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黒霧村3

黒霧村の外れ。霧が濃く、月明かりがぼんやりと滲む小さな広場。

アルノルトは腕を組み、代官屋敷の方向を睨んでいた。

そこへ、セリーヌがふわりと歩いてくる。

腰布が霧を切り、髪がしっとりと揺れる。


「お待たせ、旦那様」


声は低く、霧に溶けるような甘さ。

アルノルトは咳払いした。


「……遅かったな」


セリーヌはアルノルトの横に立ち、わざとではないが自然と距離が近い。

肩が触れそうなほど。


「代官の屋敷に、娘たちが連れていかれてる。

 村人は怯えてて、誰も真実を言わない」

アルノルトは頷く。


「ふむ……やはりか」

セリーヌはさらに一歩近づき、アルノルトの顔を覗き込む。


「ねぇ、旦那様。どう攻めるの?」


その距離。その声。その瞳。

アルノルトの胸が、わずかに熱くなる。


(……近い。こやつ、無意識でやっておるのか)


だが、表情は崩さない。

アルノルトは霧の向こうを見据えた。


「まずは屋敷の外周を探る。

 見張りの数、配置、抜け道…… それを確かめねばならん」


セリーヌは唇を上げる。


「ふふ……硬いわねぇ、旦那様」


アルノルトは眉をひそめる。


「硬いとは何だ」

「だって、もっと大胆に行くのかと思ったもの。 “悪党は叩き潰す”って」


アルノルトは咳払いした。


「……わしはそんな乱暴者ではない」


セリーヌは肩をすくめる。


「あら、そう?

 でも……あたし、旦那様のそういうところ、嫌いじゃないわよ」


アルノルトの胸がまた熱くなる。


(……この女、わしをからかっておるな)


セリーヌは腰に手を当て、軽く体をひねる。

その動きが霧の中で艶やかに見える。


「ねぇ旦那様。あたしが先に屋敷に入るってのはどう?」


アルノルトの眉が跳ね上がる。


「危険すぎる」

「大丈夫よ。あたし、こう見えて“男を油断させる”のは得意なの」


アルノルトの胸がドクンと鳴る。


(……それは分かっておる。 分かっておるが……)


だが、表情は変えない。


「……わしの目の届かぬところで勝手はするな」


セリーヌは微笑む。


「心配してくれるの? 嬉しいわ」


アルノルトは咳払いした。


「心配ではない。 お前が勝手をすると、作戦が乱れるだけだ」

「はいはい、旦那様は素直じゃないんだから」


セリーヌはアルノルトの前に立ち、真剣な瞳で言った。


「でもね、旦那様。 あたしは……あなたの力になりたいの」


その声は、色気ではなく、“覚悟”の声。

アルノルトは一瞬だけ目を閉じた。


(……この女は、本気で言っておる)


胸の奥が熱くなる。

だが、老獅子は表に出さない。


「……分かった。 お前の判断に任せる部分もある。

 だが、無茶はするな」


セリーヌは嬉しそうに微笑んだ。


「了解、旦那様」


その笑みは、霧の中で灯る炎のように艶やかだった。


*************************************


黒霧村の代官屋敷は、霧の中に沈むように佇んでいた。

灯りは少ない。見張りは二人。だが、空気が重い。

アルノルトは屋敷の影に身を潜め、セリーヌの背中を見つめていた。

彼女は、霧の中でもひときわ目を引く。

腰布が揺れ、髪がしっとりと肩に落ち、歩くたびに影が艶やかに揺れる。


(……あやつ、潜入に向いておらんようで、 妙に向いておる)


老獅子の胸が、静かに熱を帯びる。

セリーヌは、見張りの前にふわりと歩み出た。

声は低く、霧に溶けるような甘さ。


「こんばんはぁ。 ちょっと……迷っちゃって」


見張りの男たちが、一瞬で気を取られる。

セリーヌは、胸元にかかった髪を指先で払う。

その仕草は自然。だが、“見せるべきところ”を自然に見せる、熟練の動き。


「この村って…… 霧が深いのねぇ」


男たちの喉が鳴る。

アルノルトは影から見ていた。


(……まったく。 あやつの色気は、武器として完成しておる)


だが、表情には出さない。


セリーヌが男たちの注意を引きつけた瞬間、アルノルトは影から滑り出た。

足音はない。呼吸も抑えている。


(今だ)


見張りの背後に回り、首筋に軽く手刀を当てる。

二人は静かに崩れ落ちた。

セリーヌが振り返り、唇の端を上げる。


「さすが、旦那様」


アルノルトは咳払いした。


「……お前が囮になりすぎだ」

「あら、褒め言葉として受け取っておくわ」


屋敷の裏口から中へ入る。

廊下は暗く、霧の匂いが微かに漂う。

セリーヌはアルノルトのすぐ後ろを歩く。

距離が近い。息がかかるほど。


「ねぇ旦那様」


声が低い。囁くような声。

アルノルトの背筋に、微かな震えが走る。


(……近い。 この女、わざとやっておるのか)


だが、表情は崩さない。


「何だ」

「あたし、こういう潜入……嫌いじゃないの」


アルノルトは眉をひそめる。


「楽しむな」

「ふふ……あなたが隣にいると、ちょっとだけ安心するのよ」


アルノルトの胸が熱くなる。


(……いかん。 この歳になって、何を動揺しておる)


屋敷の奥。鍵のかかった部屋がある。

中から、かすかな泣き声。

セリーヌが鍵穴を覗き、小声で言う。


「ここね……」


アルノルトが頷く。


「開けるぞ」


セリーヌは、アルノルトの腕にそっと触れた。

触れたのは一瞬。だが、その温もりが妙に強く感じられる。


「旦那様……無茶はしないでね」

アルノルトは静かに答える。


「お前こそだ」


二人の視線が交わる。

霧の中で、静かな熱が生まれた。



代官屋敷の奥。薄暗い廊下の突き当たりに、重い鉄の扉があった。

中から、かすかな泣き声。

セリーヌは鍵穴に耳を当て、息を潜める。


(……三人。 泣いてる声が三つ)


アルノルトが背後に立つ。その存在は大きく、霧の中でも頼もしい。


「セリーヌ、どうだ」


声は低く、だが焦りはない。

セリーヌは囁く。


「大丈夫。 鍵は……古いタイプ。 すぐ開けられるわ」


指先が鍵穴に触れる。金属の冷たさが指に伝わる。

その瞬間、アルノルトがわずかに身を寄せた。


(……近い)


セリーヌの胸が、一瞬だけ跳ねた。

だが、表には出さない。

セリーヌはピックを差し込み、静かに回す。

カチ……カチリ……

その音が、廊下に響くほど静かだった。

アルノルトは背後で見張りながら、セリーヌの肩越しに鍵穴を見ている。

その視線が、背中に触れるように感じる。


(……旦那様、そんなに近くで見られると…… 集中できないじゃない)


だが、口には出さない。

最後のピンが外れた。

カチン。

セリーヌは微笑む。


「開いたわ」


アルノルトが頷く。


「よし。入るぞ」


扉を静かに開けると、薄暗い部屋の隅で、三人の少女が震えていた。

縄で縛られ、口を布で塞がれている。

セリーヌはすぐに駆け寄り、膝をついた。


「大丈夫よ。 もう怖くないわ」


声は甘く、優しく、まるで歌うよう。

少女たちの震えが少しだけ収まる。

アルノルトは部屋の奥を確認し、敵がいないことを確かめる。


「セリーヌ、縄を解け。 わしは外を見張る」


セリーヌは頷き、少女たちの縄をほどく。

指先が優しい。少女たちは泣きながら彼女にしがみつく。


「怖かった……」

「大丈夫、大丈夫よ」


セリーヌは抱きしめ、髪を撫でる。

その姿を見て、アルノルトの胸が静かに熱くなる。


(……あやつは、色気だけの女ではない。 こういう優しさを持っておる)


廊下の奥から、複数の足音。

アルノルトが低く言う。


「来るぞ。 セリーヌ、娘たちを後ろへ」


セリーヌは少女たちを背にかばい、アルノルトの背中に寄り添うように立つ。

その距離は近い。息が触れ合うほど。


「旦那様…… 無茶はしないでね」


アルノルトは短く答える。


「お前こそだ」


二人の呼吸が重なる。


扉が乱暴に開かれ、代官の私兵が三人、剣を構えて飛び込んできた。

アルノルトは一歩前に出る。

その動きは老いを感じさせない。

むしろ、獅子が獲物に飛びかかる瞬間のような鋭さ。


「娘たちを返してもらおうか」


声は低く、だが圧がある。

私兵たちが一瞬怯む。

セリーヌは後ろで少女たちを守りながら、アルノルトの背中を見つめる。


(……やっぱり、この人……強い)


私兵が突っ込んでくる。

アルノルトは剣を抜き、一人の腕を弾き飛ばす。

その隙に、セリーヌが床に落ちていた瓶を蹴り上げる。

瓶は私兵の足元に転がり、バランスを崩させる。

アルノルトがその隙を逃さず、柄で顎を打ち上げる。


(……息が合っておる)


二人は一度も言葉を交わしていない。だが、動きが自然と噛み合う。

まるで、長年の相棒のように。


私兵が全員倒れた。

アルノルトは剣を収め、息を整える。

セリーヌは少女たちを抱きしめ、優しく言う。


「もう大丈夫よ。 旦那様が全部片付けてくれたわ」


アルノルトは照れたように咳払いする。


「……わし一人の力ではない。 お前の動きも見事だった」


セリーヌは微笑む。


「ふふ……褒められると嬉しいわ、旦那様」


アルノルトの胸が、また静かに熱くなる。

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