第2話 北風屋の人々
北風屋に最初にやって来たのは、帳簿係のセシリア・ランツだった。
彼女は私の前に座ると、挨拶の次に、仕入れ値と予定運賃を書いた紙を広げた。見やすい字である。数字の下には、利益が出る最低の販売額まで記されていた。
「北方の毛織物は、この街道沿いなら売れます。ただし、旦那様がお気に入りの店に安く譲るようなことをなさると、利益は消えます」
「まだ何も売っていないぞ」
「初めに申し上げておきたかったので」
赤みのある茶髪をきっちり編んだ彼女は、私の顔色を窺わなかった。
商家の娘として育ち、幾つかの店で帳簿を見てきたという。私が前公爵だと知ってなお、商売の責任を曖昧にする気はないらしい。
「帳簿と取引は私に任せていただきます。旦那様がお決めになるのは、どこへ旅をするかです。売ると決めた商品の値段は、相談してください」
「厳しいな」
「店を潰したくありませんから」
私も潰したくはなかった。ただ、彼女ほど真剣に店のことを考えていなかったのは確かだ。
私は紙に目を戻した。
「分かった。頼りにする」
セシリアはようやく、少しだけ表情を緩めた。
護衛のルカ・フェルナーは、荷馬車の横で剣の鞘を磨いていた。二十一歳。身のこなしは軽いが、私に向ける視線は落ち着かない。
「老いぼれの護衛では退屈か」
「そういうわけじゃありません」
「では、どういうわけだ」
「……転ばれたら、俺が受け止められるか考えていました」
思ったより正直な答えだった。
私は馬車を指した。
「なら、まず左の車輪を見てくれ。荷を積んだとき、軸にかかる重さが偏る」
ルカは屈んで車輪を調べた。しばらくして顔を上げる。
「確かに。こっちへ寄せて積んだら、街道の溝で危ないですね」
「剣を抜かずに済む危険は、先に減らしておきたい」
「……はい」
ルカは素直に頷いたが、私を見る目から警戒は消えなかった。おそらく、私の扱いに困っているのだろう。私も似たようなものだった。
その日の夕方、食堂で家族が集まった。
クラウスは二十歳になり、騎士服がすっかり板についている。私より背が高い孫が、食事の間ずっと黙っていた。
「言いたいことがあるなら言え」
私が促すと、彼は皿に置いた手を握った。
「祖父上の武勇伝は好きです。でも、父上に後始末を押しつける武勇伝なら聞きたくありません」
ユリアンが何か言おうとしたが、私は手で制した。
「もっともだ。私も聞きたくない」
「なら、無茶はしないでください」
「できるだけな」
「『できるだけ』では困ります」
父親に似た言い方をする。
向かいに座るリーゼルが、包みを差し出した。十八歳の彼女は、私が開くのを待ちきれない様子だった。
中には、小ぶりの地図帳が入っていた。土地の輪郭と主な街道だけが薄い線で描かれ、余白が広く取ってある。
「お祖父様が見つけたものを書き込めるようにしました。町でも、木でも、おいしい料理でも」
「戦の跡もか」
「それは少しだけにしてください。帰ってきたら、ほかの話も聞きたいです」
私は地図帳を閉じた。
帰ってきたら。
その言葉が、思いのほか胸に残った。
翌朝、王宮から小さな封書が届いた。レオナルト三世の署名がある通行状だった。各地で本人確認を求められた際に使えるが、役人への命令権はない。
封書には、国王自身の短い手紙も添えられていた。
『海を見るなら、私の分までよく見てこい。王宮に戻って報告する必要はない』
私は笑い、通行状を旅の書類にしまった。




