第五話 第三幕昇降路
第三幕の階段は、静かすぎた。
第二幕の都市には、まだ人間の熱があった。
怒号。悲鳴。告白。裏切り。
どれも鬱陶しいほど人間くさかった。
だが、第三幕へ上がるこの螺旋階段には、それがない。
足音だけが響く。
しかも、その足音がときどき自分たちのものではなくなる。
俺が一段上るたびに、もっと重い誰かの靴音が重なる。
有栖零の細い足音に、ハイヒールの音、裸足の音、軍靴の音が一瞬だけ混じる。
真舟の靴音には、固い革靴のほかに、杖の先で石を打つような音が混ざった。
終わりは、歩き方から滲むらしい。
階段の中心は吹き抜けになっていた。
底は見えない。
上も見えない。
ただ、ところどころの踊り場にだけ薄い光が落ちていて、その光の質が階ごとに違う。
白い病院の蛍光灯。
夕方の教室の斜光。
電車の終点に近い色温度。
祭壇の上の、赦しと処刑の境目みたいな光。
「これ、何階まである」
俺が訊くと、真舟が肩越しに答えた。
「階数で数える場所じゃない。
第三幕の密度が変わるたびに踊り場が増える」
「便利な建築だな」
「嫌な言い方をすれば、人が“そろそろ終わらせてもいいかも”と思うたびに、段が生える」
「最低だな」
「ええ」
有栖零は、いつもより一段だけ前を歩いている。
たぶん、俺よりこの場所を知っているからだ。
たぶんそれだけではなく、ここで何に遭うかを、俺より先に恐れているからでもある。
「第三幕では」
彼女が振り向かずに言う。
「“なぜこの物語を終わらせたいのか”が、だいたい人の形をして出てくる」
「また人か」
「人がいちばん効くから」
その通りすぎて、腹が立つ。
最初の踊り場へ出た。
照明は、午後四時の台所の色をしていた。
その時点で嫌な予感しかしない。
踊り場の中央には、木のテーブルがひとつ置かれている。
湯気の立つ皿が二つ。
窓の外には、静かな住宅街。
雨も雪もない。戦争もない。氾濫もない。
あるのは、もう何も説明しなくていい人生の温度だけだった。
そして、そこに女がいた。
振り向かなくてもわかる。
有栖零だ。
いや、有栖零によく似ている。
髪の長さが少し違う。
目の下の疲れ方がもっと柔らかい。
肩の力が抜けている。
この女は、たぶん何年も「生き延びるために自分の存在を証明する」必要のなかった女だ。
彼女は鍋の蓋を開け、湯気の向こうからこちらを見た。
「遅い」
その声だけで、胸の奥がきれいに痛んだ。
「また階段で煙草吸ってたでしょ」
俺は立ち止まる。
吸わない。
この世界の俺は、煙草なんて吸わない。
なのに、その叱られ方の手触りが、ありえないほど懐かしい。
「冬真」
現実の有栖零が低く言う。
「近づかないで」
だが台所の彼女は、笑っている。
責めているのではない。
日常の一部として咎めているだけだ。
誰かの人生において、何十回も繰り返された小さな夫婦喧嘩の入口として。
「今日、早かったんだよ」
彼女は続ける。
「だから温かいうちに食べようと思って」
テーブルの上には、小さな皿がもう一つあった。
子ども用の皿だ。
端に、フォークが一本置かれている。
心臓が、嫌な沈み方をする。
こんな安い幸福の見本みたいなものに、と思う。
だが安いからこそ効くのだ。
人間が人生の最後に欲しがるのは、たいてい世界の真理ではなく、ありえたかもしれない台所の湯気だ。
「答えるな」
真舟が鋭く言う。
台所の女は、その声に初めて気づいたように顔を上げ、真舟を見る。
表情が変わる。
さっきまでの柔らかさが、少しだけ冷える。
「ああ」
彼女は理解した顔で言う。
「今回は、そっちもいるんだ」
真舟の肩がわずかに強張る。
知っているのか。
この偽りの終景が、真舟の役割まで把握しているのか。
それとも、第三幕というものがそういうものなのか。
「冬真」
台所の女が、もう一度だけ俺の名を呼ぶ。
「こっちに来たら、もう選ばなくていいよ」
その一言は、反則だった。
選ばなくていい。
この数話、この数世界、この数人生を通して、ずっと喉へ突きつけられてきた問いに対する、最悪の答えだ。
選ばなくていいなら、どれだけ楽だろう。
俺の足が、一歩だけ前へ出た。
その瞬間、有栖零が俺の頬を平手で打った。
乾いた音が、台所の湯気を裂く。
「起きて」
彼女の声は低かった。怒鳴ってはいない。
それが逆に効いた。
俺はようやく息を呑み、目の前の台所を見る。
窓の外の住宅街は、よく見ると少しずつ崩れている。
家々の奥行きがない。
郵便受けは空洞で、庭木の葉は紙でできている。
皿の上の煮込み料理は、湯気だけが本物で、中身の輪郭は曖昧だ。
それでも、幸福の気配だけは本物より本物らしく仕立てられている。
「……最低だな」
俺が呟くと、台所の女は少し寂しそうに笑った。
「そうだよ。
でも、あなたはこういう最低さにいつも弱い」
その言葉の最後で、彼女の輪郭が少し揺れた。
有栖零の横顔。
別の女の口元。
老いた顔。
子どもの笑い方。
無数の「家庭の終わり」が一瞬だけ重なる。
「行こう」
真舟が短く言う。
俺たちは踊り場を横切る。
台所の女はもう呼び止めなかった。
ただ、俺たちの背に向かって静かに言う。
「あなた、いつも最後まで“それでもうまくいかないほう”へ行くよね」
その言葉はしばらく背中に残った。
*
二つ目の踊り場は、戦場だった。
いきなり気温が下がる。
火薬の匂い。
金属の破片。
遠くで燃える都市。
踊り場の床そのものが塹壕の泥へ書き換わりかけている。
「何だよ、今度は」
「英雄譚」
真舟が即答する。
「あなたが好きそうなやつ」
「嫌味か」
「事実よ」
正面にひとりの男が立っていた。
俺だった。
今度は疑いようもない。
年齢は俺より少し上。
左頬に古い傷。
軍用コート。
右手に長銃のような位相兵装。
左腕は肘から先が義手になっている。
そしてその顔には、さっきの台所の終景にはなかった種類の静けさがあった。
全部を失っても、それが正しい終わりだったと引き受けてしまった人間の顔だ。
「止まれ」
軍装の俺が言う。
声も俺だ。
少し低く、少し枯れている。
「ここから先は、都市を救う側だけが通れる」
「お前は何を救った」
俺が訊くと、そいつは後ろの燃える空を一瞥する。
「十分な数」
「十分?」
「世界は一つで足りる」
その台詞だけで、こいつが何者かわかった。
正義ではない。
利他でもない。
もっと厄介だ。
損失を数えきった末に、“これ以上は抱えられないから一本でいい”と決めてしまった俺だ。
「有栖零をどうした」
口に出してから、自分でも少し驚いた。
最初にそれを訊くのか、と。
だが他に訊くことがなかった。
軍装の俺は、少しだけ目を細める。
「選ばなかった」
「殺したのか」
「世界を採った」
「同じことだろ」
「違う」
そいつは静かに言う。
「君はまだ、痛みを人間の形でしか数えられていない」
「何だって?」
「世界には、誰か一人を選ぶことで済む局面なんて少ない。
たいていは、何百万の矛盾と何百万の喪失を秤にかける。
そのとき、愛した相手ひとりの名を叫ぶことは美しい。
だが、美しいまま負けることは、案外たやすい」
真舟が低く舌打ちする。
「悪質ね。
これは“正しさに酔った終幕”」
「うるさい」
軍装の俺は、真舟を見る目だけが冷たかった。
「お前たちの制度が必要としたのは、いつもこっちだろう」
真舟の表情が一瞬だけ揺れる。
図星なのだ。
「冬真」
有栖零が横で囁く。
「話し込まないで」
だが、軍装の俺は銃を下げない。
むしろ少しだけ近づいてくる。
そのたびに、燃える都市の光が濃くなり、踊り場全体が「最終決戦の直前」へ寄っていく。
「君は誤解している」
そいつは俺にだけ聞こえる声で言った。
「彼女を選ばなかったことは、敗北じゃない」
「じゃあ何だ」
「引き受けたんだ」
その言葉は、さっきの台所より危険だった。
幸福より、こういう苦い自己正当化のほうが俺には効く。
選ばなかったことを、臆病ではなく責任として言い換える。その論理の誘惑を、俺はよく知っている。
「やめろ」
有栖零が一歩前へ出る。
だが軍装の俺は視線を外さない。
「君はまだ、“何かを壊す”ことで勝った気になっている。
だが、最後に必要なのは破壊じゃない。
切断だ。
どこかで、残酷に一本にする。
それをやれないなら、君は読手でも何でもない」
その瞬間、俺の中で何かが逆に冷えた。
ああ、そうか。
こいつは未来の俺じゃない。
制度が欲しがる結末の顔をした俺だ。
だから、こんなにも説得力がある。
そして、こんなにもつまらない。
「悪いな」
俺は言う。
「俺、お前みたいに綺麗に諦められない」
軍装の俺が、ほんのわずかに眉を動かす。
その隙に真舟が動いた。
固定杭を床ではなく、踊り場の照明柱へ打ち込む。
火薬の匂いと戦場の遠景が一瞬だけ“決まりすぎた終幕”として固定される。
「今!」
有栖零が俺の腕を引く。
俺たちは軍装の俺の横をすり抜ける。
そいつは撃たなかった。
ただ、すれ違いざまに小さく言った。
「彼女を選ぶなら、せめて“彼女だけ”の話にするな」
その一言だけは、嫌なほど本気に聞こえた。
*
三つ目の踊り場に出る前、真舟が急に足を止めた。
彼女は何も言わない。
だが、見ればわかる。
顔色が悪い。
螺旋階段の手すりを握る右手に、ほんのわずかな震えがある。
「何だ」
俺が言うと、真舟は珍しくすぐに答えなかった。
「……たぶん、次は私」
有栖零が真舟を見る。
その視線には、敵意より先に理解があった。
ここまで来ると、互いに何を抱えているかが少しずつ見えてくる。
「母親?」
俺が訊く。
「だけじゃない」
真舟は短く息を吐く。
「私、昔、一度だけ選ばなかったことがある」
「何を」
「人を」
それだけで十分だった。
詳細を聞く必要はない。
その単語の置き方で、どんな種類の後悔かだいたいわかる。
踊り場へ出る。
そこは病室だった。
今度は本当に、壁も床も天井も、踊り場の外郭ごと病室へ書き換わっている。
白いカーテン。
点滴。
窓の外の夕方。
ベッドの上に、一人の少年が眠っている。
十五、六歳。
痩せた顔。
短い髪。
呼吸は浅い。
胸元の名札には、真舟透と書かれていた。
真舟の足が止まる。
「弟?」
俺が言うと、彼女は小さく頷いた。
声が出ないらしい。
ベッド脇の椅子に、若い真舟が座っている。
いまより二十代前半。制服姿。
彼女は机上の書類を見ている。
書類の上には、外環観測庁採用通知。
別の紙には、臨床付き添い同意書。
つまり、そういうことだ。
この病室は、「行くか残るか」の踊り場なのだ。
若い真舟が顔を上げる。
いまの真舟を見る。
表情は驚かない。
まるで、そうなることを知っていたように。
「やっぱり来るんだ」
若い真舟が言う。
「こういうときの終わりって、だいたい自分の顔をしてる」
いまの真舟は、何も返せない。
少年――弟は眠ったままだ。
だが、眠っていること自体がひどく残酷だった。
ここでは彼は、まだ死んでいない。
まだ、誰かが決めれば助かるような時間に固定されている。
「澪」
若い真舟が、穏やかに言う。
「もういいよ」
その四文字だけで、真舟の肩が大きく揺れた。
「いいわけないでしょ」
ようやく彼女が絞り出した声は、執行官のものではなかった。
もっと若くて、もっと個人的な声だ。
「私、あんたを置いて行ったのよ」
「うん」
「戻れなかった」
「うん」
「そのあとずっと、“人を一つに読める制度”の側にいた。
そうしないと、私が間違えたことになるから」
若い真舟は、泣きもしない。
ただ静かに言う。
「間違えたんだよ」
観測室の響子より、この若い真舟のほうがよほど残酷だった。
許さない。
慰めない。
ただ、正しい位置に傷を差し込んでくる。
「でも」
若い真舟は、いまの真舟を見つめる。
「間違えたことを、制度にして配るのはやめて」
有栖零が、少しだけ息を呑む。
俺も何も言えない。
病室の空気が、そのまま真舟の背中へ刃物みたいに刺さっているのが見えた。
真舟は数歩、ベッドへ近づく。
弟の寝顔を見下ろす。
その手が、布団へ伸びかけて止まる。
「……触ったら、終わるのか」
彼女が呟く。
誰に向けた言葉でもない。
だが答えたのは、有栖零だった。
「たぶん、“この終わり”に入る」
真舟は目を閉じた。
数秒。
それから手を引く。
「そう」
彼女は静かに言う。
「じゃあ、やらない」
若い真舟が、少しだけ驚いた顔をした。
「意外。
ここで泣いて、弟の手を取って、きれいに終わるかと思った」
「そんなの、あんたがいちばん嫌いでしょ」
真舟は自分の若い終幕へ向かって、疲れたように笑った。
「私は、あんたの後悔であっても、あんたの物語にはならない」
その言葉のあと、病室の照明が少しずつ落ち始める。
若い真舟も、眠る弟も、窓の夕方も、すべてが少しずつ透明になる。
消える直前、若い真舟が最後に言った。
「じゃあ、せめて誰か一人くらいは、制度の外に出しなよ」
病室は静かにほどけた。
階段だけが残る。
真舟はしばらく動かなかった。
有栖零が何か言いかけてやめる。
俺も言葉を持たない。
結局、真舟のほうが先に口を開いた。
「見た?」
「見た」
「忘れなさい」
「無理だろ」
「命令よ」
「固定院の権限か?」
「女としての」
その返しに、俺は少しだけ笑ってしまった。
真舟も笑わない。
だが、そのやり取りがあったことで、彼女はなんとか今の階段へ戻ってこれたようだった。
*
さらに上へ。
第三幕は、ここから急に薄くなった。
濃い終景そのものは減り、代わりに空白が増える。
照明は青白く、病院でも台所でも戦場でもない。
もう何かが始まるための光ではなく、終わったあとに残る設備の光だ。
「このへんから先」
有栖零が言う。
「たぶん、私の番も来る」
「どういう終わりだ」
「終わり、じゃないかも」
その言い方に、嫌な予感がした。
数段上がったところで、案の定、階段が途切れた。
途切れた先には、海があった。
防潮堤。
夏の夜。
湿った風。
遠くの工場灯。
ここはもう見覚えがある。
俺が劇場の裏で、一瞬だけフラッシュした場所だ。
「……来た」
有栖零が、ひどく小さな声で言う。
防潮堤の上に、二人いた。
男と女。
座っている。
缶コーヒー。
足元に吸い殻。
女が男から煙草を取り上げ、そのまま海へ投げる。
男が少し笑い、文句を言いかける。
女は「死ぬよ」と言う。
男は「先に世界が死ぬ」と返す。
女は「そういうところ」と言って、呆れたみたいに笑う。
俺と有栖零だった。
今度は疑いようがない。
表情の温度。
距離の取り方。
沈黙の馴染み方。
あれは、恋人だ。
しかも、付き合い始めではない。
何度も喧嘩して、何度も戻って、世界の終わりに慣れすぎてしまった恋人の空気だ。
「……お前、これ」
俺が言いかけると、有栖零が遮る。
「見ないで」
「無理だろ」
「じゃあ、せめて信じすぎないで」
防潮堤の二人は、こちらに気づかない。
ただ静かに会話を続けている。
「ねえ」
向こうの有栖零が言う。
「もし、全部うまくいかなかったらどうする?」
「全部うまくいったことなんてあったか?」
「ないけど」
「じゃあ、いつもどおりだろ」
「それ、ロマンチックのつもり?」
「まさか」
向こうの俺は笑う。
その笑い方を、自分は知らない。
もっとやわらかく、もっと人の体温に寄りかかった笑い方だ。
向こうの有栖零は、しばらく黙って海を見る。
それから、ひどく静かに言う。
「私ね、あなたが“私”を好きなのか、
それとも“毎回こういう位置に現れる誰か”を好きなのか、
たまに分からなくなる」
胸の奥が、きれいに抉られた。
それはまさに、俺がずっと言葉にできなかった問いだったからだ。
有栖零は俺を見ない。
防潮堤の自分たちを見ている。
そこに立ち会うこと自体が、彼女にとっては残酷なのだろう。
「向こうの俺は何て答える」
俺が訊くと、有栖零は苦い顔をした。
「聞かないほうがいい」
「でも、お前は知ってるんだろ」
「知ってる」
「なら」
彼女は少しだけ黙り、やがて言った。
「たぶん、向こうのあなたはこう言う。
“違いが分からなくても、好きになったあとなら同じだ”って」
俺は目を閉じたくなった。
最悪の答えだ。
優しくて、逃げていて、でも半分は本当のやつだ。
「最低だな」
俺が呟くと、有栖零が少し笑う。
「うん。
でも、あなたそういうこと言いそう」
向こうの防潮堤では、やはりその通りの台詞が交わされていた。
音は聞こえない。
だが口の形でわかる。
有栖零は、その場面を見つめたまま言った。
「冬真。
私、ずっと怖かった」
「何が」
「あなたが私を好きになっても、それが“私”なのか“構造”なのか分からないこと。
でも同じくらい、怖かった。
もし、ほんとうに“私だけ”を好きだって言われたら、それはそれで、他の世界で死んだ私たち全部を見捨てる言い方になるから」
その言葉で、ようやくわかった。
この女は、恋愛の問題を最初から恋愛だけでは受け取れない。
彼女自身が複数世界の残響だからだ。
一人の女として愛されたい。
だが、一人の女としてだけ愛されることは、無数の有栖零の死を再び未採用へ沈めることでもある。
こんなの、まともに恋愛できるわけがない。
「じゃあ、どうすればいい」
俺が訊いた。
有栖零は少し考え、それから、珍しく真正面から俺を見た。
「たぶん、“一人だけを選ばない”ことと、“目の前の一人を曖昧にしない”ことの両方をやるしかない」
「無茶言うな」
「うん」
彼女は笑う。
「だから、読手が必要なんじゃない?」
皮肉なのか本気なのか分からない顔だった。
そのとき、防潮堤の向こうの俺が立ち上がった。
こちらを見た。
気づいたのだ。
向こうの有栖零も立つ。
二人とも、まっすぐ俺たちを見る。
そして向こうの俺が、はっきりと言った。
「来るな」
さっき転回坑道で会った居酒屋の俺と同じ目だった。
これ以上見たら、この終わりへ固定されると知っている目。
「お前らは、まだ途中にいろ」
向こうの有栖零も、小さく頷いた。
「ここ、きれいに見えるけど、結局終わるから」
その一言で、防潮堤の夜が揺らぐ。
海の向こう、見えないはずの水平線の先で、白い光が立つ。
終景漏れだ。
この幸せな防潮堤は、やがて何かによって切られる。
「行くよ」
有栖零が言う。
「ここ、長くいたら戻れなくなる」
俺たちは防潮堤を横切る。
すれ違いざま、向こうの俺が小さく笑った。
「お前、もっと嫌な顔になってるな」
「そっちは、ずいぶん丸くなってる」
「そりゃ終わる直前だからな」
「最低だ」
「知ってる」
その会話のあと、防潮堤は静かに崩れ、また階段へ戻った。
*
最上層は、ほとんど空だった。
螺旋階段が終わり、短い通路の先に一枚の扉があるだけ。
プレートには、無機質な文字でこう書かれていた。
予備観測井
だが扉の前に、誰かがいた。
男。
長身。
黒いコート。
右手に、見覚えのある位相拳銃。
顔を見た瞬間、俺は足を止めた。
俺だった。
軍装でもない。
居酒屋の疲れた男でもない。
台所の柔らかい男でもない。
いまの俺に最も近い顔。
ただし、目だけが違う。
乾いている。
何も失っていないのではなく、失ったものを全部読み終えて、そのうえで先へ進むことだけを選んだ目だった。
そいつは俺たちを見ると、少しだけ首を傾ける。
「遅かったな」
声も、俺だ。
「誰だ」
俺が訊くと、そいつは本当に少しだけ考えるような顔をした。
「一番近い終わり、ってところかな」
真舟が即座に拳銃を抜く。
有栖零の呼吸が浅くなる。
だが、そいつは動じない。
「撃つなよ」
そいつは真舟へ向かって言う。
「ここで俺を撃つと、お前たちの冬真が“ここで撃たれるはずだった主人公”に寄る」
「親切ね」
真舟が吐き捨てる。
「そういう親切は嫌い」
「知ってる。
でもお前は結局、嫌いなものを制度化する癖がある」
真舟の目が細くなる。
図星だ。
「冬真」
有栖零が低く言う。
「気をつけて。
これは、たぶんいままでで一番危ない」
目の前の俺は、静かに頷く。
「そうだろうな。
だって俺は、お前たちが一番なりかけてるやつだから」
その言葉と同時に、予備観測井の扉の向こうから、白い光が脈打つ。
結末が、こちらを待っている。
だがその手前に立っているのは、結末そのものではない。
結末へ行くことを、最ももっともらしく正当化した俺だ。
そいつが微笑む。
「来いよ。
今度こそ、“正しく終わらせる”話をしよう」




