黒霧村2
酒場に入ると、客たちの視線が一斉に集まる。
セリーヌは、その視線を受け止めながら、ゆっくりとカウンターへ歩いた。
腰の動き、指先のしなやかさ、髪を払う仕草──
どれも自然で、だが“魅せる”ために磨かれたもの。
(さて…… この村の闇、どこからほぐしてあげようかしら)
彼女の瞳は、霧の奥に潜む“悪意”を探していた。
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外で待つアルノルトは、酒場の扉を見つめながら思う。
(……あやつの色気は、武器だ。
だが……それだけではない)
セリーヌは、人の心の闇を見抜く。
その力は、剣よりも、魔術よりも、時に強い。
(……わしも、気をつけねばな)
老獅子の胸に、静かな炎が灯る。
だが、それを誰にも悟らせない。
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酒場の扉を押し開けた瞬間、
むっとした湿気と、酒と汗の混ざった匂いが鼻をくすぐった。
霧の村の酒場は、どこか“閉じた空間”の匂いがする。
(ああ……こういう場所、嫌いじゃないわ)
人の弱さが、空気に溶けて漂っている。
セリーヌは、腰を少しだけ揺らしながら歩く。
自然体。だが、“見られること”を理解した歩き方。
視線が集まる。男も女も、彼女の動きに吸い寄せられる。
カウンターに近づくと、店主が驚いたように目を丸くした。
セリーヌは微笑み、指先で髪を軽く払う。
「こんばんは。
この村、初めてなの。
何か……おすすめのお酒、ある?」
声は少し低め。甘さよりも、“落ち着き”を含ませた声。
店主は慌てて酒瓶を取り出す。
「お、おう……霧酒ってのがあるが……」
セリーヌは、わざとゆっくりとグラスを受け取る。
指先が店主の指に触れるか触れないか──その絶妙な距離。
店主の喉が鳴った。
(ふふ……まずは一人)
セリーヌは酒を口に運びながら、周囲を観察する。
酔いすぎている男
何度も扉を気にする女
目を合わせない客
そして、妙に怯えた表情の老人
(この村……何か隠してるわね)
霧のせいだけではない。
人々の目が、“何かを恐れている”。
セリーヌは、その恐怖の正体を探るため、次の一手を打つ。
セリーヌは、店主に少しだけ体を寄せた。
距離は近いが、触れない。
「ねぇ…… この村、何かあったの?」
店主は一瞬、視線を泳がせた。
「な、何もねぇよ」
セリーヌは微笑む。
「嘘をつくと…… 目が泳ぐのよ、人って」
店主は息を呑む。
セリーヌは続ける。
「私はね、ただ旅の途中で寄っただけ。
あなたを困らせるつもりはないわ」
声は柔らかく、まるで子どもをあやすような優しさ。
店主の肩の力が抜けた。
「……最近、娘が何人もいなくなってるんだ」
セリーヌの瞳が細くなる。
(やっぱり……)
その時、酔った男が近づいてきた。
「よぉ姉ちゃん…… どっから来たんだい?」
セリーヌは振り返り、微笑む。
「旅の商家よ。 あなたは?」
男はにやつきながら、彼女の肩に手を伸ばそうとする。
その瞬間──セリーヌは、指先で男の手を軽く押し返した。
触れたのはほんの一瞬。だが、その動きはしなやかで、まるで舞うようだった。
「触らないで。 私は……触れられるのは好きじゃないの」
男は一瞬たじろぎ、後ずさる。
周囲の客がざわつく。
(ふふ……これで“私に手を出すと面倒”って分かったわね)
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酒場の外。アルノルトは扉の隙間から、セリーヌの様子を見ていた。
酔った男に絡まれた瞬間、彼の眉がわずかに動いた。
(……あやつ、危なっかしい)
だが、セリーヌがしなやかに男をいなす姿を見て、胸の奥が熱くなる。
(……見事なものだ)
その仕草は、戦場の剣とは違う。だが、人の心を操る“技”だった。
アルノルトは、その色気にわずかに心を揺らしながらも、表情には出さない。
(……まったく。 わしの心臓が弱っておらんか、確かめたくなるわ)
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店主が小声で言う。
「娘たちは…… 代官の屋敷に連れていかれたって噂だ」
セリーヌは静かに頷く。
「ありがとう。
あなたのおかげで…… この村の霧が少し晴れたわ」
店主は顔を赤くし、視線を逸らした。
セリーヌは立ち上がり、腰布を揺らしながら扉へ向かう。
(さて…… 旦那様に報告しないとね)
その歩き方は、霧の中でも光を帯びていた。
酒場の扉を押し開けると、霧がふわりと流れ込んできた。
湿った夜気が肌に触れ、さっきまでの酒場の熱が一気に冷めていく。
セリーヌは、胸元にかかった髪を指先で払った。
その仕草は無意識。だが、霧の中では妙に艶やかに見える。
(さて……旦那様はどこかしら)
目を凝らすと、霧の向こうに、背筋を伸ばした大柄な影が立っていた。
アルノルトだ。
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セリーヌが近づくと、アルノルトはわずかに顎を上げた。
「……終わったか」
声は低く、いつも通り落ち着いている。
だが、その瞳は一瞬だけセリーヌの全身をなぞった。
酒場の熱をまとったままの彼女の姿。霧に濡れた髪。胸元に落ちた水滴。腰の揺れ。
アルノルトはすぐに視線を逸らした。
(……いかん。 あやつの色気は、歳を重ねても毒だ)
だが、表情には出さない。老獅子の仮面は崩れない。
セリーヌは、アルノルトのすぐ横に立った。
距離は、手を伸ばせば触れられるほど近い。
わざとではない。だが、彼女の“距離感”はいつも絶妙だ。
「旦那様。 この村……娘が何人も消えてるわ」
声は低く、霧に溶けるような囁き。
アルノルトの眉がわずかに動く。
「……やはりか」
セリーヌは続ける。
「代官の屋敷に連れていかれたって噂。
村人は怯えてる。誰も真実を言おうとしない」
アルノルトは静かに頷いた。
セリーヌは、アルノルトの顔を覗き込むように身を寄せた。
霧の中で、彼女の瞳が近い。
「ねぇ、旦那様。どうするの?」
その距離。その声。その瞳。
アルノルトの胸が、わずかに熱くなる。
(……近い。 こやつ、わざとやっておるのか)
だが、表情は崩さない。
「決まっておろう。代官の屋敷へ向かう」
セリーヌは微笑む。
「ふふ……やっぱりね」
セリーヌは一歩前に出て、霧の中で振り返った。
腰布がふわりと揺れ、霧の光を受けて艶やかに見える。
「旦那様。 あたし、あなたの背中は守るわ。
だから……あなたは前だけ見てて」
アルノルトの胸が、静かに熱を帯びる。
(……まったく。 こやつは……危険な女だ)
だが、その危険さが心地よい。
老獅子は、霧の中で静かに歩き出した。




