旅立ちの準備
隠居の許可が下りた翌日。アルノルトは、息子レオンハルトを執務室に呼んだ。
部屋は静かだった。
暖炉の火が小さく揺れ、壁にかかった地図が赤く照らされている。
レオンハルトは姿勢を正し、父の前に立った。
その瞳には、軍人としての冷静さと、息子としての不安が混ざっていた。
アルノルトは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
老いた体が軋む。だが、その姿はまだ威厳を失っていない。
「レオンハルト」
その声は、戦場で兵を率いた時と同じ、深く響く声だった。
レオンハルトは息を呑む。
「……はい、父上」
アルノルトは、息子の目をまっすぐに見つめた。
「公爵位を、お前に譲る」
その言葉は、レオンハルトの胸に重く落ちた。
レオンハルトの表情が揺れる。
「……父上。
まだ……お務めは続けられるのでは」
その声には、軍人としての冷静さではなく、息子としての弱さが滲んでいた。
アルノルトは首を振る。
「もう……働きすぎた。
この体では、王国の盾にはなれぬ」
レオンハルトは拳を握りしめた。
「……そんなことは……」
否定したかった。だが、父の老いた姿が、その言葉を飲み込ませた。
アルノルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「レオン……
わしは……もう誰かのために働く人生を終わりにしたい」
その言葉は、公爵としてではなく、一人の老人としての本音だった。
レオンハルトは目を見開いた。
父がこんな弱音を吐くのを、生まれて初めて聞いた。
「……父上……」
アルノルトは続けた。
「残りの人生は…… わし自身のために使いたい」
その言葉は、レオンハルトの胸に深く刺さった。
長い沈黙の後、レオンハルトはゆっくりと膝をついた。
「……承知しました、父上」
その声は震えていたが、決意が宿っていた。
「父上の背中を追い続けてきました。
今度は……父上の自由を守るのが、私の務めです」
アルノルトの胸が熱くなる。
(この男は……もう立派に“公爵”だ)
レオンハルトは立ち上がり、父の肩に手を置いた。
「どうか……ご自分のために、生きてください」
アルノルトは、息子を抱きしめた。
戦場では決して見せなかった、父としての抱擁。
レオンハルトは、その胸の温かさに目を閉じた。
アルノルトが隠居を決めた翌日。執務室には、三人の側近が静かに集まっていた。
暖炉の火が揺れ、壁にかかった地図が赤く照らされる。
誰も口を開かない。ただ、「その時が来た」という空気だけが、重く漂っていた。
最初に口を開いたのは、戦場の副官ゲルハルトだった。
白髪混じりの短髪。鋭い目。だが、その瞳の奥には深い悲しみがあった。
「……本当に、行かれるのか」
アルノルトは頷く。
「ああ。 もう、わしの剣は鈍った。
戦場に立つ資格はない」
ゲルハルトは拳を握りしめた。
「閣下……
あなたの背中を追い続けてきた我らは……
どうすればよい」
その声は震えていた。
戦場で何度も死線を越えた男が、初めて弱さを見せた瞬間だった。
アルノルトは静かに言う。
「ゲルハルト。
お前は……わしの右腕だった。
だが、これからは……レオンの右腕になってやれ」
ゲルハルトは目を閉じ、深く頷いた。
「……承知した。
閣下の息子殿を、必ず守る」
次に口を開いたのは、諜報部隊の長エルミナ。
黒髪を束ね、鋭い眼差しでアルノルトを見つめる。
「……隠居と聞いても、驚きはしませんでした」
アルノルトは眉を上げる。
「ほう。なぜだ?」
エルミナは淡々と答える。
「あなたは……働きすぎでした。
戦場でも、政務でも、
常に“王国のため”に動いていた」
その声には、冷静さの奥に、深い敬意が滲んでいた。
「ようやく……ご自分のために生きる気になられたのですね」
アルノルトは苦笑する。
「見抜かれておるな」
エルミナは静かに頭を下げた。
「旅の間、あなたの行く先々には……
必ず“影”を置いておきます」
アルノルトは目を細める。
「……余計な気遣いを」
「いえ。
あなたは……我らの誇りです」
その言葉は、暖炉の火よりも温かかった。
最後に口を開いたのは、内政官バルド。
丸眼鏡をかけ、温厚な笑みを浮かべているが、その目は赤く潤んでいた。
「閣下……
あなたがいなければ、
この領は……ここまで豊かにはなりませんでした」
アルノルトは首を振る。
「それはお前の働きだ、バルド。
わしは戦場に出ていただけだ」
バルドは首を横に振る。
「いいえ。
あなたが“守った”から、
私が“育てられた”のです」
その言葉に、アルノルトの胸が熱くなる。
バルドは続けた。
「旅に出られると聞き……
北風屋の設立を進めております。
資金、許可、商人の手配……
すべて整えておきます」
アルノルトは目を細めた。
「……すまぬな、バルド」
「いえ。
あなたが自由に生きるためなら、
私は何でもいたします」
三人は、ゆっくりと膝をついた。
そして、胸に手を当て、深く頭を下げた。
「「「アルノルト・ヴァルムント公爵閣下。
長きにわたり……
我らを導いてくださり、
ありがとうございました」」」
その声は揃っていた。戦場で鍛えられた声。忠誠の声。敬意の声。
アルノルトは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(わしは……本当に、良い仲間に恵まれた)
アルノルトは三人を見渡し、静かに言った。
「これは別れではない。
わしは……旅に出るだけだ」
ゲルハルトは微笑む。
「閣下らしい」
エルミナは頷く。
「旅先でも……あなたはあなたです」
バルドは涙を拭う。
「どうか……ご無事で」
アルノルトは、深く頷いた。
「ああ。
わしは……まだ死なんよ」
その言葉に、三人の顔がほころんだ。
アルノルトの隠居が正式に決まった翌日。
ヴァルムント邸の作戦室に、ゲルハルト、エルミナ、バルドが集まった。
壁には北方の地図。机には候補者の資料が山積み。
暖炉の火が揺れ、重い空気が漂っている。
アルノルトは椅子に腰掛け、静かに言った。
「旅に出る。
だが、老いぼれ一人では心許ない。
若い供をつけてくれ」
ゲルハルトが頷く。
「心得ております。
ただし……旅は戦場とは違う。
“戦えるだけ”では務まりません」
エルミナが資料を広げる。
「情報、交渉、潜入、護衛……
多様な能力が必要です」
バルドが眼鏡を押し上げる。
「そして何より……
“閣下の暴走を止められる者”が必要ですな」
アルノルトは咳払いした。
「暴走などせんわ」
三人は同時に目を逸らした。
候補者①:ライネル・グランツ
― 若き剣士、獅子の牙を持つ少年
ゲルハルトが一枚の資料を差し出す。
「まずは……この少年です」
そこには、短剣を構えた若者の姿が描かれていた。
ライネル・グランツ。孤児院出身。剣術の天才。
ゲルハルトが言う。
「戦場で拾った孤児です。剣の才は……閣下に匹敵するやもしれません」
アルノルトは目を細める。
「ほう……」
エルミナが補足する。
「ただし……気性が荒い。
正義感が強すぎる。
悪を見れば突っ込むタイプです」
バルドがため息をつく。
「つまり……閣下に似ておりますな」
アルノルトは咳払いした。
「……採用だ」
三人は同時に肩を落とした。
候補者②:ミレイユ・フォルテ
― 弓の天才、静かなる風
エルミナが次の資料を広げる。
「次は……ミレイユ・フォルテ。
弓術の天才です」
資料には、弓を引く少女の姿。
その瞳は静かで、風のように澄んでいた。
エルミナが言う。
「彼女は……“狙った獲物を外さない”。
北方でも指折りの弓手です」
ゲルハルトが頷く。
「戦場での冷静さは……大人顔負けだ」
バルドが資料を読み上げる。
「ただし……
人見知りが激しい。
口数が少ない。
感情表現が苦手」
アルノルトは微笑む。
「静かな者は好きだ。
採用だ」
エルミナが小さく笑った。
候補者③:ガルド・ハーゲン
― 無口な巨人、鉄壁の盾
ゲルハルトが次の資料を出す。
「ガルド・ハーゲン。
元鍛冶屋の息子。
身長2メートル。
怪力無双」
資料には、巨大な戦槌を軽々と持つ青年の姿。
エルミナが言う。
「彼は……強いです。
ただ、それだけです」
バルドが補足する。
「無口で、表情が読めず、
何を考えているか分からない」
アルノルトは笑った。
「わしの護衛には丁度よい。
採用だ」
ゲルハルトが呆れたように言う。
「閣下…… 強い者ばかり集めてどうするのです」
「旅は戦場だ」
三人は同時にため息をついた。
候補者④:エルナ・リース
― 治癒魔術師、優しさの盾
バルドが資料を広げる。
「エルナ・リース。
治癒魔術の使い手。
性格は温厚で、仲間思い」
エルミナが言う。
「彼女がいれば……
旅の安全度は格段に上がります」
ゲルハルトが頷く。
「戦場でも、治癒師は宝だ」
アルノルトは即答した。
「採用だ」
三人は微笑んだ。
候補者⑤:セリーヌ・アーデル
― 歌姫にして詐欺師、旅の潤滑油
エルミナが最後の資料を出す。
「セリーヌ・アーデル。
酒場の歌姫。
交渉術、詐術、心理戦に長ける」
バルドが眉をひそめる。
「……詐欺師では?」
エルミナは微笑む。
「ええ。
ですが……旅には必要です」
ゲルハルトが腕を組む。
「戦えぬ者を連れていくのか?」
アルノルトは静かに言った。
「旅には……“笑い”が必要だ」
三人は顔を見合わせた。
そして──ゆっくりと頷いた。
老獅子の総評 ― “旅の牙”が揃う
アルノルトは五人の資料を見渡し、静かに言った。
「よい。
この五人なら……
わしの旅を支えてくれるだろう」
ゲルハルトが言う。
「……閣下。
彼らはまだ若い。
未熟です」
アルノルトは微笑む。
「若いからこそよい。
わしの旅は……
“老いぼれの道楽”ではない。
彼らの成長の場でもある」
エルミナが頷く。
「影の手は……
彼らの行く先々に情報を置いておきます」
バルドが言う。
「北風屋の資金は……
すでに準備済みです」
アルノルトは立ち上がった。
「よし。
旅の準備を始めよう」
その声は、老いたはずなのに、戦場に立っていた頃と同じ力強さを持っていた。




