第2話 私の知らない約束
翌朝、銀鷺商会の店を訪ねた。
港に面した立派な建物で、入口には大きな看板が掲げられている。
『前ヴァルムント公爵御用達』
一晩たっても、文字は消えていなかった。
店の責任者ジルベルト・ヴァイスは、私たちを奥の部屋へ通した。痩せた男で、口元に絶えず薄い笑みを浮かべている。
「アルノルト様にお越しいただけるとは。事前にお知らせくだされば、お迎えに上がりましたものを」
「知らせれば、看板を外したか」
ジルベルトの笑みが止まる。
「看板に、ご不満がおありですか」
「名を使うことを認めた覚えがない」
彼は部下を呼び、紙を一枚持ってこさせた。そこには、私の署名に似たものがあった。
銀鷺商会の取引を支持する、という文面である。
私は日付を見た。
「この日に、私は字を書けなかった」
ジルベルトは首を傾げた。
「ご記憶が曖昧なのではありませんか」
倒れた日から数日間、私は意識を失い、目覚めても寝台から起き上がれなかった。国王が枕元に来たことは覚えている。腕を上げることさえ難しかった。
私が紙を持ったまま黙ると、セシリアが尋ねた。
「原本はどこにありますか」
「商人組合に預けております。写しでは不足でしょうか」
「確認します」
セシリアは書面を返した。ジルベルトは私の顔を窺っていたが、こちらからはそれ以上話さなかった。
商人組合で分かったのは、看板より厄介な事実だった。
取引を支持するという書面に加え、銀鷺商会が借り入れをするとき、私の個人資産を保証に使えるという書面まで登録されている。二枚は同じ日付で、署名も印もよく似ていた。
公爵位を譲る前のことになる。商人たちが、公爵家まで商会を支えていると思ったとしても不思議はない。
「ユリアンは知らない」
私が言うと、組合の書記は困った顔をした。
「保証人ご本人から異議があったことは記録します。ただ、登録された書面を外すには、原本を調べる手続きが必要です」
正しい手順なのだろう。
それでも、私の名を勝手に書いた紙が、私の言葉より重く扱われるのは奇妙な気分だった。
外へ出ると、セシリアが言った。
「書面の日付を、まず確かめましょう。王都の屋敷には記録が残っているはずです」
「ああ」
私は看板を見上げた。
あの文字を消すだけでは、終わらないらしい。




