らない。
「真舟!」
「撃ってもいい。
ああいうのは役しか残ってない!」
俺は二発撃つ。
一発はガラスを割り、もう一発は男の胸へ入る。
だが男は倒れない。胸から血ではなく、細かな紙片が噴き出し、風に散る。
そいつはゆっくりこちらを指さした。
「お前のせいで、私は終われない」
その台詞の質感でわかった。
こいつは俺個人を恨んでいるのではない。
“主人公に最後まで見届けられなかった敵役”という痛みを喋っている。
「冬真、来る!」
有栖零の声。
男が跳ぶ。
三階からだというのに、途中で落下が「必死の接近」へ書き換わる。
俺は車体の陰から出て、真正面から受けた。
ぶつかる。
重い。
体格以上に、役の濃度が重い。
男の腕が喉へ回る。近い距離で、眼帯の下の空洞が見えた。そこには目玉の代わりに、燃え残ったフィルムみたいなものが詰まっていた。
「お前は」
男が低く言う。
「どの幕でも、こちらを理解したふりだけして去る」
「知らねえよ……!」
俺は肘を入れ、距離を作る。
その隙に真舟が横から固定杭を男の肩へ打ち込んだ。
光。
一瞬だけ男の動きが止まる。
「今!」
俺は至近距離で引き金を引いた。
位相弾が男の胸を貫く。
今度は効いた。
男は後退し、道路中央へ倒れる。
倒れながら、その輪郭が何人もの敗者へ分裂する。眼帯の軍人、離婚訴訟中の元夫、革命に失敗した学生、告白できなかった先輩。
そして全部が、風に散る紙片へ戻った。
俺は荒い息を吐いた。
「……最悪の世界だな」
「いまさら?」
有栖零が言う。
だがその横顔は、少しだけ青ざめている。
「大丈夫か」
口に出してから、自分で少し驚いた。
真舟がちらりとこちらを見る。
「優しいのね」
「うるさい」
「そういう返しも、たぶん何本かでやってる」
「お前ら、ほんとに嫌なことしか言わないな」
真舟はそこで、初めてほんの少し口元を緩めた。
笑ったのかもしれない。
だがその瞬間、前方に目的地が見えた。
*
幕間塔は、街の中央に立っていた。
塔というより、巨大な照明塔と時計塔と観測所を混ぜたような構造物だ。
円筒形の本体に、無数のバルコニーと橋が巻き付き、その頂部には回転する巨大なレンズがある。
レンズは都市の各所へ光を投げていた。
その光が当たった区画だけ、ほんの数秒、騒乱の密度が落ちる。
つまりあれが、この氾濫する第二幕における最低限の幕間を作っている。
「中に入れば」
真舟が言う。
「街の流量を局所的に制御できる」
「誰が管理してる」
「本来は外環管理官」
「今は?」
「残っていれば、だけど」
塔の足元には大きな広場がある。
だが広場には、すでに別の物語が集積していた。
市民集会。
デモ。
略奪。
追悼式。
再会。
それらが全部同じ空間で起きている。
喪服の列が、バリケードを作る若者と肩を並べ、その間を花嫁が走り抜ける。
ひとつでも目を合わせれば、そこへ巻き込まれそうだった。
「正面突破は無理だな」
俺が言う。
「裏の保守用昇降路へ回る」
真舟が答える。
彼女はもう完全に“同行者”として喋っていた。
それが気持ち悪いほど自然だった。
「固定院のお嬢さんが、よくそういう抜け道を知ってる」
「固定するには、壊れたときの逃げ道も知っておく必要がある」
「嫌な職業倫理だ」
「褒め言葉として受け取る」
広場の縁を回り込む。
途中、追悼式の列から老女が一人、こちらへ手を伸ばしてきた。
「ねえ」
しわがれた声。
「この人の名前、誰か知りませんか」
老女の腕には、若い男の遺影が抱えられている。
写真の顔を見た瞬間、俺は目を逸らした。
そこにいたのは、さっき俺が撃った眼帯の男の、もっと普通の人生の顔だったからだ。
「答えないで」
有栖零が言う。
俺は頷き、足を止めずに通り過ぎた。
だが胸のどこかに、また新しい棘が刺さる。
この都市は、いちいちそれをやってくる。
*
保守用昇降路の入口は、塔の裏手にあった。
薄暗いメンテナンス通路。
階段は狭く、途中で何度も折れる。
上へ行くほど街の喧騒は遠くなるが、そのかわり、別の音が聞こえ始めた。
誰かが台本をめくる音。
遠い拍手。
咳払い。
開演前の客席みたいなざわめき。
「何の音だ」
俺が訊くと、真舟が答える。
「観測音」
「観測?」
「ええ。
第二幕が氾濫しても、まだ“読んでいるもの”がいる」
「読者?」
「そういう言い方は嫌いだけど、近い」
「誰が」
その問いに対しては、誰もすぐには答えなかった。
やがて有栖零が、階段を上りながらぽつりと言う。
「世界って、誰にも読まれてないと、長くは保てないの」
「それは比喩か?」
「半分だけ。
人間の現実って、結局どれだけ“自分の人生として読めるか”で持ってるでしょ」
「だからノヴェル・オルガヌムは“読める形へ整形する装置”だった」
俺が言うと、真舟が小さく頷いた。
「そう。
そして読手系列は、その整形のための試験体だった」
階段の踊り場で、俺は立ち止まった。
「それ、本気で言ってるのか」
「本気よ」
「じゃあ俺は何だ。
現実を一本に読むための器官か?」
「たぶん」
真舟は淡々と言う。
「それに最適化された、選定系の人間」
その言い方には悪意がない。
だからこそ腹が立つ。
「人間を部品みたいに」
「文明はずっとそうしてきた」
真舟の声に、初めて熱が入った。
「ただあなたは、それを今まで“自分だけは物語の外にいる”みたいな顔で見ていただけ。
回収局の仕事だって同じでしょう。
未採用の残響を切り、危険な分岐を処理し、読めない現実を間引く。
あなたはずっと選ぶ側にいた」
図星だった。
俺は何も返せない。
「……だからって、肯定しろって?」
「してない」
真舟は一段下で立ち止まり、こちらを見上げた。
その顔は、怒っているようにも、疲れているようにも見えた。
「私はただ、あなたがここで急に被害者みたいな顔をするのが嫌いなだけ」
数秒、沈黙。
有栖零が、小さく息を吐いた。
「二人とも、いまそれやってる場合じゃない」
その声で、上階からの振動に気づく。
誰かがいる。
真舟が手で合図する。
俺たちは足音を殺して最後の踊り場を上がった。
扉の向こうが、塔の観測室だった。
円形の部屋。
全面ガラス。
中央に大きなコンソール。
その周囲に、椅子がぐるりと並んでいる。
そして、その椅子の半分以上に、誰かが座っていた。
人間ではない。
いや、人間だったものかもしれない。
どの輪郭も薄く、姿勢だけが観客のように固定されている。
女。男。老人。子ども。制服姿。礼服。作業着。
彼らはみな、眼下の氾濫する都市を見下ろし、何も言わない。
「……何だ、これ」
俺の声が低くなる。
「観測者の残骸」
真舟が呟いた。
「読み切れなかった人たち」
「読み切れなかった?」
「現実を一本に引き受けきれず、途中で観測だけが残った個体」
ぞっとする。
人生に参加できなくなり、ただ見ていることだけが残る。
それは死より悪い。
その観測者たちの中央、コンソールの前にひとりの女が立っていた。
背筋の伸びた中年。
黒いスーツ。
白髪が少し混じった髪を後ろで束ねている。
こちらへ振り向いたその顔を見た瞬間、真舟の呼吸が止まった。
「……母さん」
女は静かに、しかし驚きもなく真舟を見る。
「澪」
声はよく通った。
柔らかいが、柔らかいこと自体が職能になっている種類の声だ。
「遅かったわね」
俺は真舟を見る。
真舟の顔から血の気が引いている。
有栖零も、少しだけ目を細めた。
「知り合いか」
俺が訊くと、真舟は答えない。
代わりに女のほうが言った。
「真舟響子。外環観測庁、元・第二幕統括官。
いまは、この塔の留守番をしています」
「元?」
女――響子は少し笑う。
「役職は、とっくに終わったの。
でも第二幕って、終わった役をなかなか帰してくれないから」
その笑い方に、真舟は唇を引き結ぶ。
「あなたは死んだはずよ」
「そういう書類になっているのでしょうね」
「……どうして、ここに」
「同じよ。
読みきれなかったの」
響子はそう言ってから、ようやく俺を見る。
その視線には、驚きより確認の色が強い。
「第七読手」
「その呼び方、嫌いなんだが」
「当然ね。
自分が器官だと知らされて喜ぶ人間はいない」
「なら本名で呼べ」
「本名はたくさんあるのでしょう?」
言い返せなかった。
響子の視線が有栖零へ移る。
その瞬間だけ、彼女の表情がほんの少し揺れた。
「零号残響」
「その呼び方も好きじゃない」
「ええ、知ってる。昔から」
「昔?」
有栖零が眉をひそめる。
響子はそれには答えず、コンソールへ手を置く。
「いいところへ来たわ。
氾濫が早すぎる。
主筋だけでなく、第三幕候補まで漏れ始めている。
このままでは“結末”の断片が流入する」
「結末が?」
俺が言う。
「それの何がまずい」
響子は観測室の窓の外を示した。
街の遠く、港と病院のあいだに、白い光が一本立ち上がっている。
それは稲妻ではない。
もっと線的で、もっと冷たい。
誰かの人生の「もうこれ以上先へ行けない一点」だけが、空間へ露出したみたいな光だ。
「あれは終景漏れ」
響子が言う。
「第二幕の都市に、先の幕が流れ込んでいる。
人間は中盤ならなんとか耐えられる。
でも、自分の結末を先に見せられると壊れるの」
その説明は妙に納得できた。
人は途中なら生きられる。
終わりだけ先に見せられると、現在の意味が全部死ぬ。
「止める方法は」
真舟が鋭く言う。
娘の顔から執行官の顔へ戻っている。
「二つ」
響子はためらいなく答えた。
「ひとつは、読手に代表痛を選ばせ、主筋を再固定すること。
つまり、従来どおりの手順」
俺は黙る。
有栖零も黙る。
それは、また同じ問いだ。
「もうひとつは」
真舟が促す。
響子は俺を見る。
まっすぐに。
「第七読手そのものを、観測席へ上げること」
部屋の空気が変わった。
「……どういう意味だ」
俺が訊く。
「読手が“選ぶ者”であることをやめるの。
器官としての役目を停止し、観測者へ退く。
そうすれば少なくとも、あなたを中心とした選定系は止まる。
ただし――」
「ただし?」
「その場合、あなたは二度と物語の内側へ戻れない」
観測室に並ぶ、半透明の人影たち。
読み切れず、ただ見ているだけの残骸。
ああなるのか。
「ふざけるな」
俺はすぐに言った。
「さっきからお前ら、俺に
選べ、
観ろ、
退け、
器官になれ、
残骸になれって、碌でもない案しか出さないな」
響子は静かに俺を見る。
「そうね。
この文明は、たぶんずっとそうだった」
その認め方は、卑怯だった。
正しい顔で押しつけられるより、ずっと逃げ場がない。
有栖零が俺のすぐ隣へ来る。
「冬真」
「何だ」
「たぶん、まだ第三のやり方がある」
真舟が顔を上げる。
響子の目も細くなる。
「今度は何」
俺が訊くと、有栖零は観測席の残骸たちを見た。
「“読むこと”と“選ぶこと”が、最初から同じだっていう前提が間違ってるのかもしれない」
誰もすぐには反応しなかった。
有栖零は続ける。
「ノヴェル・オルガヌムは、読める形へ現実を整えるための装置だった。
でも、読めるって、一本にすることだけじゃない。
矛盾したまま抱える読み方だって、本当はある」
「人間には無理よ」
真舟が即座に言う。
「だから一本にしてきた」
「そうやって壊してきたんでしょ」
有栖零も引かない。
「未採用世界を。
選ばれなかった愛を。
“その人ならありえたかもしれない人生”を」
響子が、そこで初めて有栖零をまともに見た。
観察ではなく、ひとりの女として。
「あなたは、ほんとうに憎んでいるのね」
「当然でしょ」
「それでも第七読手のそばにいる」
「憎しみだけじゃ、ここまで来られないから」
その言葉のあと、観測室のガラスが震えた。
都市のあちこちで終景漏れが増えている。
港の上で白い光。
病院の屋上で白い光。
商店街の向こうで、誰かが確定した別れを先に見て崩れ落ちる。
「時間がない」
真舟が言う。
「決めて。
主筋を再固定するか、観測席へ退くか、それとも――」
彼女はそこで、有栖零を見た。
「……あなたの言う、第三の方法を試すか」
「何だ、その第三の方法って」
俺が訊くと、有栖零は一度だけ深く息を吸った。
「終景漏れを、逆に使う」
「逆に?」
「第二幕へ流れ込んでる“先の幕”の断片を集めて、一本の結末じゃなく、複数の結末が共存したまま読める場を先に作るの」
響子が目を見開いた。
真舟は言葉を失う。
その反応だけでわかる。
それは禁じ手だ。
「そんなことをしたら」
真舟がようやく言う。
「物語の順序そのものが崩れる」
「そうだよ」
有栖零は静かに言った。
「崩すの。
はじめから、一本に読ませるための順序だったなら」
俺は彼女を見た。
この女は、いつも俺に選択を迫る存在だと思っていた。
だが違うのかもしれない。
こいつは毎回、俺が従ってきた読み方そのものを壊しに来ている。
「面白い案だわ」
響子が、ほとんど呆れたみたいに言う。
「実行できれば、だけど」
「できる」
有栖零は即答する。
「終景漏れの中心に、中枢の予備観測井があるはず。
そこへ行って、“結末を先に観る”んじゃなく、“結末を並べて開く”」
「そんなの、誰が保持するの」
真舟が言う。
「人間の頭はそこまで多重化できない」
「だから」
有栖零は、俺を見る。
「読手が必要なの」
またか、と言いかけてやめた。
今度は少し意味が違うのが、彼女の顔でわかったからだ。
「選ぶためじゃない」
有栖零は言う。
「複数を複数のまま抱えたまま、なお自分を失わないために」
観測席の残骸たちが、わずかにざわめいた気がした。
それは風かもしれない。
それとも、彼らがかつて到達できなかった読み方の予感に反応したのかもしれない。
俺は観測室の窓の外を見る。
氾濫する第二幕の都市。
そのあちこちで白く立ち上がる終景。
途中でありながら、終わりが漏れてくる世界。
たぶん、ここで普通の選択肢を選んだら、また同じことの反復だ。
俺は誰かを代表として切り出し、他のすべてを未採用へ沈める。
あるいは、自分だけ観測席へ退いて、人間であることを諦める。
どちらも、負け方として整いすぎている。
「……いい」
俺は言った。
「やってやろうじゃないか、その第三の方法」
真舟が鋭く振り向く。
「本気?」
「どうせ正規手順じゃ勝てないんだろ」
「勝つ負けるの問題じゃ――」
「あるよ」
俺は真舟を見る。
「俺はもう、あいつらの“読める現実”にだけ勝たせる気はない」
真舟は数秒、黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「最低」
「知ってる」
「でも」
彼女は母のほうを見た。
響子は何も言わず、ただ娘を見ている。
「……その最低さが、今は必要かもしれない」
観測室の外で、大きな破裂音。
終景漏れが、ひとつ広場を飲み込んだのだろう。
時間がない。
「予備観測井はどこだ」
俺が訊くと、響子が即答した。
「塔の最上層。
ただし、上へ行くには第三幕用の昇降路を使うしかない」
「第三幕用?」
「ええ。
だから途中で、たぶん誰かが“終わらせよう”としてくる」
その言い方は比喩ではなかった。
有栖零がコートの裾を払う。
真舟は固定杭を確認する。
響子はコンソールに手を置き、塔全体の光をわずかに調整した。街の一部で騒乱が数秒だけ薄れる。
「行きなさい」
彼女は言う。
「私はここで流量を持たせる。
でも長くはもたない。
澪」
真舟が顔を上げる。
「今回は、“正しいほう”に立とうとしなくていい」
真舟の喉が、ほんの少しだけ動いた。
返事はしない。
ただ一度だけ、母を見る目が娘のものになった。
俺たちは観測室を出る。
最上層へ向かう螺旋階段の入口には、古いプレートが掛かっていた。
第三幕関係者以外立入禁止
その文句を見た瞬間、なぜか背筋が粟立った。
第二幕はまだ走れた。
だが第三幕には、走るための熱とは別の冷たさがある。
「冬真」
階段へ足をかける直前、有栖零が小さく言った。
「何」
「この先で、たぶん何本かの“あなたの終わり”を見る」
「見るだけなら安い」
「そうかな」
彼女は少しだけ笑った。
寂しいのに、どこか挑発的な笑い方。
「人って、自分の死より、“こういうふうに終わっていたかもしれない人生”のほうに、案外弱いよ」
その忠告は、妙に具体的で嫌だった。
俺は答えず、第三幕の階段を上り始めた。
上ではもう、誰かが待っている気がした。
俺たちを終わらせるために。
あるいは、やっと正しい結末へ戻すために。




