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黒霧村1

村へ近づくにつれ、空気はゆっくりと変質していった。

山道を抜けた瞬間、霧が“壁”のように立ちはだかり、

馬車の車輪がその中へ沈み込むように進んでいく。

霧はただ白いだけではない。

灰色の粒子が混じり、光を吸い、音を鈍らせる。

馬の吐息が白く濁り、

その白さが霧に溶けて消える。


エルナが手綱を握りしめ、

肩をすくめた。


「……この霧、冷たいだけじゃない。

 なんだか、肌の下に入り込んでくるみたい」


村の入り口に立つ老人は、

こちらを見た瞬間、

まるで“見てはいけないもの”を見たかのように顔を伏せ、

背を丸めて家の影へ消えた。


アルノは馬車から降り、

杖を土に突き立てた。

杖先が沈む音が、やけに重い。


「……風が死んでおる。

 風が止まる時は、得てして“悪意”が溜まるものですな」


その声は、霧の中でひときわ重く響いた。

セリーヌは霧を払いながら微笑む。

「じゃあ、私は酒場へ。

 こういう村は、酒場の空気が一番“腐り具合”を教えてくれるものよ」


ミレイユは薬草籠を抱え、

霧の中へ溶けるように歩き出す。

ライネルとガルドは無言で周囲を観察し、

霧の奥に潜む“何か”を感じ取っていた。


夕暮れ。

霧はさらに濃くなり、

村の灯りがぼんやりと滲んで揺れていた。

灯りの輪郭が歪むほどの霧。

その中で、村人たちは影のように動く。

誰も笑わない。

誰も声を上げない。

誰も目を合わせない。

まるで村全体が“息を潜めている”。


*************************************


霧が深くなるほど、セリーヌの胸は静かに高鳴っていた。

黒霧村──噂では、「人の心まで曇らせる村」。

霧の匂いは湿っていて、肌に触れると冷たいのに、どこか甘い。


(こういう場所は……人の弱さがよく見えるのよね)


セリーヌは、腰に手を当てて歩くたび、腰布がふわりと揺れた。

その揺れは、意図的ではない。だが、彼女の歩き方そのものが“艶”を帯びている。

ふと、背後から視線を感じた。

振り返ると、アルノルトがこちらを見ていた。

その瞳は、戦場を知る男の鋭さを持ちながら、どこか柔らかい。

セリーヌは微笑んだ。


「どうしたの、旦那様? そんなにじっと見つめられると……照れちゃうわ」


アルノルトは咳払いした。


「……いや、何でもない」


だが、その頬がわずかに赤いのを、セリーヌは見逃さなかった。


(ふふ……可愛いところあるじゃない)



村の中心にある酒場は、霧の中でぼんやりと灯りを放っていた。

セリーヌは髪をかき上げ、胸元の布を整えた。

露骨ではない。だが、“見せるべきところ”を自然に見せる、熟練の仕草。


(情報を引き出すには……男も女も、まずは“安心”させること)


彼女は扉を押し開けた。

酒場の空気は重く、湿っていて、人々の視線が一斉に彼女に向けられた。

その瞬間、セリーヌは“歌姫”の顔になった。

背筋を伸ばし、微笑み、歩くたびに腰がしなやかに揺れる。


*************************************


酒場へ入る直前、アルノルトは小さく息を呑んでいた。


(……まったく。あやつは……油断ならん)


セリーヌの仕草は、戦場の剣よりも鋭い。

だが、アルノルトは表情を崩さない。

老獅子の顔を保ったまま、ただ静かに見守る。


(……しかし、あれほどの色気を持ちながら、

 心は誰よりも強い)


その事実が、彼の胸を熱くした。

だが、それを表に出すことはない。


「……気をつけろよ、セリーヌ」


セリーヌは振り返り、唇の端を上げた。


「もちろん。旦那様の前で、無様な姿は見せないわ」


その笑みは、霧の中で灯る炎のように艶やかだった。


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